消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.160 イテラ

2007-09-10 00:28:02 | 金融の倫理(福井日記)


 一九九一年のソ連崩壊は、それまでの共通通貨であるルーブルの通用性がなくなることでもあった。旧ソ連圏の各国が、独自の通貨をもつようになり、それまでのルーブルによる通商関係が一時的にせよ破壊されてしまった。

 
貿易は、物々交換という原始的なものに後退してしまったのである。二・五億人が物流の沈滞によって、食料や医薬品といった生活の必需品の調達に人々は困難を覚え、飢餓状態に陥れられた。こうした危機を打開すべく創設されたのがイテラ(Itera)である。

 イテラは、キプロス(Cyprus)で登記された会社で、本部はモスクワ(Moscow)にあり、支店が、キプロスのリマソール(Limassol)と米国フロリダ州(Florida)ジャクソンビル(Jacksonville)にある。

 たとえば、イテラは、一九九四年、トルクメニスタン(Turkmenistan)に大量の砂糖を送り込んだ。この代金をトルクメニスタン政府は払わずに、イテラに自国内の天然ガス採掘権を与えた。イテラは、この種の取引を旧ソ連圏の各国政府と行い、結果的に、天然ガスのパイプラインをウクライナまで伸ばし、ウクライナに天然ガスの売りつけに成功したのである。

 同様の取引はその後も継続され、アルメニア(Armenia)、グルジア(Georgia)、アゼルバイジャン(Azerbaijan)、ベラルーシュ(白ロシア=Belorussia)、さらにはバルト諸国(the Baltic States)で、成果を収めた。一九九六年には、北部ロシアのガス油田を買収し、世界有数の天然ガス生産・販売会社の一つにのし上がった(wikipedia)。

 ただし、イテラは、ガスプロムと不正な取引をしていたと言われている。イテラは、ガスプロムからロシアの天然ガス油田を不当な低価格で入手し、ガスプロムの経営陣に何十億ドルものリベートを渡したと言われている(Starobin & Beiton[2002])。イテラに売却されたガス田は、いまでは、すべてガスプロム側に返却されている。

 グルジアのサアカシュビリ(Saakashvili)新大統領は、二〇〇四年、イテラから供給を受けたガスの代金、一億ドル強の支払いを拒否した。シュワルナゼ(Shevarnadeze)前大統領時代の契約はすべて無効だとしたのである(http://eng.primenewsonline.com/?c=&a=7283)。

 グルジアは、一九九一年の独立後、つねにエネルギー不足に苦しめられてきた。首都のトビリシ(Tbilisi)では冬の夜間など二時間しか通電できなかった。自国に発電能力がないことに加えて、ロシアが電力供給に制限を加えていたからである。輸入代金の支払いの滞りもあったが、主たる理由は、ロシアが、西側に接近しようとするグルジアに政治的圧力を加えていたからである。

 二〇〇三年、親ロシア派のシュワルナゼ大統領は、イテラと契約し、イテラによるグルジア国内でのガス生産会社の設立を認めた。しかし、民衆の暴動によってシュワルナゼが失脚し、その後を継いだ親西欧派のサアカシュビリが契約を破棄したのである。しかし、グルジアのエネルギー危機はまったく改善されていない(廣瀬陽子「旧ソ連諸国のエネルギー・フローを軸とした国際政治関係、域内協力の動きと可能性―カスピ海沿岸諸国を中心に―」; http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/kyusoren-5.pdf)。

 イテラの米国支店は、一九九二年に設立されている。この会社と取引をしていたガスプロムが第二のエンロン(Enron)事件かと騒がれる嫌疑をかけられた。

 まず、ガスプロムに対する会計事務所のプライスウォーターハウス・クーパーズ(PricewaterhouseCoopers、以下、PWCと表記する)の監査が甘かったことが疑われた。ガスプロムについては、すでに説明したが、付言すれば、二〇〇一年時点で年間二〇〇億ドルもの販売実績を誇る世界最大のエネルギー会社であり、保有するガス田の埋蔵量は、エクソン・モービル(Exxon Mobil Corp.)の六倍もある。

 このガスプロムを監査したのがPWCである。PWCもまた世界最大の会計事務所である。ロシアの企業が米国の会計事務所によって監査されているのである。PWCが、ガスプロムを監査するようになったのは、一九九六年からである。その監査報告が杜撰であるとの批判が主として、先述のエルミタージュ・キャピタルのブラウダーから出された。二〇〇二年二月のことであった。怪しい取引をガスプロムがしているのに、監査報告ではそのことに触れないでいる。

   しかし、世間はそうした不十分な監査報告しかPWCが出していないことを知っている。ガスプロムの株価が不当に安いのは、そうした悪い風評が立っているからである。PWCはそうした責任を取って監査業務から降りるべきであると、ブラーダーは、PWCを糾弾したのである。このとき、ブラウダーは若干三七歳であった。エルミタージュ・キャピタルの創業者として、ブラウダーは一九六六年からガスプロム株を買い進めていたのである。

 ただし、PWCだけを責めることはできない。先述の『ビジネスウィーク』誌によれば、そもそもガスプロムは正しい情報を開示せず、PWCとしても監査が不十分になるのは仕方がなかった。しかし、通常なら、会計事務所は正確な情報を開示しない会社の監査から降りるはずなのに、PWCはそうしなかった。その点ではPWCに責任があると『ビジネスウィーク』は書いている。

 プーチン大統領自身も、二〇〇一年六月にガスプロムは不明な取引で莫大な資金を支出しているのに、そのことを会計書類に記載していないと、ガスプロムを非難した(同記事)。ガスプロム株の三八%をロシア政府はもっていた。プーチンは、既述のように、レム・ビアヒレフ(Rem Viakhirev、Vyakhirevと表記されることもある。『ビジネスウィーク』誌は後者の表記)を解任し、新たにアレクセイ・ミレル(Alexei Miller)をガスプロムの社長につけて、ガスプロムのいかがわしい取引を暴き出させようとしていた。

 内外から批判が集中したので、PWCはロンドン支店のスタッフを中心とした調査チームを組織して、独自の内部調査書を作った。この内部資料を『ビジネスウィーク』誌が入手したのである。それによって、多くの不明取引が分かった。

 たとえば、シベリアのヤマロ・ネネツ(Yamal-Nenetsk)自治区との取引があった。通貨危機の直撃を受けて、資金繰りに困難を覚えていたガスプロムは、この自治政府への税金二億ドルを払えなかった。自治政府はガスでの現物支払いを認めた。政府当局は、このガスをイテラに非常に安い価格で売り渡した。そのイテラは、購入したガスを高値で外国に転売した。PWCの調査によれば、これは「大変な利益」(significant profit)をイテラにもたらしたという。

 これは確かに奇妙な取引であった。ガスプロムは、そもそも、適当な価格でガスを外国に販売し、その代金で税金を支払えばよかったのではないのかとの疑問が当然に沸く。しかし、PWCは、ガスプロムを擁護している。ガスプロムが税金を払うためには、高金利で借金しなければならなかった。ガスを外国に売却し、その販売額から税金を支払うというプロセスを踏む余裕は、ガスプロムにはなかったと説明していた。

 しかし、この調査報告に対して、エルミタージュ・キャピタルは、不満を表明した。エルミタージュ・キャピタルは、ロシア会計協会(Russia's Audit Chamber)に残された資料を調査し、別のシナリオを明らかにした。ガスプロムは、ヤマロ・ネネツに言われて、課税の代わりにイテラにガスを安く提供したことによって、五五億ドルもの損害を受けたというのである。

 PWCの調査は、子会社をただ同然で売り渡したことも明らかにした。ガスプロムは、子会社のガス生産会社、プルガス(Purgas)の株式の三二%をイテラにじつに一二〇〇ドルで譲渡したのである。市場価格からすれば四億ドルはしていたはずであり、この取引はイテラに莫大な利益をもたらしたと、調査報告は指摘した。

 イテラに利益を集積させようとガスプロムがしていたことは明らかである。ガスプロムは、イテラに六・一六億ドルの信用保証を与えたこともある。結果的にイテラは、世界第四位のガス会社にまで成長したのである。

 イテラは、ガスプロムの取引を調査するPWCに協力はしたが、誰が利益を得たのかということはPWC側に明らかにしなかったという。PWCがイテラの会計監査担当会社ではなかったからであるという。

 ロシアの日刊紙、『モスコフスキー・コスモレツ』(Moskovsky Komsomoletsがガスプロムの経営者と親族たちが、ガスプロムを食い物にしたいたことを暴露した(前掲『ビジネスウィーク』による)。モスクワに本拠を置くストロイトランスガス(Stroitransgaz)という石油パイプライン建設会社があった。この会社がガスプロムから一〇億ドルの建設代金を得た。この会社は一九九九年二月に解散したのであるが、この代金の半分がガスプロムの経営者とその親族の手に渡っていたことが明らかになったのである。その中には、社長のビアヒレフの娘もいたのである。

  PWCの調査報告によれば、ガスプロムの経営者は、ストロイトランスガスに大量のガスプロム株を額面価格で売却したという。一九九九年のガスプロムの会計報告では、ストロイトランス会社のことはまったく触れられていない。翌年の報告でやっと、関連会社、ストロイトランス会社を閉鎖したと記されたに留まる。元経営者のビアヒレフに『ビジネスウィーク』誌が質問したが、彼は、引退してしまったので、答えられないと言った。
 
 引用文献

Starobin, Paul & Catherine Beiton[2002],"Gasprom: Russia's Enron?," BusinessWeek, February  18.