消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 76 J. A. ホブソンによる生活の経済学構築の試み

2007-03-05 09:42:43 | 金融の倫理(福井日記)

  一連のホブソン研究を発表されている大水善寛氏は、「『産業生理学』におけるJ. A. ホブソンの経済思想」(『第一経済大学論集』第18巻第4号、http://www.aomoricgu.ac.jp/staff/oomizu/thesis/daiichi27.htmlで検索)において、経済学を他の学問分野から独立させて「全く分離した1つの実証科学」であると見なす当時の正統派経済学の思想に反発して、「人間の社会的行動」全体の分析を行う「思想の一般体系」を提唱したのが、ホブソンであると指摘された。

  そのさい、「生活が富である」というラスキンの「人道主義」の考え方にホブソンは共鳴したのであり、それまでの経済学が、人間の経済活動のほんの一部しか扱っていないことを告発したという意味で、経済学界からホブソンが「異端視」されてしまったと氏は言われる。

 氏は、ホブソンの姿勢を次のように理解される。
 「社会一般の福祉の指導原理をうちたてるにあたっては、経済・政治・倫理等々の諸々の分野から発生する諸力を十分に考慮しなければならないし、また、経済社会で不利な立場におかれたり、自由を奪われている市民等の『弱者』層の運命或いは生活を改善するための政治体制の企画は、経済学において十分に考慮されなければならないという考え方である」。

 そうした整理の上で、「生物学的有機体」としての人間、「全体性」を認識する社会科学の必要性、「集団生活」としての社会、といった3つのキー概念にホブソンがこだわったと大水氏は理解される。

 こうした、非常に現代人の問題意識に引き寄せた氏のホブソン解釈が正しいのかどうかを判定する能力は私にはない。しかし、セシル・ローズという俗物へのホブソンの激しい嫌悪感、分配面で日常的に存在している不正義へのホブソンの激しい憤り等を見るにつけ、同氏のホブソン理解には共感を覚える。ホブソンの著述の中で、容易に確認できる明確な言葉で表現されているわけではないが、ホブソンの思想を大水氏のように理解することは無理なことではない。

 私には、人間を扱う経済学で、学問的進歩があったとは思われない。
 
人間を扱う限り、古代人よりも現代人の方が人間的な成熟度が高いなどとはとてもではないが言い切れないからである。
 
  
私ごとで申し訳ないが、正直、私は、はるか昔に亡くなったわが父の人間的円熟さの域に達していない。

 父が残した断片的な教訓を反芻(すう)しながら、まだ人生を模索している。

 間違っても、学問を積んだ私の方が父よりも高尚であるなどとは思ったこともない。人間学とはそうしたものである。

 経済学はそうした人間の営為に光を当てるものでなくてはならない。経済学は、単細胞的科学であってはならないのである。

 ホブソンは、不平等な社会への怒りをぶつけ、それを理由として大学には受け容れてもらえなかった。それだけで、ホブソンを研究する現代的意味は十分あるのであって、ホブソンの過少消費説が、ケインズの有効需要不足論の先駆者となったなどと、学説的な解釈をしてしまえば、その営為自体が、ホブソンから輝きを奪うことになるだろう。

 ホブソンはケインズの先行者としての栄誉よりも、全身で不平等社会を告発したという怒りへの共感を後世の人間から得たかったであろうと、私は信じる。

 ホブソンは言う。
 「生産の目的は、消費者に『有用な物や便利な物』を提供することにある。最初は原料を処理し、そこから最終的に有用な物、便利な物に作られ、最終的に消費される。生産とはそうした連続性である。有用な物や便利な物の生産を助けることが資本の唯一の用途であるべきである。・・・ところが、過度の貯蓄が、必要とされる以上の資本蓄積を引き起こし、この過剰が一般的過剰生産の形を取る」(Mummery & Hobson[1889], p. iv)。


 ホブソンのこの文章が、貯蓄しすぎるから過剰生産は発生する、したがって、人々は、もっと消費すべきであるとの考え方、つまり、不況は過少消費からくるものであると学説史的に理解されてしまえば、ホブソンにとっては屈辱であろう。

 ホブソンは考えた。生産とは生活に不可欠の資料を提供するものでなければならない。不可欠の資料ではなく、単なる金儲けのために不必要な物を生産してはならない。にもかかわらず、そうした無駄な物資が生産されるのは、利潤の分配が不平等だからである。

 利潤をわずかしか分配されなかった人々は生活に必要な物資の購入ができない。しかし、多くの利潤の分配を受けた資本家は、より多くの利潤を得るべく金の儲かる物資を生産する。しかし、それらは生活に必要なものではなく、多くの場合奢侈品である。金持ちたちがより多くの享楽を求めて生産をする一方で、貧乏人たちには生活必需品は生産されない。

 つまり、ホブソンの過少消費とは、貧乏人が購買力のなさから消費しないという側面を否定していないものの、必要な物資を購入できないのに、生活に不可欠でない物資が過剰に生産されている現象の指摘に、より重点を置いたものである。

 すべての害悪は、資本家の過剰貯蓄にある。資本家は、なるべく、労働者を雇用したがらない。こうして、労働者の消費能力は減退する。その反面、資本家の貯蓄は増加する。そこから不必要な生産が組織されてしまう。

 不要な物の生産が「無限に増加される」、必要な物の消費は「最低限に維持されている」、「貯蓄には制限がない」。生活に不可欠な物を生産するのが「真実の資本」(Real Capital)である。そうした有用な資本を裏付けるのが「真実の貯蓄」(Real Saving)である。生活に不必要な物を過剰に生産するのが「名目上の資本」(Nominal Saving)であり、そうした源泉を供給するのが「名目上の貯蓄」(Nominal Saving)である(Mummery & Hobson[1889], p. 36)。

 見られるように、ホブソンは、過少消費=過剰貯蓄、したがって、消費者はもっと消費しろと言っているのではない。生産と投資の中身を問うているのである。

 「富裕階級の剰余所得が、社会の鬱血状態と梗塞を生み出してしまっている。労働者の分け前をいまよりも増やすか、進歩的な国家の必要な活動によって所得を使うか、あるいはその両者を併用することによって、富裕階層の所得が他の層に吸収されるようになるならば、現在のような経済的疾患は解消される。こうした健全な配分が実現すれば、経済組織は、もっと完全な、もっと規則的な、もっと生産的な活動に着手することになるだろう。こうして、他の方法ではできないような良好な秩序と進歩を、健全な経済組織は生み出すのである」(Hobson, J. A. [1922], 邦訳、86ページ)。

 私が学生時代に大きな影響を受けた岸本誠二郎氏は、ホブソンの過少消費説の正確な側面を指摘してくれている。

 「販路説では、生産されるものは当然消費され、供給は需要となると考えられていたが、ホブソンは、生産の動機として消費欲望のほかにそれとは異なる貯蓄欲望があることを指摘した。人間が銘々の消費欲望だけによって生産しているならば、販路説の仮説のようになろうが、生産が貯蓄欲望によって推進される場合には異なる。貯蓄欲望による生産は、社会においては消費欲望を超えて無限に増進しうるので、これが過剰生産を作り出すと考えた」(岸本誠二郎[1975], 64ページ)。

 人間の真に必要な資料を生産する経済組織を作ろうと試みた経済学者が、大学から拒絶されたことのおぞましさを、私たちはいま一度思い起こしておこう。若い芽を摘んではいけない。これは私自身の自戒でもある。


 引用文献
Hobson, J. A.[1922], The Economics of Unemployment, George Allen & Unwin.邦訳、ホブソ
     ン、内垣謙三訳『失業経済学』同人社、1930年。
Mummery, A. F. & J. A. Hobson[1889], The Physiology of Industry: Being an Exposure of  Certain Fallacies in Existing Theory of Economics, J. Murray.
岸本誠二郎[1975], 『現代経済学の史的展開』ミネルヴァ書房。