消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 86 琉球処分

2007-03-31 23:41:13 | 言霊(福井日記)

 フリー百科事典『ウィキペディア』の「沖縄の歴史」は素晴らしい記述である。非専門家による自由な書き込みが、専門家だけによる歴史書を上回った好例である。

 「沖縄とは、琉球に対する日本本土側の呼称。琉球処分後、日本の領土であることを明確化するため、琉球から沖縄に呼称が改められ、今日では一般化している」という叙述にまず圧倒される。さらに続く。「古来中国では沖縄を『大琉球』、台湾を『小琉球』と呼称していたため、両者が史書等で混同されることも多かった」と。

 ウィキペディアは、沖縄の呼称の出典として、伊波普猷の後継者、東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)、『南島風土記』沖縄文化協会・沖縄財団、1950年、16ページ、「地名『概説『沖縄』」を明記している。

 7世紀の中国の『隋書』に「流求」という表記がある。唐の『新唐書』で「流鬼」、『元書』で「瑠求」と書かれていた。そして、明時代になっていまの「琉球」の文字が見える。ただし、ここでの琉球がいまの沖縄を指すのかは分かっていない。

 14世紀、明と貿易する沖縄の王府が、自らを「琉球国」と呼称した。
 日本本土側では、鑑真の伝記、『唐大和上東征伝』(779年)に、「阿児奈波」という言葉が見られる。おそらく、いまの沖縄のことなのだろう。「沖縄」という文字は、新井白石が最初に使ったと言われている。『南島誌』(1719年)においてである。『平家物語』(長門本)にある「おきなは」の言葉に「沖縄」の字を白石が当てたとされている。平家物語には、読み本、語り本ごとに、いくつもの編纂本があり、長門本を白石が利用したものと思われる。

 1879(明治12)年、明治政府は、1872(明治5)年の琉球王国廃止・琉球藩設置を改め、琉球藩を廃して、沖縄県に編成替えした。この時、日本の中央政府が、「沖縄」という呼称を初めて用いたのである。

 沖縄の統一政府は、1429年、尚巴志(しょうはし)が首里城を王都にした時から始まる。

 
第6代尚泰久(しょう・たいきゅう、1453~60年在位)
は、それまで島であった那覇と本島を結ぶ長虹堤を建設した。この工事を円滑に遂行すべく、日本から天照大神を柱とする沖縄初の本土型神社「長寿宮」を建立し(1451年)、以後、「波之上宮」等の琉球8社を建立した。

 さらに、貿易立国を宣言する万国津梁之鐘を鋳造した。1470年に尚泰久の重臣、金丸(後の尚円王)が即位するまでを第一尚氏王統時代という。

 1470年に開始された、第二尚氏王統は、1477年に王位についた真嘉戸樽(まかとたる)時代に最盛期を迎える。この王は、第3代・尚真王(しょうしんおう、在位1465~1526年)として、活発な交易を行った。福建(福州)に拠点を置き、明との交易にいそしんだ。北方民族との戦に忙しい明に火薬の原料である硫黄や軍馬を輸出していた。

 この王は、女官が王と殉死する習慣を廃止、御獄信仰を中心とした宗教を整備した。御獄とは、地域によって異なるが、「うがん」、「おがん」、「うたき」などと呼ばれる島の聖地として、人々の信仰の場所、祭祀が行われる場所になっている。御獄の中には、お祭り以外は立ち入ることが禁止されていたり、木を切ったり、石を拾うことなども禁止されている箇所もある(美(ちゅら島物語、http://www.churashima.net/shima/hatoma/f_hatoma/1.html)。 尚真王は、刀狩りもしている。

 1609年、琉球は、薩摩藩の侵攻を受け、その支配下に入る。1610年、第二尚氏第7代尚寧は、薩摩藩主・島津忠恒(しまづ・ただつね)に伴われて徳川家康、秀忠に謁見、翌年、尚寧は、琉球に戻され、島津へ忠誠を誓う起請文を提出させられた

「掟十五条」によって、琉球貿易は薩摩藩の監督下に置かれることになった。王朝は薩摩への朝貢を義務づけられた。そうした重圧の下、琉球は、先島諸島の住民に人頭税を課すようになった。鎖国時代、薩摩藩は、琉球が行っている貿易の利益を搾取して潤った。

 そして、明治政府になって、いわゆる「琉球処分」が行われた。
 
1871(明治4)年、全国で廃藩置県を実施した明治政府は、1872(明治5)年、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。王府を日本の領土とする藩に変えたのである。これに清が反発。琉球は清領であると抗議。これに対して、明治政府は台湾出兵を行って対抗した(1874(明治7)年)。台湾人が琉球漁民を殺害したことへの報復、つまり、日本人殺害の報復という体裁を取ったものである。そして、1879(明治12)年、明治政府は、軍隊を琉球に派遣して、琉球藩を廃止して、鹿児島県に編入した。

 さらに、同年、沖縄県を設置、島民の抵抗を退けて、琉球を滅亡させた。この抵抗の中では、「サンシー事件」が有名である(後述)。琉球藩設置(王府廃止)から沖縄県設置までを「琉球処分」と島民は名付ける。琉球藩設置を「第一次琉球処分」、沖縄県設置を「第二次琉球処分」と区分している。

 清は、この処分に猛反発した。明治政府は、沖縄県設置の翌年、1880(明治13)年、先島諸島を清に割譲すると申し出た。しかし、一旦合意していた清が態度を変えて、その条約に調印せず、結局は、1894(明治27)年の日清戦争で、清は琉球の領有権を日本に認めさせられた。清が合意を翻した背景には、清にお亡命していた宮古・八重島島民の懇願が効をを奏したとも言われている(西里喜行、「琉球処分の前後」、『島のうつりかわり』、
www.napcoti.com/text/history/uturikawari.htm)。

 先島諸島は、明治政府には、島民の反抗にとって頭痛の種であった。とくに、人頭税廃止を求める島民決起集会が宮古島で開催され、1890年代に近代的法制を求める運動が高揚した(沖縄の歴史、ウィキペディア)。

 明治政府は、沖縄県の自治をほとんど認めていなかった。1888(明治21)年、本土では、地方自治を認める市制・町村制が施行されたのに、1889(明治22)年の勅令第1号によって、島嶼地域は、自治が認められず、県の支配下で、島庁が設置されることになった。

 沖縄でも、1896(明治29)年の勅令第13号「沖縄県ノ郡編成ニ関する件」によって、国頭(くにがみ)郡、島尻(しまじり)郡、中頭(なかがみ)郡、宮古郡、八重山郡の5つの郡が設置され、宮古郡と八重山郡には島庁と、その長である島司という職制が置かれた。島の自治など、はなから無視され、県の直接統治となったのである。また、那覇市の前身である那覇区、首里市の前身である首里区が置かれた。

 1907(明治40)年の勅令第46号は、沖縄に他の島嶼地域と同じく、「沖縄県及島嶼町村制」が示され、翌年の1908(明治41)年、それまでの間切(まぎり)が廃止された。

 間切というのは、琉球王国時代の行政区分の1つで、現在の市町村に相当するものであった。例えば、八重山諸島では、大浜間切、宮良間切、石垣間切の3つがあった。これらが、統合されて、八重山村になった。

 しかし、八重山諸島全体を1村にしたことはかえって不便を生じ、1914(大正3)年、八重山村は、石垣、大浜、竹富、与那国の4か村に分割された。この年、新たに誕生した竹富村の役場は竹富島に置かれていた。

 以後、24年間、竹富島が村行政の中心として機能していたが、竹富村に属する他の島々から交通が不便であるとの苦情が生じ、1938(昭和13)年、役場を石垣島の石垣町登野城に移転させた。いまでも、竹島町に属する島々(人が住む8つの島)に行くには、一旦、石垣島に渡る必要がある。

 1920(大正9)年、島嶼指定が解除され、本土なみの町村制が施行された(島嶼町村制、間切、ウィキペディア)。
 島の発展など、中央政府は意識していなかったのである。

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