消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.169 レオ・メラメッド

2007-09-25 21:07:01 | 金融の倫理(福井日記)


 戦後、ブレトンウッズ体制下で、通貨の先物取引を貿易業者以外の者が行うことは禁止されていた。そうした禁止を押しのけて、シカゴ商品取引所(CME)に通貨先物取引と「国際通貨市場」(the International Monetary Market=IMM)を一九七二年に創設したのが、レオ・メラメッド(Leo Melamed)であった。

 それは、貿易と結びつかない純然たる利益取得目的で通貨を売買してはならないとしたブレトンウッズの精神を完全に葬り去ることであった。メラミッドが米国の通貨当局を動かした背景には、ミルトン・フリードマンの後押しがあったことが、NHKの両者へのインタビューで分かる(相田・茂田[1999b])。

 メラミッドは、一九六九年にCME代表になるや否や、取引所で扱う商品の多様化を図るべく、通貨の先物市場を作ろうとしていた。ブレトンウッズ体制の固定相場制は早晩行き詰まると考えていたのである(同、七〇~七一ページ)。

 「(通貨取引が自由に行われるようになると、通貨)の価格が激しく変動するようになり、その変動リスクをヘッジ(回避)するために先物取引が必ず必要になる。だから通貨先物は重要な新商品になると考えたのです」(同、七一~七二ページ)。

 固定相場制の時代は、通貨の価格(他の基軸通貨との交換レート)は安定させられていた、というよりも、固定させられていた。その意味で貿易関係者は通貨変動に備えるコストがゼロに近かった。ところが、変動相場制に移行してしまうと通貨の価格は激しく変動する。そのために、貿易関係者の取引関係者は通貨を調達するだけで大きな費用を被ることになる。少しでも費用を節約するためにも先物市場が必要であったと、メラメッドは説明する。

 しかし、そうだろうか。固定相場が維持されておれば、通貨に関する費用はゼロなのである。そのような安定的な体制が、自由なものではないという理由で崩され、変動相場制への移行という正しい選択がなされた。しかし、いざ、変動相場制になってみれば、通貨価格が激動するようになった。つまり、通貨を確保する費用が激増するようになった。せめて費用を小さくするために、先物が必要になるというのである。

 しかし、これら論点搾取である。固定相場を維持しておればいいではないか。なぜ、維持しないのか。メラミッドの答えは、固定相場制には規制がつきまとうからであるというものである。ここには、通貨先物取引によって、大きな稼ぎ口ができるとの私的利益確保の意図を読み取れる。

 確かに、固定相場制の維持には規制が必要である。規制は米国とその他の国の共同で行われる。米国は、流出した自国通貨のドルを他国の通貨当局が米国につきつけて金兌換を要求してくればそれに応じる。そのためにも、米国はドルが海外に大量に流出しないように、国際収支に気をつけなければならない。もとより、他国が貿易取引をするのに必要なドル(国際流動性と呼ばれる)が供給され得る程度に国際収支は赤字にしておかなければならない。しかし、その赤字も野放図な大きさになってはならない。つまり、米国は通貨と貿易の両面で節度を維持しなければならない。ブレトンウッズにはそうした約束事があった。

 他方で、米国以外の国は、ドルと自国通貨との交換レートを固定的に維持しなければならない。これは、通貨当局がドルを売買することによって行うものである。

 具体的には、貿易黒字のケースでは、ドル手形(ドル請求権)を売って円に換えようとする傾向が生まれるので、ドルが対円で安くなる。事態を放置すれば固定相場を維持できない。従って、日本では日銀が大蔵省の依頼を受けて円売り・ドル買いで対応する。この場合、市場に円が放出されるので、インフレーション圧力が生まれる。逆の場合は逆である。

 貿易赤字のケースでは、ドル手形の国内需要が増える。つまり、ドル高・円安になる。これに対応するには、日銀はドル売り・円買いで対応する。この場合、デフレーション圧力が生まれる。インフレーションとデフレーションの圧力に耐えることが他国の約束事であった。

 しかし、この約束事はお互いに守ることができなかった。実際には、米国はドルの垂れ流しを止めなかった。諸外国は生産面で国際競争力を失いつつある米国の市場に殺到し、自国周辺との分業による相互の市場提供にそれほどの努力を払わなかった。米国も諸外国も節度を失っていたのである。

 ブレトンウッズ体制では、システムの基盤である金の相場を安定させるために、一九六一年末に国際金プールが結成された。ブレトンウッズの生命である金を投機から守るべく先進諸国が力を合わせて投機に対抗するという、国際的協力の一つが金プールであった。しかし、ポンド切り下げの余波から一九六八年三月に三波に渉る金買いが市場で起こった。

 ついに、六八年ロンドン金市場は廃止され、各国の通貨当局は金を市場に売ってもいいが、市場から購入してはいけないという金の二重価格制が施行された。それは、六八年半ばでの各国の暗黙の了解事項であった。通貨当局が売る場合は、一オンス四五ドルを超えて売ってはならないとされた。市場における金の自由価格は四五ドルを上回っていた。金の二重価格制度の意味がこの二重性である。金はこの時点で事実上の廃貨に追い込まれていた。

 米国は、金兌換を緊急停止していた。途中、SDR(特別引出権)という米国と他国との妥協による新国際準備の創出があったが(一九六九年末)、米国は金兌換再開の努力をしないまま、正式にニクソンによる金兌換停止の公式発表を行ったのが、一九七一年八月一五日であった。これがいわゆるニクソン・ショックである。

 ブレトンウッズ体制で担わされた重荷を脱ぎ捨てようとする米国と、そうはさせじとする他国、中でも欧州諸国とのせめぎ合いの中で固定相場制度の断末魔が、一九六〇年代末に、見られたのである。

 
そうしたことへの思いはいたらず、自由を求める市場の正義と昔の規制にしがみつく悪しき守旧派との対立、といった勧善懲悪的史観しかフリードマン派はもたなかった。もっていたのは、新しい大きな金儲け口が生まれるという期待感だけだったのである。

   メラミッドはフリードマンの研究室に通うことになった。世界を代表する大CMEの代表が、純粋に研究目的だけで、著名な学者の研究室を出入りするものだろうか。そして、メラメッドはフリードマンに論文を書いてもらう。A四版一一ページである。通常の論文の長さである。「通貨の先物市場の必要性」(The Need for Futures Markets in Currencies)(一九七一年一二月二三日)という題であった。まさに権威者によるお墨付きである。

 この論文にフリードマンは、メラミッドに五〇〇〇ドルを要求したという。現在のレートでも六〇万円弱である。この時点なら一五〇万円強である。論文とは無料であるというのが私の置かれた環境であるが、私には想像もできないような高額の原稿料である。

 フリードマンはこの原稿料について、次のようにNHKのインタビューに答えた。それは、米国人は金銭的報酬の多寡によって人を評価すると揶揄したサルトルの述懐を彷彿とさせるものであった。

 「私が原稿を書くときは当然のこととして料金を請求しますし、受け取ります。それはいつものことですから。日本で講演会を行ったり、『日本経済新聞』に原稿を書いたりしますが、当たり前のこととしてお金を受け取ります。私は自由市場体制の信奉者です。人々はやったことに対して支払いを受けるべきだと思います。私は人が払ってくれた金額は仕事に対する評価だと信じています。また、人はタダで受け取ったものに価値を感じたり、敬意を払ったりすることはないと思います」(同、九〇~九一ページ)。

 一九七二年五月一六日、ついにCMEに通貨の先物取引市場が開設された。さらに、債券や金利など様々な禁輸商品の先物取引が始まった。空売りを基本形とするデリバティブは、この市場をジャンプ・ボードにしたのである。一九八二年には株式指数先物が世界で初めて導入された(Leo Melamed Biography on leomelamed.com)。

 NHKもメラミッドの生い立ちを詳しく紹介しているが、私も、ウェブサイトのメラメッドの自伝で落ち穂拾いをしておこう。

 彼は、一九三二年、ポーランドのユダヤ人家庭に生まれた。元々の姓はメラムドビッチ(Melamdovich)であった。一九三九年、在リトアニア(Lithuania)日本総領事の杉原千畝(すぎはら・ちうね)「救命通過ビザ」(life-saving transit visa)を家族は発行してもらい、シベリア経由で日本の敦賀に脱出することに成功する。太平洋を渡って一九四一年春に米国に到着、そしてシカゴに落ち着いた。ずっと法律家として生活してきた。

 幼児時代の逃亡生活で、数学教師であった父(アイザック=Issac)や兄から通貨の公的レートは絶対に信用するな、どこの国にもブラック・マーケットがあるのだから、そこで通貨の交換をするようにと教えられてきた。彼の回想によれば、日本の難民局(the Refugee Committee)は、到着した難民を利用してちゃっかり闇で儲けていたという。つまり、ユダヤ人たちは、日本から出て行かなければならないが、そのために、出国ビザ(exit visa)を発行してもらうには、五〇〇〇円を銀行に支払って公的レートで五〇ドルを買わなければならなかった。その五〇ドルは難民局に預託された。なんと、難民局はその五〇ドルを闇市場に流し、五〇〇〇円よりもはるかに多い円を獲得したのである。

 そして、当のユダヤ人家族が出国するさいに、五〇〇〇円を返却した。難民局はかなりの差額を手にしたのである。それはメラメッドのウェブサイトの自伝で紹介されているのであるが、彼は、難民局はその儲けで次に流入する難民救済に使ったと弁護している。どのような局面においても、闇市場の方が、権力よりも民衆には有利なレートであることを、彼は、強調したいのであろう。

 ユダヤ人の塗炭の苦しみの経験からくる権力への憎悪。それは分かる。しかし、彼らは米国の権力にはすがる。その同じ彼らが、逆に外国政府の権力行使を強く排除するのである。ご都合主義的な反権力論=市民論である。

 引用文献

相田洋・茂田善郎[1999b]、『マネー革命②―「金融工学の旗手たち」』NHK出版。