消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 84  漢那憲和

2007-03-29 01:33:38 | 言霊(福井日記)
 
 最近、若者の人気スポット、沖縄県の竹富島が、観光メッカとして旅行業者によって、喧伝されている。観光客が増えることは、離島にとって結構なことである。

 しかし、あまりにも派手派手しく、もて囃されていることに、私は、かなりの危惧感を抱く。

 確かに、すばらしい景色である。後に激賞する積もりであるが、日本で忘れられつつある、人のつながり(結い)が、この島には残っている。

  しかし、いまの観光ブームには、この島の文化と歴史への配慮がない。レジャーのみに傾斜する観光ブームが、日本全体が、ミーハー的に流されてしまうのではないかと、私は、恐ろしくなる。

 事実、NHK連続ドラマ「ちゅらさんで有名になった小浜島には、広大なゴルフ場がオープンしている。贅を尽くしたクラブハウスが広大な敷地に配置されてしまった。

 僻地化の恐怖が、観光ブームによって解消されていることは本当に喜ばしい。しかし、この島に群がる若者たちが、精霊と共存するこの島の心の深さにまったく気づかずに、赤瓦、水牛行脚、星砂の旅を満喫し、「楽しかった」の一言で、にこにこと、帰宅する状況は、いまの日本の象徴のように私には思われる。

 今回から、言霊の連載を行い、フィールドとして竹富島を選ぶ。
 
その最初からぼやきを出す自らの精神の卑しさに自己嫌悪しながらも、あえて、私の悲しさの吐露から連載を始める。

 沖縄学の父、伊波普猷(いなみ・ふゆう、1876(明治9)~1947(昭和22)年の墓が、沖縄本島、浦添城跡に建てられている。その墓碑銘として、沖縄の人文・社会学を樹立した東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん、1882(明治15)年~1963(昭和38)年)が記している。

 「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛した為に憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」(ウィキペディア、伊波普猷)。

 この悲しみをどれだけの人が共有しているのであろうか。劣等感と優越感、差別と被差別、辺境と中央、脱出した誇りと嫌悪、こうした悲喜こもごもの感情を誰が共有しているのだろうか。つまり、沖縄の、しかも離島の屈折した感情を理解する観光客はどのくらいいるのだろうか。

 彼が3歳の時、つまり、1879(明治12)年、廃藩置県によって、沖縄県が設置された。彼は、現在の沖縄県立首里高校である沖縄県尋常中学校(第一中学)時代の1895(明治28)年ストライキ事件の指導者の一人として退学処分を受けた。このときの首謀者が漢那憲和(かんな・けんわ)であった。

 伊波普猷を紹介する前に、彼の生涯に巨大な影響を与えた、漢那憲和について書いておきたい。伊波の青春に強烈な影響を与えた傑物だからである。

  漢那は、1877(明治10)年に那覇で生まれた。漢那という文字を見れば分かるように、この姓は、琉球北部の漢那地区の地名を採ったものである。彼の祖先は、中国と薩摩間の交易で財をなし、その財で薩摩藩の士族の位を買い、漢那地区の地頭を務めた。父、憲慎は、琉球王府の税官吏であった。当時としては、この役職は高級官吏のものであった。

 しかし、1879(明治12)年の廃藩置県によって、琉球は沖縄県になり、父は失職した。憲和の母が、茶の行商をして、父に代わって家計を支えた。子供は2人で、長男の憲和5歳、弟の憲三3歳の時、父が結核で死亡した。母はまだ24歳であった。

 腕白であった。成績は図抜けてよく、2年も飛び級した。沖縄中学では、入学者中最年少で、首席、学費免除の特待生であった。

 琉球は、明治維新までは、日中両国に従属していた。1873(明治6)年、明治政府は、台湾に侵攻、琉球を日本領として中国に認めさせた。

 この中学時代に、明治政府の元老院議員を務め、後に日本赤十字の創設者(博愛社)となった佐野常民の息子で、戦艦、松島に乗っていた士官の佐野常羽と、彼は、その船で遭った。ボートで訪問したのである。後の海軍に入隊する決心がこのときにできたと言われている。

 憲和は、中学生のボスであった。1895(明治22)年11月、沖縄中学でストライキを指導する。憲和が、まだ3年生なのに、学生会長であった。沖縄で生じた初めての学生ストライキであった。

 当時の沖縄は、沖縄師範学校と、沖縄中学の2つしかなかった。この2つの学校の校長を兼任していたのが、児玉喜八であった。この校長が、沖縄への差別教育を行おうとしたのである。沖縄の本土同化を図るべく、英語教育を廃し、日本国語のみにしょうとしたこと、それに反対した下国教頭(日本で初めて修学旅行をさせた人、旅行先は京都・大阪。貧乏な憲和の旅費を出してやった)の休職処分、沖縄文化の教育に熱心であった田島利三郎教諭を罷免しようとした。

 漢那憲和は、下国教頭と田島教諭に迷惑がかからないように、退学届けを出して、校長排斥運動を起こした。3年生以上の全員が、彼に同調して、退学届けを出すことになった。さらに、1、2年生もその後、参加することになった。結果的に、退学届けを出したのは、総勢100数十名にも上った。学校当局は父兄を呼び出そうとしたが、応じる父兄はいなかったという。沖縄人の心をこのストライキが掻き立てたのである。

 漢那たちは、ストライキ中、民家を拠点として、上級生が下級生の勉強を指導した。そして、県は、校長を更迭した。

 当時の沖縄県知事は、維新の武断派志士、奈良原繁であった。この奈良原が、漢那に惚れ込み、自宅に呼んで海軍兵学校に入ることを勧めた。スト騒動で勉強できていなかったのに、わずか4か月の猛勉で、1896(明治29)年、沖縄出身者として初めて海兵学校に合格した。

 奈良原は、薩摩藩士で、示現流達人であり、寺田屋騒動で、有馬新七以下9名を切り捨てた人である。

 
生麦事件で、英国人を最初に斬りつけたのもこの奈良原である。こうした血塗られた過去をもつが、伊藤博文、松方正義に見込まれ、中央に呼び戻さないことを条件に、沖縄県知事に就任させられた。1892(明治25)年のことであった。奈良原は、「琉球王」として恐れられるほど、苛烈な行政を行ったと言われている。この知事が我が子のように、漢那の出世の梃子入れするようになったのである。

 海軍兵学校を卒業して、遠洋航海の訓練後、漢那は、1902(明治35)年、故郷に立ち寄り、県民の前で演説した。狭い土地の沖縄は海に眼を向けて、海に乗り出そうと青年を鼓舞したという。

 漢那は、海軍大学校を卒業後、出世街道をまっしぐらであった。最後の琉球王、尚泰侯爵の5女、政子と結婚した。漢那33歳、政子18歳であった。廃藩置県によって、琉球王、尚円王統は、19代尚泰で、400年におよぶ歴史を閉じさせられた。この時、尚泰は、公債20万円、現在の都立九段高校が建っている東京飯田町に広大な邸宅を構え、侯爵に列せられた。政子は、学習院女学部卒で、皇后陛下に御前講義した経験もある。

  下種(げす)の勘繰(かんぐり)で恥ずかしいが、王様に使えていた身分の高くない役人であった父をもつ貧乏な子が、出世して、ついに、気高い王様の娘を娶ったという構図に、私には映ってしまう。それこそ、余計なことだが。

 1914(大正3)年、漢那は海軍軍令部参謀、海軍大学校教官になった。教え子には、山本五十六元帥、豊田副武大将、古賀峯一元帥がいる。

 漢那は、1924(大正13)年、まだ48歳の時、予備役に編入させられた。つまり、軍を退役させられたのである。時の海軍大臣は、薩摩出身の財部彪であった。何らかの処分だったのだろう。

 退役後、1927(昭和2)年、沖縄県選出衆議院議員に当選し、以後10年議員を続けた。1946(昭和21)年、敗戦で公職追放、1950(昭和25)年、73歳、肺癌で死去。政子夫人は、1977(昭和52)年、85歳で、逝去。(「沖縄に軍艦旗ひるがえる、『沖縄』に尽瘁した漢那憲和の献身」、http://navy75.web.infoseek.co.jp/return8kanna.htmを参照した)。

 琉球処分、薩摩と沖縄との角逐という興味あるテーマを漢那論で進めることができるのであるが、ここでは、漢那憲和と伊波普猷との接点に注視しておくにとどめた。

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1 コメント

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有難うございます (漢那の身内)
2007-11-16 17:58:41
沖縄の人でもほとんど漢那憲和を知らないのに内地の方が知ってくださってホントに嬉しく思います。私達は、祖父からよく憲和の話を聞いて誇らしく思っていました。でも周りの人は知らないと言う人が多く悲しかったです。
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