消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 82 米国の1999年「金融近代化法」

2007-03-18 22:32:19 | 金融の倫理(福井日記)

  金融近代化法は、法案審議を主導した各委員長の名前を取って、「グラム・リーチ・ブライリー法」(GLBA=Gramm-Leach-Bliley Act)として知られている。

 この法律によって、戦後体制は一挙に大恐慌以前の体制に戻された。銀行、保険、証券を分離するという、恐慌を経験した後のグラス・スティーガル法」(1933年銀行法、Glass-Steagall Act)による金融業務を分けていた垣根が撤廃され、これら金融機関の相互提携・相互参入が可能になったからである。

 金融に関するあらゆる業務が、金融持株会社を創設することで、1つの母体で運営されることが可能になったのである。66年間続いてきた米国の金融制度がこの法律によって大転換した。以降、米国のみならず、世界中で、金融コングロマリットが誕生することになった。

 米国初の金融の自由化とは、グラス・スティーガル法を撤廃する動き以外のなにものでもなかった。

 大恐慌の教訓は、大胆にも踏みにじられてしまったのである。そして、日本は嬉々としてこの路線を踏襲している。

 
日興コーディアルという証券会社をシティグループという、銀行を含む巨大金融コングロマリットに売り渡すということは、活発な外資と提携して日本の金融市場を活性化させると、為政者は豪語するが、これは日本の憲法を改革することよりも巨大なインパクトをもつものである。

 つまり、シティグループによる日興の買収は、日本でも、銀行と証券、そして保険の垣根が木っ端微塵に破壊されることを意味している。日本人は、これを心底歓迎しているのであろうか。これで、金融機関はより安全になったと本気で考えているのであろうか。金融機関はますます脆弱なものになるべく奈落に落ちようとしているのではないだろうか。

 市場原理が貫徹する英米型というイメージとは正反対に、大恐慌以降の米国では、こと金融制度に関するかぎり、厳しい 規制下に置かれていた。それには3つの規制があった。

 預金獲得競争やハイリスクへの融資競争を抑制するために、金利には上限が課せられていた(1935年銀行法=Banking Act of 1935、レギュレーションQ)。
 銀行の過度の拡張を防ぐために州を超える支店設置は制限されていた(1927年マクファーデン法=McFadden Act of 1927)。

 高リスク・高利回りの危険な証券に投資していた銀行が大恐慌によって相次いで破綻したという経験から、銀行業務と証券業務の兼営は禁止された(グラス・スティーガル法4か条)。約50年間遵守された、こうした厳しい3つの規制が、1980年から次第に緩和され、ついに、1999年、規制のすべてが撤廃されてしまったのである。

 「1980年預金金融機関規制緩和・通貨統制法](Depository Institutions Deregulation and Monetary Control Act of 1980)で、レギュレーションQの、6年以内での段階的廃止を決めた。

 「1994年リーグル・ニール州際銀行支店設置効率法」(Riegle-Neal Interstate Banking and Branching Efficiency Act of 1994)で銀行の地理的業務規制がなくなった。そして、業務規制を定めていた「グラス・スティーガル法第20条」が1987年以降、相次いで修正され、金融機関の業務範囲も大幅に拡大させられた。そして、ついに、1999年の「グラム・リーチ・ブライリー法によって、巨大金融コングロマリット形成の道が掃き清められたのである。その目玉は、銀行持株会社に加え、保険会社と証券会社を子会社にする金融持株会社(financial holding company)の認可である。

 グラス・スティーガル法が廃止されて行く経緯を見ると、規制の網をくぐり抜ける新金融商品が市場を掴み、それに引きずられて、その事実に合わすべく法が変えられてきた、ということが分かる。

 金利規制については、1970年代に登場した金利規制外のCP(コマーシャル・ペーパー=企業が短期資金を市場から調達するために発行する無担保の約束手形)MMMF(市場金利連動型投資信託)等の証券新商品に向かって、金利規制のある預金金融機関から資金が流出したことによって、法に風穴が空けられた。つまり、証券化の進行が銀行規制を破壊したのである。証券に対抗して、銀行は、1978年にMMC(市場金利連動型定期預金で、金利は、6か月物財務省証券(TB)に連動する)の発行が認可された。

 地理的業務制限の緩和は、州銀行法が独自に規制緩和してしまえば、連邦法もそれに併せて変えられてしまうという、米国独特の構図から生じたものである。つまり、州間の銀行獲得競争の結果である。これには、「1977年地域再生法」(Community Reinvestment Act of 1977=CRA)の成立が大きく影響していた。CRAは、1970年代、米国で吹き荒れた市民運動、公民権運動、消費者運動が、勝ち取った法律である。それは、地域の経済発展や地域に居住する低・中所得者層への与信といった融資の地元還元を預金金融機関に対して奨励した法律である。十分な資本に裏付けられ、適切に運営されている銀行が、他州の銀行を取得して、それを支店とすることが、1994年の上記の法律で認められるようになったが、それでも、認可条件にCRAの検査を受けることが義務づけられていたのである。また、預金量の集中制限もこの時点では課せられていた。銀行は、全米預金量の10%以内、州預金量の30%以内という預金量制限もまだ存在していた。しかし、こうした市民の側に立っていた法律も次第に形骸化して行った。

 業務制限については、伝統的な預貸業務では利益が上がらなくなった銀行側の事情から、緩和されるようになったのである。1985年、銀行監督当局は、銀行持株会社の子会社ならば、ミューチュアル・ファンド(常時、換金できる投資信託)の仲買(ブローカレッジ)業務が認可された。ミューチュアル・ファンドは、株価上昇を受けて貯蓄商品として市場の人気をさらっていたのである。さらに、預金金融機関がその保有する金銭債権を分離し、証券化して発行するという債権の証券化が隆盛を見ることになった。とくに、住宅証券が大きな比重を占めるようになった。

 こうして、「銀行の証券業務への参入やその保有債権の証券化の進展は、銀行が、自らリスクをとって貸出を行う伝統的な間接金融から、投資家がリスクを負担する直接金融にその業務をシフトさせていることを意味する」(樋口修「米国における金融・資本市場改革の展開」、『レファレンス』平成15年12月号、59ページ)。

 樋口修氏の上記論文には、銀行収益の中身の変化が示されている。Federal Reserve Bulletinから採られた数値である。1985年の米国の商業銀行の粗収入に占める融資収入(ローン)の比率は65.7%であったが、2002年には52.2%にまで下落した。他方で、証券を扱う「その他の非金利収入」の比率は、同期間に、10.4%から20.4%に増大した。証券化の流れが、銀行業務を追いつめたのである。

 しかし、証券化の流れが自然かつ合理的なものであるので、その流れに沿うことは不可避であると本当に言えるのであろうか。生産と雇用確保につながらない、単にカネ儲けをするだけの証券化を、新金融商品として、金融当局が認可する必要性などそもそもあったのだろうか。銀行が、証券の膝下に屈するということは、いわゆる「銀行と証券の利益相反問題」の次元を超えて、銀行が証券の利益を擁護する事態を招くだけではないのか。結果的に生産に資金が回らなくなる。はたして、これが、金融の進化と言えるのであろうか。

 SEC(米国証券取引委員会)は、エンロンの最大の取引銀行であったJ. P. モルガン・チェースとシティグループが、同社の粉飾決算の手助けをし、同社株式の詐欺的高騰に関与したとして同社に罰金を言い渡した。モルガンは1億3500万ドル、シティは1億2000万ドルを支払ってSECと和解したという経緯がある。2003年7月のことであった(樋口論文、61ページ)。