消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 78 「経済」とは「抑制」のことであり、「ポエム」である─ラスキンの感覚

2007-03-09 00:27:08 | 金融の倫理(福井日記)


 衆知のように、ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)は、政治学・経済学と芸術とを融合する理論の構築を目指した人であった。それは、彼が、初期の著作から一貫して希求してきたテーマであった。

 彼が、このテーマを最初に意識したのは、彼の述懐によれば、じつに満9歳の少年時代であった。彼は、後の The Queen of the Air(Ruskin's Works, vol. 19, pp. 396-97)にこの9歳の時に書いた詩を紹介している。

 
 
 きちんと韻を踏む英語の詩を日本語に訳すことは至難の業である。
  韻を踏むのが困難な日本の詩は、文字と字間、さらには、母音のつながり方に、美しさを表現するものだからである。

  拙い訳詞だが、たったこれだけの長さの翻訳に、とてつもなく膨大な時間を費やしたということで、諸氏の寛恕を乞いたい。

 9歳の少年の若い感性が描いた自然の恵みの中での人間の生活の営み。これが彼の終生のテーマとなった。

 彼の処女作は、The Poetry of Architecture, 1837-38である。ここで面白いことを彼は言った。建築の装飾のことである。

 経済上のコストだけを考えれば、建築物に装飾などはない方がいいに違いない。しかし、装飾を施すことによって、人間の満足度が違う。装飾にかけた金銭の額以上に、装飾が人に満足を与えるからである。装飾を施すのなら、立派なものにしなければならない。

 「ファージング(4分の1ペニー貨)を節約して、(駄目な装飾にしてしまえば)1シリングに匹敵する打撃を受ける。これは悪しき行為である」(Works, vol. 1, pp. 184-85)。
 
  これが、彼の言う「芸術の経済学」である。

 人はなぜ、建築物に、わざわざ費用をかけて装飾を施すのであろうか。人は、みずからの制作物に自然を取り入れたいという性質をもっているからであると、ラスキンは答える。

 この処女作にラスキンは、本名ではなく、ペンネームを使った。kata phusinという名前である。それは「自然に従う」という意味である。

 
ここで言う「経済」(economy)とは、自然が費やす費用のことである。自然は、必要最小限の費用で最大の効果を挙げている。それは、抑制である。装飾に費やされる費用は、自然に近づけるためのものである。その意味において、「経済」という用語が使用されている。

 過度に金をかけてゴテゴテとした装飾は野卑であるとも言い、自然が醸し出す調和が必要だというのである。

 「自然は、色彩をみごとに節約している」というのが、『絵画の基礎』(The Elements of Drawing, 1857)の主張点であった(Works, vol. 15, p. 153)。

 これは、『自然の色彩節約』(Nature's Economy of Colous)でも再論されている(Works, vol. 15, p. 217)。

 
1857年の『芸術経済論』に付け加えた論文に、「文学の経済」("Economy of Literature")とういうのがある。むしろ、「言葉の抑制」と訳した方がいいのかも知れない。文学では多様なレトリックを駆使するなというのが、その論文の内容である。これは、スペンサー(Harvard Spencer, 1820–1903)の『型の哲学』(The Philosophy of Style, 1858)を援用して、「最少の使用言語で最大の表現を実現させることが著者のもっとも崇高な目標であると認識すべきである」と言った(Works, vol. 16, Appendix 6)。



 『建築の七灯』(The Seven Lamps of Architecture, 1849; 邦訳、岩波文庫、1997年)、『ヴェネツィアの石』(The Stones of Venice, 1853)の一つの章「ゴチックの本質」(The Nature of the Gothic)、『芸術経済論』(The Political Economy of Art, 1857;邦訳、巌松堂、1998年)、『機能の数』(Munera Pulveris, 1862-63)、『胡麻と百合』(Sesame and Lilies, 1865)、等々の著作でも、「抑制」と品格の問題が、様々な旋律の下に奏でられ続けた。

 ラスキンは、仕事を遂行する環境の良否が、作品の質を決定するという意味で、経済と芸術は同じ論理をもつと考えていた。

 ある時代に、とてつもなく素晴らしい作品が輩出するのに、他の時代には凡庸な作品しか出ていない理由をラスキンは、『ヴェネツィアの石』で論じた。

 
芸術家や職人たちが、最高の仕事場と仕事環境に恵まれた場所と時代に最高の作品が出てくるのであり、他の時代は、仕事場所の環境の悪さが作品を駄目にしているというのである。

 画家にも、詩人にも、職人にもすべて同じことが言える。『近代画家』(Modern Painter)でも、ラスキンは、「詩人にせよ、職人にせよ、物を創り出す人々は、あらゆる物を人生に資する使い方をする。時計職人は鋼鉄を、靴職人は皮を、ただ素材として使うのではなく、生活の質を高めるために使用するのである」(Works, vol. 7, p. 215)。

 しかし、ラスキンのこのテーマは、マルク・シェル(Marc Shell)によれば、彼を崇拝する人たちによってですら、十全に理解されてきたわけではないという(Shell, Marc[1977], p. 65)。

 
例えば、マルセル・プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)。彼も、ラスキンを高く評価する人であったが、ラスキンのそうした姿勢には否定的であった(Proust, M.[1971], p. 106)。

  おそらく、現代になればなるほど、ラスキン的な矜恃は、鼻でせせら笑われるだけであろう(「松岡正剛の千夜千冊『近代画家論』ジョン・ラスキン」、http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1045.html)。凡庸ではない才能をおもちの松岡氏ですら、そのブログで、嘆息される。

 「トルストイやプルーストやガンジーが学んだラスキンを、いったいどのように今日の社会にふり向ければいいのだろうか。・・・ラスキンが同時代に背を向けてしまったように、ラスキンを現在の社会に向けるというそのことが、非ラスキン的なことだと、・・・そういうことだったのだろうか」。

 いや、待って欲しい。
 
昔、死の前夜にあった特攻隊員の多くが『歎異抄』を読んだという事実は限りなく重い。多くの人は、最後の瞬間には、酒で怖さから免れようとはしなかった。悄然と死を見つめた。それが、人間の「自然」(nature)であると私は信じたい。

 原爆を積んだ戦闘機のパイロットに白いハンカチを振って、攻撃を辞めろと言うと記者に語ったガンジーの心のすごさに私はやはり魂の震えを感じる。

 主よ、彼らは知らないだけなのだから、彼らをお許し下さいという、キリストの言葉は永遠の真理である。そうした真理の前に、私たちは素直にひざまずこうではないか。

 引用文献

Proust, Marcel[1971], Contre Sainte-Beuve, précédé de Pastiches et mélanges et suivi de
          Essais et article, ed. Clarac, P.
Ruskin, John[1903-10], The Works of John Ruskin, 39 vols, ed., by Cook, E. T. & A.
          Wedderburn, George Allen & Unwin.
          The Poetry of Architecture, 1837-38, in vol. 1.
          The Elements of Drawing, 1857, in vol. 10.
          "Economy of Literature," in vol. 16.
          The Queen of the Air, in vol. 19.


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