消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 85 島の方言撲滅運動

2007-03-30 00:08:16 | 言霊(福井日記)

 沖縄学の創始者は、伊波普猷(いは・ふゆう)である。しかし、本当の創始者としての栄誉は、伊波の中学校時代の国語教師、田島利三郎に捧げられなければならない。田島先生がいなければ、沖縄学の伊波は生まれなかったかも知れないからである。

 1893(明治26)年、新潟県出身の田島先生は、沖縄に赴任した。琉球で師範学校の教師をしていた友人から、誰も研究していない琉球語の本が50冊ほどあるとの話を聞いたからである。先生の沖縄中学校時代の教え子に伊波普猷がいた。

 田島先生は、1900(明治32)年、「琉球語研究資料」を雑誌『国光』臨時増刊号付録に発表した。この論文は、はるか後に、『琉球文学研究』(第一書房)として1989(平成元)年に改題出版され、琉球文学研究の必読文献なっている(嘉手苅千鶴子、「21世紀の琉球文学研究」(http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/kyogikai/no43-p01.htm)。

 田島先生は、『おもろさうし』を研究した。これは、首里王府で編纂されていた神歌集である。「おもろ」とは、神、王、英雄、自然を歌ったものを指す。

 本土から赴任した中学教師の多くが沖縄の文化に差別感をもっていたが、田島先生は違った。生徒たちに沖縄文化のすばらしさを訴えていた。ところが、先に紹介した校長の児玉喜八が、生徒の前で、「皆さんは、標準語さえまともに話せないのに、英語まで勉強しなければならないのは気の毒だ」と語り、英語の授業をなくそうとした。それに反対した下国良之助・教頭と田島先生を校長は罷免しようとした。

 そこで、漢那や伊波が、校長追放運動に立ち上がったのである。戦いは学生側の勝利に終わったが、伊波は退学処分を受けた。1895(明治28)年のことであった。

 そこで、翌年の1896(明治29)年、上京し、明治義会中学に編入学、1897(明治30)年に卒業、3年のブランクを経て、1900(明治33)年、京都の第三高等学校に入学、1903(明治36)年、東京帝国大学文学科言語学専修課程に入学した。

 東京で、田島先生に再会し、強く沖縄研究を勧められた。政治家になろうとしていた伊波は、田島先生の沖縄への強い愛着に感動して、言語学の道に進路を変更したのである。「沖縄を知るには、まず古い言葉が分からなければならない」ことに気付いたからである(「沖縄県立図書館広報」、http://rca.open.ed.jp/city-2001/person/08iha/08iha_1.html)。

 伊波普猷は、1876(明治9)年、那覇市西村に生まれた。伊波3歳の時、1879(明治12)年に廃琉置県が行われている。琉球の帰属が日本になったことに清国政府が抗議し、それを受けて、なんと日本国政府は、翌年の1880(明治13)年に、宮古・八重島諸島、つまり、先島(さきじま)諸島を清国領とするという分割案を提出している。最終的には、日本は武力行使でこれら諸島を日本領とした。

 第二次世界大戦終結近くの1945(昭和20)年、米国のルーズベルト大統領が中国の蒋介石に、日本が敗戦すれば、沖縄を中国に帰属させようかと打診したとも言われている。

 ここで、日本の南西諸島の呼び名を紹介しておこう。
 
南西諸島は、九州の南方から台湾の東方にかけて点在する諸島の総称である。北から南へ、大隅諸島、トカラ列島、奄美諸島、沖縄諸島、宮古列島、八重島列島、尖閣諸島、少し離れて大東列島がある。学術的に確立した呼称はないのだが、一般には、鹿児島県に属する諸島が薩南諸島、沖縄県に属する諸島が琉球諸島と呼ばれている。琉球諸島には、沖縄諸島、先島諸島、大東列島が含まれる。先島諸島は、宮古列島、八重島列島、尖閣諸島から成る。

 この八重島列島から、石垣島、与那国島、尖閣諸島を除く諸島が竹富町である。この町に属する主な島々は、西表(いりおもて)島、竹富(たけとみ)島、小浜(こはま)島、黒(くろ)島、波照間(はてるま)島、鳩間(はとま)島である。後に紹介するが、竹富町の役場は、なんとこれら諸島ではなく、石垣島に置かれている。つまり、自己の島々の外に役場がある。1938(昭和15)年に、竹富島に置かれていた竹富村役場が石垣島の石垣町に移転したのである。そして、1948(昭和23)年7月1日に竹富町になった(ウィキペディア、竹富町)。

 話を戻そう。
 1903(明治36)年、200年続いた人頭税がようやく廃止された。日本国政府は、琉球王朝を廃止したのに、その後、24年間も人頭税を沖縄に課していたのである。これだけでも、沖縄が本土によっていかに差別・搾取されていたかが分かるだろう。島民は芋ばかり食していた。裸足の生活であった。台湾に出稼ぎに出る島民が多かった。ここで、島民の芋にまつわる哀しいエピソードを紹介しておこう。

 1921(大正10)年、第一次世界大戦後の欧州の復興を学ぶべく、皇太子時代の昭和天皇の欧州外遊が決まった。皇太子が乗る船は「御召艦」と呼ばれた。この御召艦が、「香取」で、漢那憲和(当時海軍大佐)が艦長であった。漢那は貞明皇后に、外遊の途中、沖縄に寄港していただけないかと懇願した。皇后は賛成し、皇太子も快諾した。同年、3月3日、艦隊は横浜港から出発し、3月6日、沖縄の中城(なかぐすく)湾に入港投錨した。

 中城湾一帯は、景観に恵まれ、古くは貝塚時代(約3,500年前)から人が住みついていた。琉球王朝時代の中城間切(まぎり、琉球王朝の行政区域で、いまの村に当たる、後述)には、護佐丸や中城城などの歴史を彩る人物や史跡が登場し、琉歌にも、

 「とよむ中城 吉の浦のお月 みかけ照りわたりて さびやねさみ」
 とある。

 現代語に訳せば、「世に名高い中城城から、吉の浦を眺めると、月が美しく照り渡り、何と平和なことか、災いなどあろうはずがない」となる。

 1853(嘉永6)年、黒船でペリー提督一行が沖縄に立ち寄った際、中城城を測量し「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべき構造のものであった」と『日本遠征記』に記されている。琉球石灰岩を使った城壁は、沖縄では唯一完全に近い形で残された貴重な遺跡で、1972年5月に国の史跡に指定されていて、いまは世界遺産にも登録されている。

 申し訳ない。再度、横道に逸れる。
 上に記した護佐丸(????年~1458年)というのは、護佐丸盛春(ごさまる・せいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)のことである。15世紀の琉球の按司(あじ、宮家のこと)で、恩納村(おんなむら)出身である。

 中山(ちゅうざん)王尚泰久(しょうたいきゅう)(琉球王府)を脅かし始めた勝連城(かつれんぐすく)城主の阿麻和利(あまわり)の侵攻に備えて、護佐丸は中城城の兵力を増強していた。ある日、阿麻和利は変装して首里城に登り、「護佐丸が謀反を企てている」と王に讒言した。王は阿麻和利の言を信じ、中城城攻略を阿麻和利に命じた。1458年8月15日の夜、護佐丸が月見の宴の最中に、阿麻和利は王府の旗を揚げて中城城を攻撃した。王府への忠誠心に篤かった護佐丸は手向かうことができず、幼児だった三男の盛親のみを乳母に託して落ち延びさせ、妻子もろとも自決した。その阿麻和利も、その後には結局、王府軍に攻められて滅びてしまった。この乱は、後に「組踊り」などの題材にも取り上げられ、2005(平成)7年に開催された第一回中城城祭りにおいて、中城村の伝統芸能である組踊「護佐丸」が52年ぶりに上演された(http://www.vill.nakagusuku.okinawa.jp/content/castle/index.html)。

 組踊りとは『音楽、舞踊、台詞で構成される音楽劇』である。沖縄に古くから伝わる伝統芸能で、日本本土でいうところの能や歌舞伎のようなものである。実際にこれらの影響を強く受けている。それでも、音楽は沖縄の三絃(さんげん)を中心としたもの、舞踊は琉球舞踊、台詞も沖縄の言葉を使い、物語の構成なども独特で日本本土の芸能とはかなり雰囲気が違っている。今、100位の作品が確認されている。沖縄各地域の歴史や言い伝えなどを題材にしていて、とくに仇討ち物が数多くある。出演者は、最初に演じられた琉球王国時代はすべて男性であった。現在でもやはり男性が多いが、女性役などを女性が演じたりすることもある。逆に箏の演奏者は圧倒的に女性である。組踊りは、国指定の重要無形文化財に指定されていて、その技能保持者やそれに続く技能伝承者の公演が年に一回行われる。その他には不定期でいろいろな団体やグループ単位での公演が行われている(http://www2.odn.ne.jp/kanimachi/kumi/kumi-f.html)。

 さて、また、元に戻ろう。
 皇太子一行は、与那原(よなばる)駅から那覇駅まで列車で、那覇駅から人力車で沖縄県庁に向かうことになった。人力車の車夫選定は、一行到着の2、3か月から行われた。当時、沖縄本島には、900名ほどの車夫がいたと言われている。皇太子を乗せる人力車の車夫には、玉城という人が選ばれ、人力車の後押しとして、在郷軍人で金鵄勲章(きんしくんしょう、戦前の日本において大日本帝国陸軍・海軍の軍人、軍属に対してのみ授与された唯一の勲章。名前の由来は神武天皇の東征における伝説に基づく)を受けた2名が選ばれた。

 ここからが、哀しいエピソードである。当時の島民の多くは3食ともに芋であった。芋は「おなら」(屁)を作り易い。皇太子におならを放(ひ)ることは不敬に当たるとして、車夫たちは、県庁内での2週間に及ぶ合宿生活で、芋食ではなく米食を与えられた。県庁で、皇太子は有位有勲者から拝謁された。その中には、漢那の母、オトもいた。車夫の玉城は、一躍人気者になり、那覇港築港の現場監督に抜擢された。

 漢那憲和は、次のように記した。
 「余は、青春時代の羨望の的であった帝国海軍の将校として、今や郷国の海湾に、我が日本帝国のお若い殿下のお召艦『香取』を浮かべる時期に遭遇しては、感慨の尽きるところを知らなかった。しかも、そこには余を少年時代より、か弱き女の手塩をかけて育て上げた余の母が待っていたのである。思えば涙の滂沱(ぼうだ、涙がとめどなく流れるさま)たるものがあった」(「沖縄に軍艦旗ひるがえる、『沖縄』に尽瘁した漢那憲和の献身」、http://navy75.web.infoseek.co.jp/return8kanna.htm)。

 廃藩置県(1879、明治12年)から10年後の1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布され、形の上では、島民も琉球人から日本人になった。

 
永年、日本と中国の両国に帰属することを余儀なくされ、台湾と往来していた南の島民にとって、人為的に作られた、国とか国民といった概念は迷惑なことであっただろう。

 にもかわらず、強引な本土化が進められた。尋常小学校では、島言葉が禁止された。「方言絶滅運動」が本気で展開されたのである。方言を使えば、小学生は、「方言札」をつけさせられた。標準語を話すようになるとその札は外された。子供たちに言葉上の差別意識をそれは植え付けた。本土言葉を話す子供が、島言葉しか話せない子供を露骨に馬鹿にするようになった。

 現在でも、米国支配層の後押しで高い地位を得た権力指向者たちが、英語の使用を義務づけたがるのもこれと同じ精神構造である。

 
ちなみに、プロ野球で阪神フアンや、広島フアンが熱狂的にフアンになったのも、これら両球団の選手たちが、アンチ巨人意識でもって、大阪弁、広島弁を使おうとするからである。

 明治、大正、昭和の初期、島の娘たちは、台湾総督府のある台北に働きに出された。琉球人の下働き娘は「ねえや」と呼ばれ、本土からきた「ばあや」に監督されていた。「ねえや」の下に中国人、その下に朝鮮人、そして最下層に現地の台湾人がいた。差別は当たり前の時代であった(みやら雪朗、「天(ていん)ぬ群星(むるぶし)や数(ゆ)みば数(ゆ)まりしが―私の『親守歌』をめぐる数々の歌―」、『星砂(ほしずな)の島』第10号、特集・伝統文化と経済、全国竹富文化協会、平成18年8月、54~57ページ)。