消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 75 大学での職を拒否された偉大な異端者、J. A. ホブソン

2007-03-04 23:56:06 | 金融の倫理(福井日記)

  経済学は、金儲けではなく、人間生活における生き甲斐を追求する「思想の一般体系」(general system of thought)の一部でなければならないと訴えていた一人にJ.A.ホブソン(John Atkinson Hobson)がいる。

 
経済学は、社会生活の量的側面のみでなく、質的側面をも扱うべきであり、倫理を中心とする社会一般の指導原理を打ち立てるべきであると強調したのがホブソンであった。彼の『異端の経済学の告白』という著書の序文に、その主張が展開されている(Hobson, J. A.[1976])。

 ホブソンは言う。
 「私は、現代の正統派経済学の『価値』、『費用』、『効用』といった用語を使いたくない。その理由から、私は本書の題名に異端という言葉を使うことにした。その意味で、本書の題名の異端は、突飛なものでなく、私の思考にピッタリを当てはまるものである。私は経済学の用語に、人間論的解釈を与えておきたい。私は、産業の技術、産業の成果を使う技術と、個人の社会的行動の技術とを、調和させる基礎を作り出そうと努めてきた。それは、政治的なもの、倫理的なもの、芸術的なもの、娯楽的なものを含んでいる」

(Hobson[1976], pp. 7-8. 邦訳、2ページ。 ただし、私の訳文は、邦訳書に従っていない。邦訳書の文は、解釈をするのに、かなりの困難さを覚えるからである。以下の訳文も同様である)。

 専門家にとって、ホブソンの名前は常識の部類に属するのであろうが、ここであえて、フリー百科事典『ウィキペディア』(Wikipedia)によるジョン・アトキンソン・ホブソンの紹介を参照しておきたい。

 ホブソンは、1858年7月6日に生まれ、1940年4月1日に逝去した。英国の経済学者で、帝国主義の批判者にして著述家である。

 
英国ダービー市で生まれ、1880年から1887年までオックスフォード大学リンカーン・カレッジ(Lincoln College, Oxford)で学んだ。



  大学を卒業した後に経済学の研究を始めた。ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)注1と米国のヴェブレン(Thorstein Veblen, 1857-1929)注2にもっとも強い影響を受けた。



  とくに、ヴェブレンについては、当時の世論は馬鹿にしていたが、もっとも早くホブソンが高い評価を与えたと言われている。ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903)注3の社会学の影響をも受けている。



 ボーア戦争が始まる前に、『マンチェスター・ガーディアン』誌(Manchester Guardian)の通信員として南アフリカに渡り、セシル・ローズ(Cecil John Rhodes, 1853-1902)注4 による財界支配や原住民の悲惨さをつぶさに観察し、その時の見聞録が有名な『帝国主義論』(Imperialism, 1902)である。



 ボーア戦争に反対し、第一次世界大戦時には英国の中立を主張した。それまでは長年自由党に入党していたが、第一次世界大戦後に離党した。その後、入党こそしなかったものの、独立労働党の政務調査委員会に協力し、1925年の賃金政綱の起草に大きく寄与した。

 1889年にロンドン大学LSE(London School of Economics)講師の口があったが、当時、著名であった実業家、マメリー(A. F. Mummery, 1855-95)注5 との共著『産業の生理学』(Mummery & Hobson[1889])の内容が正統派経済学からの大きな逸脱であるとして、人事委員会から忌避された。

 

  確証はないが、エッジワース(Francis Ysidro Edgeworth)注6がもっとも強力な反対者であったとされている。LSEでの職を得ることができなかったホブソンは、以降、アカデミズムの世界に職を得ることはできなかった。

 それでも、進歩的な週刊誌『ネーション』(Nation)への寄稿家として1907年から1923年まで活動し、米国のブルッキングズ研究所(The Brookinngs Institution)で大学院生に講義したり、ニューヨークの『ニュー・リパブリック』誌(New Republic)等々の雑誌にも寄稿した。



  米国におけるホブソンの活躍がフランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt, 1882-1945)注7のニュー・ディール政策に影響を与えたと、ホブソン伝の著者、ブレールスフォード(H. N. Brailsford)は主張した(Brailsford, H. N.[1948])(Wikipedia, the free encyclopedia, John A. Hobsonによる)。

  ここで、フリー百科事典、『ウィキペディア』に依拠したことに弁明しておきたい。

 
専門家の多くがこのウェブ・サイトへを軽蔑している。無名の素人たちが作る辞書だからである。確かに誤謬は多い。しかし、専門家たちが正しい知識で叙述しているとは私には思われない。数人の専門家の知識よりも何十万人もの素人の知識の方が正確で豊富であると私は信じている。

 このウェブ・サイトのフリー百科事典は、「ウィキメディア財団」(The Wikimedia Foundation、本部は米国フロリダ州タンバ)という非営利団体が、広告を載せず、寄付によって運営している。2001年1月に開始された。

  「ウィキ」とは、ハワイ語で、「すぐに」という意味である。ネット上で誰でも執筆・編集ができる「みんなで作る」百科事典で、利用は無料である。英語版で約170万項目、日本語版でも約33万もの項目が収録されており、流行語から学術的な項目まで幅広く解説されている。専門家も含めて、様々な人が最新の情報を書き込むので、米国の『ネイチャー』誌(Nature)は、「科学分野の項目の正確性においては、ブリタニカ百科事典に匹敵する」とまで評価している。

 しかし、最近、寄付金収入が細ってきたので、閉鎖の噂が絶えない(http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia/;『週間文春』2007年3月8日号、54ページ)。
 このフリー百科事典は、かつての、グーテンベルクによる『聖書』印刷、蓮如による教典の平仮名訳、に匹敵する革命的な知識の倉庫だと私は最上級の評価をしている。

 引用文献
Brailsford, H. N.[1948], The Life-work of J. A. Hobson, Oxford University Press.
Hobson, J. A.[1976], Confessions of an Economic Heretic: The Autobiography of J. A. Hobson,
     Shoe String Pr. Inc. 邦訳、J. A.ホブスン、高橋哲雄訳『異端の経済学者の告白
     ―ホブスン自伝』新評論、1983年。初版は、1938年、版元Allen & Unwin。
Mummery, A. F. & J. A. Hobson[1889], The Physiology of Industry: Being an Exposure of  Certain Fallcies in Existing Theories of Economics, J. Murray.

 
  注
 注1 ジョン・ラスキンは、英国の評論家・美術評論家である。富裕な葡萄酒商人の子としてロンドンに生まれ育った。オックフフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジ卒。画家、ターナーと密接な交流をした。1869~79年、オックスフォードで教授、ルイス・キャロルと交友。現在のオックスフォード大学のラスキン・カレッジは彼の名にちなむ。社会主義者として資財を投げ打ち、慈善事業に邁進した。晩年は湖水地方に居を構え、ナショナル・トラストを創設した。芸術を含むあらゆる崇高なはずのものが、市場の欲望によって産出されているという時代への辛辣な批判を提起し続けた。

 自然をありのままに再現することを美術の理想とした。トルストイ、夏目漱石、御木本幸吉の一人息子、隆三、プルースト、ガンジー等々がラスキンからの影響を強く受けた(Wikipedia, John Ruskin)。


 注2 コーネル大学(1891年)、シカゴ大学(1892年)、スタンフォード大学(1906年)、ミズーリ大学(1909年)で教鞭を執るが、1927年以降、カルフォルニア州パロアルトの山荘に引き籠もって貧困と孤独の生活を送った。富豪たちの生活は、未開人たちのポトラッチ(示威行為)と同じ次元のものであると軽蔑(『有閑階級の理論』(1899年)。「衒示消費」、「衒示余暇」、「金銭的競争」などの造語で大きな反響を呼ぶ。『営利企業の理論』(1904年)で、物を作る産業(Industry)と金儲けの手段としての営利企業(Business)を区分し、Businessは産業を推進せず、逆に産業を侵食していると批判した。社会資本は、けっして、利潤追求の対象としてはならないとして、技術者の集団によって、統制されるべきだとした(『技術者と価格体制』、1921年)。後の、バーリやミーンズの「所有と経営の分離」論が、すでにこの著書で示されていた。ヴェブレンは米国制度派経済学の創始者とされている。営利企業は、消費者に公正な分配をする任務には適しないと考え、公認の経済学からは異端とされ、正統派経済学からは軽蔑されていた(Wikipedia, Thorstein Veblen)。


 注3 英国のダービー市に生まれ、ほとんど学校教育を受けず、家庭で独学した。16歳で鉄道技師になる。1843年、Economist の副編集長になった。「進化」(evolution)という概念を基本とした社会学を展開した。よく誤って語られるが、「適者生存」(Survival of the Fittest)という言葉は、ダーウィンのものではなく、スペンサーの造語である(Wikipedia, Herbert Spencer)。


 注4 地主出身の牧師の子として生まれ、病弱のために、兄を頼って、気候のよい南アフリカで育った。キンバリーでダイアモンドを掘り当てて作った資金で、1880年、デ・ビアス鉱業会社を設立した。この会社は、全世界のダイアモンドの9割を支配することができていた。さらに、トランスヴァール共和国の産金業にも進出し、世界最大の産金王にのし上がった。南アフリカの鉄道・電信・新聞業をも支配した。この財力を基に、1880年ケープ植民地議会議員、1884年ケープ植民地大蔵大臣、1890年ケープ植民地首相になった。1899年、征服地の警察権・統治権をもつ南アフリカ会社設立の認可を本国政府から得て、英国本土の4倍半に相当する広大な土地を南アフリカ会社の統治下に置いた。ローデシアは、セシルローズの地という意味である。ボーア人の国、トランスヴァールを征服しようとして失敗。1896年失脚。しかし、英国本国政府は、1899~1902年にボーア戦争を仕掛けた。彼は、戦争終結の2か月前に死去したが、600万ポンドと言われた資産の大半は、オックスフォード大学に寄付され、いまなお、ローズ奨励基金として機能している。

 彼の名にちなんだローデシアについては、1964年、北ローデシアが黒人国家の「ザンビア」として独立したが、南ローデシアは、610万人の人口中、白人がわずか27万人が支配権を維持し続けた。しかし、1980年、かつて、この地で繁栄していた黒人国家ジンバブエの名を冠した「ジンバブエ共和国」という黒人支配の国家が成立した(Wikipedia, Cecil John Rhodes)。


 注5 ビクトリア時代の著名な登山家。とくに、コーカサスの山岳登山家として有名。1895年の『アルプス・コーカサス登山』は有名(http:/websites.uk-plc.net/Ripping_Yarns/products/My_Climbs_in_the_Alps_and_Caucasus)。


 注6 アイルランド人学者。オックスフォード・バリオル・カレッジ(Balliol College, Oxford)教授を務めた。新古典派の大御所、個人の意思決定を数式で表した。効用理論の無差別曲線を内容とするエッジワース・ボックスで有名。1891年創刊のEconomic Journal
の編集者で、ケインズに引き継がれる1926年まで続いた。1912~14年、「王立統計学会」(the Royal Statistical Society)会長(Wikipedia, Francis Ysidro Edgeworth)。


 注7 民主党、第32代米国大統領(1933~1945年)。富豪の家に生まれ、この時代の富豪の子弟の例に漏れず、学校に通わずに大学まで家庭教師の手で教育を受けた。1904年ハーバード大学、1908年コロンビア大学ロースクールを卒業した。しかし、名門クラブ「ポーセリアン」への入会に失敗している。このクラブには、従兄弟で、共和党の第26代大統領のセオドア・ルーズベルトが属していた(Wikipedia, Franklin Delano Roosevelt)。