消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

見えざる占領 08[教育篇] 売り渡される日本の教育(3)

2006-09-15 23:17:45 | 時事

 グレン・フクシマという日系3世の米国人がいる。米国政府が発信する政策方針を日本政府から委託された政府審議会委員が受け止め、日本政府に飲み易く加工すべく、米国政府から委嘱された代理人と交渉し、その結果が、内閣府に回され、首相からその方針に従えと各省庁に指令されるというのが、この10年間にわたって普通に見られる日本の政策決定の構図であった。この構図の設計者が、グレン・フクシマであったと言っても誤りではないだろう。


 1994年1月、彼が発足後1年のクリントン政権に提出した『対日政策レポート』からこの構図が作られた。クリントンは、このレポートの中には、「日本の反感を招かずに、目標をもっとも有効に達成するには、日本に対する外圧を、どの程度、どのように、そして、いつ、かければいいのかを、(クリントン)政権は分かっていない」という文章がある。クリントン大統領は、この個所に下線を引き、クリストファー国務大臣やカンター通商代表にそのレポートを見せ、彼らだけでなく、全閣僚が閲覧するようにと命じたとされている。


 フクシマは、1949年に米国のカリフォルニア州に生まれた。スタンフォード大学に合格していたが、「ディープ・スプリング・カレッジ」という非常に小さい私立短大に進学した。教師5名、生徒20人という極端に小さい学校である。全米大学進学適正試験(SAT)で全米1、2番という成績を取った大秀才が集まる短大である。集まるといっても、1学年10名程度しか入学できない。ほとんどの生徒はハーバードエールといった有名大学にも合格したのに、この短大に入学している。卒業後は4年制大学に編入学するのである。しかし、彼は、4年間以上、大学に在学すると、当時、真っ盛りであったベトナム戦争に徴兵される可能性を恐れて、早く大学を卒業すべく、スタンフォード大学の1年生に編入学した。初めは医学部志望で理系の勉強をしていたが、3年生で歴史と経済学を勉強するようになった。4年生の時、交換留学生として慶應大学の法学部に聴講生として入った。そして、1972年にスタンフォード大学を卒業した。1971年の卒業予定であったが、徴兵を逃れるために、そのまま慶應に留学生として居続けたかったからであると自ら告白している。


 1972年の10月に開かれた第2回日米学生会議で知り合った日本女性と結婚し、『アサヒ・イブニング・ニューズ』の仕事、アテネフランスでの英語の仕事をした。1973年から国際法律事務所でアルバイトをしながら、東京大学大学院の外国人研究生として日米関係の勉強をした。そして、1978年にハーバード大学大学院に進学している。そこで、ビジネス・スクールとロー・スクールのジョイント・プログラムのコースに在籍した。


 4年後の1982年にプログラムを終え、博士論文作成のために、東京大学法学部に入り、商法と経済法を学ぶ。その間、慶應、立教上智の各大学にも出入りした。1984年に米国に帰国、ロサンゼルスの法律事務所で弁護士の仕事に従事する。そして、1年後の1985年4月1日からUSTRにスカウトされた。


 USTRの役人として日本にきて後、米国の役人が日本のことをほとんど知らないことにショックを受ける。日本の役人が米国のことをよく勉強していることと対照的であることを痛感する。


 その5年後、つまり、1990年、自らの通信サービスへの関心もあって、AT&Tジャパンに会長として入社する。米国政府による日本政府への要求の最初に、「通信サービス分野」があることと、フクシマのAT&Tジャパン社会長とは無関係ではないだろう。


 しかし、1995年9月20日、AT&Tの3分割に遭遇する。AT&Tは、通信機器メーカーのルーセント・テクノロジー、コンピュータ会社のNCR、そして、通信サービスのAT&Tの3つに分かれた。1996年、新生AT&Tに居残るが、通信サービスだけに限定させられたAT&Tに嫌気がさし、1998年5月、アーサー・D・リトル社の日本支社長としてヘッド・ハンティングされた。


 このアーサー・D・リトル社は、経営と技術に関する世界最大級の国際的コンサルティング会社であり、米国ではもっとも旧い歴史をもつ。1886年、マサチューセッツ工科大学のアーサー・D・リトル博士によって創設されている。世界20数か国に、50以上の事務所を配置し、顧問先は50か国を超える。3500人を超すスタッフを擁し、経営コンサルティング会社として不動の地位を確保している。


 日本法人、アーサー・D・リトル(ジャパン)株式会社は、1978年に設立された。フクシマが入社した時期は、日本企業の系列が揺らぎはじめ、金融政策も護送船団方式を止め、日系金融機関は、外国の経営コンサルティング会社への需要を急増させると予想されていた時である。


 同氏自ら神戸大学大学院経営学研究科教授・金井壽宏のインタビューに次のように答えている。

 「規制緩和などによる変化によって、日本における直接投資が増える。外国からの企業にも経営コンサルティングのサービスの需要がある。そういういくつかのファクターをもって」、同社の日本支社長への就任を受諾した。


 フクシマが金井教授に語っている自身の役割を次の3つに集約している。

 1つは在日米国商工会議所の仕事(1998~2000年会頭)で、日本政府、日本の経済団体との関係を深め、米国政府や米国企業との交渉の仲立ちをする。


 2つは、米国政府が資金を提供する日米友好基金の仕事。これは、日米の知的交流をする機関であり、米国務省と教育省の局長レベルの会議で15人の委員からなる。ここでも、フクシマがキーパーソンになっている。


 3つは、アーサー・D・リトルの仕事。おのおの、20%、5%、75%の比率で時間配分を行っていると彼は話した。


 フクシマ・レポートがクリントン大統領に渡されたのが1994年1月であった。そのわずか9か月後、クリントンは、チャールズ・レイク・USTR日本部課長を日本に派遣し、「規制緩和」を要求させた。そして、米国政府は、同年の11月、最初の『年次改革要望書』を日本に提出した。


 そして、内閣総理大臣を本部長とする「行政改革推進本部」の下に、「規制緩和委員会」が1998年1月に設置された。この委員会は、1999年4月に同じ監督部の下で「規制改革委員会」と名称を変更した。委員会の座長は、少なくとも2006年現在までは、オリックス会長の宮内義彦がずっと続けている。


 第1回の同委員会の議事概要には、米国側がこの委員会の進捗程度に不満を表明しているとし、それを織り込んだ同委員会の第2次見解が1999年12月14日に小渕総理に提出された。そこには、「法務」、「金融・証券」、「保険」、「エネルギー」、「情報・通信」、「運輸」、「流通」、「住宅・土地・公共工事」「医療・福祉」、「雇用・労働」、「教育」、「保安・環境ビジネス」、「個別基準認証」の13分野が規制緩和の重点分野として列挙された。これは、明らかに、『年次改革要望書』の内容に沿ったものである。


 2000年11月、規制改革委員会にフォーリー米駐日大使が招かれ、『年次改革要望書』の説明を行った。米国の意向が、日本の規制改革委員会に反映されているであろうことを想像させるのに、十分な招聘であった。


 2001年6月、小泉内閣の「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」出された。


 「経済の再生」の項目の(2)に「人材大国の確立」が配置され、次のように書かれている。


 「このため、教育全般について、そのあり方を検討する必要がある。特に国立大学については、法人化して、自主性を高めるとともに、大学運営に外部専門家の参加を得、民営化を含め民間的発想の経営手法を導入し、国際競争力のある大学を目指す」。


 「(3)民間活力が発揮されるための環境整備」の「(i)規制改革」の項では、 「社会的規制の改革はさらに遅れている。特に、医療、労働、教育、環境等の分野での規制改革は、サービス部門における今後の雇用創出のためにも重要である。本年発足した総合規制改革会議における、これら重点検討分野の検討が期待される」。


 在日米国商工会議所は、宮内義彦を2001年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選んだ。「永年にわたる規制緩和や構造改革に向けた積極的な活動」が表彰の理由であった。


 さらに、2003年5月、第2回目の2003年日米投資イニシアティブには、第1回にはなかった「教育・医療分野への投資が、米国側の大きな関心事項」として追加されたのである。


 さて、件のフクシマは、2000年10月より日本ケイデンス・デザイン・システムズ社長、2003年7月より同社会長に就任。さらに、2005年2月、エアバス・ジャパンの代表取締役兼CEOに就任した。エアバス・ジャパンは、2001年5月設立された。特に日本の航空会社に向けた販売活動の強化を図る他、日本の航空機メーカーとの産業協力拡大や顧客支援活動に力点を置いていると同社はホームページで宣伝している。


 フクシマは、米国政府の機関、USTRのお陰で引き立てられながら、今度は、米国と対立する敵方の航空機メーカーの日本代表になったのである。日本的浪花節が通用するお人ではなく、国際的なビジュネスマンであることは確かである。しかし、彼が、日本を最大の儲け口にしていることも同じく確かである。


見えざる占領 07[教育篇] 売り渡される日本の教育(2)

2006-09-14 23:12:48 | 時事

 日米投資イニシアティブ」とは、日米双方の直接投資(単なる証券投資ではなく、相手国企業の支配を目的とした資金投与)を増やすことを目的として結成された会議体である。「イニシアティブ」というのは、ある目標を掲げ、その目標に向かって国と民間とを誘導する機構を意味する。日米双方の直接投資の増加という建前の下で発足させられたイニシアティブであったが、実際には、日本国内に入り込むことに困難を覚える米国企業の意向を忠実に代弁する米国政府による、日本政府への威嚇である。


 この会議体での約束を日本政府が履行しなければ、翌年の春、米国通商代表部(USTR)が議会向けに発行する『外国貿易障壁報告』にその事実が記載され、その記載に基づいて議会が日本への報復措置を講じる。たとえば、郵政の民営化を日本政府が約束し、その期限まで明示したのに、2005年には郵政民営化法案は、衆議院で否決された。当時、米国の自動車業界の危機と日本のトヨタホンダ勢の米国での好調さが、再度、10年前の日米自動車摩擦の再燃させるのではないかと、日本の自動車メーカーは危惧していた。こうした状況下で、USTRが、日本批判をその報告に記載してしまえば、米国議会は、「スーパー301条」という貿易制限を科す強烈な報復的国内法を発動することは必定と見られていた。


 日本が郵政民営化の約束を破り、米国の投資家の利益を著しく傷つけたのだから、日本のもっとも強い業界を差別して、日本政府に制裁を加える権利が米国にはあるとして、トヨタやホンダ車の輸入を制限するというタスキがけ報復措置を採ることができるのが、「スーパー301条」である。


 小泉首相が、強引に衆院を解散し、「小泉チルドレン」を大量に作り上げて選挙に圧勝したことによって、郵政民営化法案は国会を通過し、日本の財界の危惧は現実のものにはならなかったが、当時の情勢が非常に緊迫した局面であったことは確かである。


 「日米投資イニシアティブ」という会議体は、小泉政権が成立すると同時に設立された。2001(平成13)年6月、小泉首相と子ブッシュ大統領の日米両首脳の合意によって、「成長のための日米経済パートナーシップ」というシステムの下に置かれたものである。この審議内容は、毎年6月頃に発行される『日米投資イニシアティブ報告書』にまとめられている。


 2006年の報告書では、米国側の対日要求として、以下のように書かれている。

「①国境を越えたM&Aの円滑化、②教育分野及び医療サービス分野における投資家にとってビジネスの機会を創出するような規制緩和、③労働法制の見直し、④日本法令の外国語訳が挙げられる」。


 国境を越えたM&Aとは、米国の法律によって米国内で設立された企業が、日本の法律によって日本国内で設立された日本の企業を買収してもよいようにすることである。これが、米国側の最大の関心事項であり、総論であることは確かである。  そして、教育分野が投資家にとってのビジネスになるように、日本の規制を緩和しろとの文脈で明確に主張されている。教育と医療は、これまで、「公」の分野に属し、ビジネスとしては拒絶されていた分野であったのに、これを「私」の世界に開放し、ビジネスの対象にしろと言うのである。


 労働法制の見直しとは、労働者の首を企業経営者が自由に切ることができるようにしろということである。


 日本の法令の外国語訳というのも、分かったようで分からないことである。もし、日本側が、米国側に米国の法令の日本語訳を作成しろと言えば、どのような反応が返ってくるのであろうか。そんなことは自分たちでやれという返事がくるのがおちである。 通常の感覚からすれば、こうした米国側の対日要求は無礼である。


 こうした無礼きわまりない米国の要求に対して、わが日本政府側はどのような対米要求をしてくれたのであろうか。報告書では次のように書かれている。


 「日本により問題提起され、両政府によって投資環境改善に関する意見の交換が行われた米国側の措置には、①査証その他の領事事項、②貨物セキュリティ、③エクソン・フロリオ条項が挙げられる」。


 もはや、お分かりであろう。米国の対日要求は、教育と医療という日本人の背骨を叩き折るほどの強力なものである。それに対して、わが政府は、なにを言っているのか。ビザの発行をもっとスムーズにして欲しい。国境を越えた、つまり、どこの国の法律によって設立されたものかには関わらず、認可されるべきM&Aとか、教育とか国民国家の根幹を脅かす米国の強烈な対日要求に対して、ビザ発行の問題とは、あまりのも重要性に格差がありすぎる。貨物のセキュリティとはなにか。米国の内航海運は、米国資本によって独占されている。これはこれで、大きな問題である。しかし、この問題が「貨物のセキュリティ」として矮小化されて報告には表記されている。


 それよりも大きな「エクソン・フロリオ条項」にいたっては、項目が挙げられているだけである。

 エクソン・フロリオ条項は、1950 年国防生産法第721条を継承し、それを強化してできた法律である。1988年に新たに制定された。これは、富士通が米半導体メーカーのフェアチャイルド社を買収する案件が浮上したさい、その買収が国防上の懸念があるとして、あわてて1988年に議会が制定したものである。そして、米国議会の逆鱗に触れることを恐れた日本は米国と戦うのではなく、すごすごと引き下がってしまったという経緯がある。


 にもかかわらず、たとえば、日本のJETROは、次のような屈辱的な解説をしている。
「1. エクソン・フロリオ条項。米国は外国からの米国内直接投資(FDI)を歓迎するとともに、外国投資家を公正かつ同等に扱う。ただ、国家安全保障を保護するための例外はある。エクソン・フロリオ条項の目的は、FDIを規制するのではなく、外国からの投資内容を精査し、米市場をできる限り公開するというもの」。



 この文章には、米国に対してきっぱりとした姿勢を見せることに躊躇している日本政府の萎縮が、遺憾なく発揮されている。


 米国の国防上の観点からくる連邦(中央政府)規制も数多くある。外国からの対米投資に関する連邦規制は、航空、通信、海運、発電、銀行、保険、不動産、地下資源、国防である。


 なんたることか。この9つの分野のすべてを米国政府は日本政府に対して規制緩和を強く要求しているものなのである。米国はこうした分野において、日本の市場をこじ開けようとしつつ、そのくせ、日本勢の対米進出は、国防上の観点から陰に陽に進出反対の圧力をかけ続けている。


 そうしたことへの激しい応酬が交わされるのではなく、日本政府は、エクソン・フロリオ条項への米国政府の配慮をお願いし続けてきただけのことである。


見えざる占領 06[教育篇] 売り渡される日本の教育(1)

2006-09-13 00:00:30 | 時事

 「米国政府は、少子高齢化社会に進む日本において、今後、教育及び医療サービス分野が重要であり、米国企業がこれらの分野において質の高いサービスを提供できるとして、これらの分野にかかる対日直接投資環境を改善するよう要請した」。


 これは、20066月に出された『日米投資イニシアティブ報告書』で、米国政府側が日本政府に要望した文章である。



 少子高齢化社会に入れば、ますます増える病人の老人を、ますます減少する若者が介護しなければならなくなる。そのうち、家族だけで高齢の病人の面倒を見ることは困難になる。いずれ、介護を中心とする医療サービスへの依存が増えることになる。これは、老人医療サービスという市場が、営利企業にとって垂涎の的になることを意味する。米国企業が、拡大するであろう日本の医療市場を虎視眈々と狙っていることは当然予想される。ここまでは分かる。



 しかし、なぜ、それが教育なのであろうか。少子化とは、これまで拡大路線を突っ走ってきた大学を含めた教育機関にとって、急ブレーキがかかるどころか、学生争奪戦となって、かなり多くの教育機関が倒産の危機に見舞われることを意味する。つまり、常識的には、縮小する市場に、わざわざ米国の教育機関が名乗りを上げることは、考えられない、腑に落ちないことである。ここに、規制緩和の魔術がある。規制緩和とは、これまで「公」に属し、だからこそ、ほとんど無料であった分野を、「私」、つまり、民間に開放し、有料にすることである。いままでなかった市場が、規制緩和によって突然、出現することである。



 金儲けをしてはならなかった医療機関が、営利法人の傘下に入っていいという規制緩和によって、医療市場は爆発的に拡大するであろう。それよりも巨大な市場としての可能性があるのが、教育である。国や地方自治体が財政難になり、無料、ないしはそれに近かった公的教育機関が、株式会社に売り渡される。当然、とてつもなく高い授業料が取られるようになる。しかも、時は、「グローバルスタンダード」の世界である。英語が勝負である。古今東西のできごとに対しての深い知識や教養などまったく無用である。そんなものくそくらえ、英語による実務教育さえ受けることができ、しかも、米国の著名な大学のMBAをもらえば、それだけで人生にハクがつく。就職に有利になるとの幻想に多くの人は浸り、もはや、従来のステイタスのある大学は没落して行くであろう。英語で習い、ビジネスに成功した講師の授業を受け、実務上の資格を得ることさえできればよい。財政難に苦しむ国や自治体がこうした傾向に拍車をかける。



 そして、学問が確実に廃れて行く。知性がこの国からどんどんなくなってしまう。やせたソクラテスよりも、脂ぎった金満家が若者の憧れになってしまう。金を集めることができない教授は切り捨てられる。株式会社のCEOが大学の理事長になり、理事長が学長を選び、教授会自治はきっぱりと拒否される。ビジネスに疎い象牙の塔の学者たちに大学を任せておれば、ビジネス界のスターを招聘できないからである。人事は、ビジネスで成功した非常勤講師を主体とした人事委員会が決定する。これまでの、学問を基本とした研究者養成のシステムは完璧に破壊されるであろう。権力にとって、こうした事態の出来(しゅったい)そのものが都合がいい。権力に批判的な若者は、そうした指向をもつ教授から生み出されてきたが、大学がビジネス界の下僕になってしまへば、反権力の若者も出てこなくなるからである。この面でも米国の教育制度が日本の権力者層のお手本になる。ビジネス万歳。


本山美彦 福井日記 39 尊い血の配当を武器とした蓮如

2006-09-12 00:28:56 | 神(福井日記)

 宗教教団の世界では、尊い血筋が権威を授けられることが古今東西、頻繁に見受けられた。宗教が、教義よりも尊い生き仏・神に心を委ねる信者が多数を占める心理状態では当然のことなのかも知れない。

 

 南北朝期の覚如以降の本願寺は、天台浄土系の寺院化を指向していた。後の時代のように、末寺を創建・育成することはまだ、目指されていなかった。後に末寺になる寺の由緒書のほとんどは、始祖を大谷一族としていないことからも、そのことが伺われる。

 

 石川県小松市興宗寺の九高僧連坐像の法系は「入西―西仏―行如」と記されており、行如の師にあたる西仏は常陸法善門下で信濃康楽寺の祖とされる人物であった(『加賀市史』通史上巻)。末寺システムを作ったのは、蓮如であった。蓮如以前には、後に本願寺系に編入される寺院のほとんどは、他の諸門流に属していたのである。

 

 本願寺系の進出は、本願寺歴代の尊い血筋を配当するという形を取って行われた。本願寺派の越前での第一歩は、足羽郡和田郷西方の本覚寺(現在は吉田郡上志比村に所在)から始まる。同寺の住職、信性の没後、長男と二男とが対立し、長男は寺を追い出された。

 

そして、長男はすぐに早世した。長男を慕う門徒衆は本願寺の第六代、如の弟である鸞芸頓円を招き、超勝寺を創建した。これが、後の、戦国期に、越前教団を本覚寺とともに主導することとなる、吉田郡藤島超勝寺(福井市)である。藤島の地は、戦国期の有力寺院であった坂井郡久末照厳寺(金津町)・砂子田徳勝寺(のち福井市了勝寺、藤島荘重藤は了勝寺の土門徒の地)が存在していて、(「照厳寺系図」『越前集成』)、一種の「古聖地」であったらしい。

 

 頓円の子、如遵は「ヨロツ父ノ道ヲマナフ事マレ」な人、つまり、俗物であり、その子、巧遵も「法流ニウトウトシ」、つまり、勉強しなかった(『反古裏書』)、おそらく蓮如の吉崎下向時までは、それまでの高田系に属していたのだろう。

 

 

 一方の本覚寺はすでに存如の代に「三帖和讃」などの各種聖教・典籍類の下付を受けており(「遺徳法輪集」『集成』八)、本願寺血縁の寺である藤島超勝寺より一歩早く本願寺系に属したものと思われる。

 

 超勝寺住持となった頓円自身も本覚寺門徒戸からは、「法流ツフサナラサリシ」、つまり、やはり勉強しない人であったと批判され、兄貴よりもはるかに優秀な弟、玄真周覚という人物が、旧本覚寺門徒団により、頓円に代わって「申ウケラレ」た、つまり、本願寺から頂き(「反古裏書」)、吉田郡荒川興行寺を創建した。応永年間(13941428年)のこととされる(興行寺蔵「由緒書」『越前集成』)。

 

 その周覚の子孫が、また各地に配当されて行った。長男、永存は丹生郡石田西光寺(鯖江市)を創建し、長女・二男は時衆となり、二女は照護寺、良空の妻となる。この照護寺は、足羽郡稲津桂島(福井市)に所在し、は六角堂とも称されていて、それまでは、越前の守護代、甲斐一族が住持していた非本願寺系の寺であった(『反古裏書』、大谷大学蔵『親鸞奉讃奥書』)。三女は存如の弟で、もと山門の僧侶だった宣祐如乗に嫁ぎ、加賀二俣本泉寺に住した。四女は、当時今立郡山本荘へ下っていた毫摂寺、善智へ嫁ぎ、三男は興行寺を継ぎ、四男は平泉寺に入り、五男は斯波氏に属し、六男は毫摂寺善智の養子となっている(「日野一流系図」『集成』七)。

 

 蓮如以前の本願寺の血筋は、本願寺門流への帰属意識は存在していなかった。血縁と法縁とは別との認識であった。福井市成福寺の「由緒略記」は「玄真(中略)法流ヲ天台ニ酌ミ、(中略)五代目乗玄マデ代々天台ノ教ヘヲ遵法」すると記してはいるが(『越前集成』)、真宗に酌むとは記していない。招請する側も、養子入りはもっぱら天台宗青蓮院系寺院の「貴種」をもらい受けたとの認識だったのだろう。

 

 他派の寺院に入寺していた本願寺の血筋が、本願寺のもとへ結集し始めるのは、蓮如が長禄元年に本願寺住持となり一宗創立を決意した後であった。本願寺の血筋の参入によって本願寺派の勢力は一挙に拡大した。蓮如は各地の一族の要の諸寺院に改めて自分の子女を配し、その再掌握を図って行ったのである。嗚呼!尊い血筋が法を圧迫する。庶民の浄財で、尊い種が維持・増進される。


見えざる占領 05[医療篇] 狙われる医療保険制度(2)

2006-09-11 01:42:30 | 時事

 そして、彼、レイクは、医療保険の必要性を切り出す。
 「消費者サイドからしますと、将来に対する不安が需要を抑えているのではないでしょうか。たとえば、最近の調査では、介護・年金・医療、すべてを含めてですが、『高齢化社会の中では公的保障だけではまかなえない』と思っている人が、60%から70%もいるのが現状です。そのような状況だからこそ民間の医療保険のニーズが出てくるのかもしれません。将来への不安を抱えているから自分のお金を使 わない、消費が伸びないということだと思います」。


 高齢化社会に入るので、民間の医療保険が必要であるというのは、論理のすり替えである。高齢化社会になれば、収入のない老人は大変なことになってしまう。病気にもなれない。だからこそ、公的な医療保険制度を充実させるべく、社会の資金の分配方法を変えることを探るべきであるというのが、素直な考え方ではないのか。そうではなく、レイクは、公的保障が不十分になるので、民間保険の必要性を訴えているのである。本音は、公的保障を小さくして、民間保険の領域を広げる政策を日本政府は取るべきだといいたいのであろう。

 「私たちはがん保険や医療保険のいわゆる第3分野に特化しています。将来の不安に備えて、個人として絶対にキープしないといけない保障のニーズがそこにあり、それは景気の影響を必ずしも受けないのかもしれません。 むしろ、将来に不安があるほど、ニーズが強くなる商品です」。


 (2002年時点で日本にきて28年になるアフラックの)「法人申告所得は、日本で活動している外資系企業の中で、日本IBMに次いで2番目に大きい額となりました。また、保有契約数は1500万件を突破し、日本生命に次いで2位になりました。日本国民の4世帯に一世帯が、アメリカンファミリー生命の保険に入っていることになります」。


 「私は小泉総理がおっしゃっているように、『民間にできることは民間に任せる』ということが大事だと考えています。 医療の世界でも、いろいろなデータを分析した上で、もっとも安い保険料で最大の保障を提供することをつねに目指している当社のような企業活動が、新たな価値の創造、イノベーションにつながっていくのではないかと思います。また、医療制度改革の中でも、民間のやれることはかなりあると思っています。そして、それを逆にビジネスチャンスにするのが私どもの責任だと考えています」。

 

 日本での収入はアフラック全体の70%を超えていると説明したレイクは、
 「私だけがアメリカンファミリー生命の日本社では米国籍の社員でして、郷に入りては郷に従うというか、日本市場で成功するにはなにをしたらいいのかはローカルのマネージメントに任せる、という考え方を当社はもっています。本社はジョージアという南部の州にあり、トップのCEOをはじめ本社の経営者は、信頼関係や長期の交流を大事にするというジェントルマンの文化をもっていますし、いろいろな意味で日本の文化と似ている部分が多くあります。すべて米国中心的に考え、行動するのではなく、日本と同様に、思いやりの気持ちをベースとした南部の会社のカルチャーもプラスになっているかもしれません」。


 そうであろうか。子ブッシュ政権を動かし、日本市場をこじ開けてきた手法が、米国中心主義ではないというのであろうか。

 

 米国人を父とし、日本人を母として、1962年、米国サウスカロライナ州に生まれたレイクは、3歳から日本で育ち、日本の学校に通っていた。中学2年生(14歳)の時に、父親を心臓病でなくした。日本の中学を卒業後、ハワイの大学で学んでいた姉を頼ってハワイにわたり、高校と大学をハワイで卒業した。大学では政治学と東洋学を学んだといわれている。1990年、ジョージ・ワシントン大学院ロースクール卒、法学博士号(J.D.)を取得、その間、東大大学院に留学、1990年、USTR特別補佐官に採用され、USTR日本部長、次席通商代表付法律顧問を歴任し、1995年、デューイ・バレンタイン法律事務所に弁護士として勤務、1999年、アフラック・ジャパン入社、執行役員、法律顧問、副社長などを経て、2003年同社日本代表、社長に就任、2005年、副会長に就任、2006年時点で、「在日米国商工会議所」(ACCJ)会頭、東京証券取引所社外取締役


 まさに、レイクは、日米の橋渡し役として垂涎の人材であることに間違いはない。そうした華麗な経歴をもつ彼は、当然ながら、子ブッシュ政権の内情にも通じている。


 「そのようなバックグラウンドですから、日米関係がいつも良好であることを願っています。ブッシュ大統領が来日して首脳会談が開かれ、日本の国会で演説することになりますが(注:この対談は大統領訪日前に収録された)、ブッシュ政権は、小泉首相ができるだけいろいろな形で前に進むことができるようにと考えております。もっとも頼りになる親友としての米国、またブッシュ大統領が、何をしたら総理のためにプラスになるとお考えになるのか、教えて頂きたいと思います。実は、なぜこんなことを伺うかと言うと、アメリカ政府関係者の中でもいろいろな意見がありまして、『歌舞伎のように、セレモニー-的な舞台が日本では大切であって、外圧をかけないとやりたいこともやれない状況にあるのかもしれない。だからそれはセレモニーとしての外圧を目に見える形でかけなければならないのだ』といっている人もいます。もちろん、近年の政治環境を考えた場合、それは違うと私は否定したのですが、米国の関係者の中でもいろいろな意見があり、ブッシュ大統領が訪日される際にどのようなメッセージを伝えるべきなのか、ということをまさに今悩んでいます」。


 確かに、ここには、同氏の真摯さが表現されている。善意の人であることが示されている。それにしても、「セレモニーとしての外圧」という用語は言い得て妙である。


 1992年7月31日の『朝日新聞』の社説では、「生活大国も米国頼りなのか」というタイトルの下、「貧しい生活環境を多少でもよするために、政府・自民党のしりをたたく役割を、米政府が果たしている」という趣旨が記された。レイクはこの社説に非常に勇気づけられたと述懐している。自分が日本にかけている外圧が、日本の生活環境をよする方向に作用しているのだとレイクは思い込もうとしていたことがここから分かる。

 医療問題に進もう。



 米国では、多くの医師の反対を押し切って病院の生産性を高めてきた。病院経営を効率化させてきた。ただし、その恩恵が全国民に行き渡っているかどうかは不安な点もあり、米国の医療制度改革がすべて正しいかどうかは不明であるが、米国の病院の経営者のほとんどはMBAをもっているとレイクはいう。


 「日本のように経営者は医者でなければならないということではありません。医者の倫理規定、倫理観をすべて忘れて病院経営をするのも困りますが、医療ビジネスをどうやって経営していくかは、逆に経営のプロがやった方がいいかもしれません。アメリカ のシステムの中でうまくいったのは、病院の効率化であったり、医療に必要なリソースを適切に提供するようなシステムだったと思うのです」。


 「日本ほどではないにしても、高齢化が進む中でいろいろな問題を抱えている米国ですが、日本ほど医療システムに対して抜本的な不安を国民が抱えているということはないように思います。それはいろいろな理由があり、投資信託が広く使われており、自分の老後がある程度 保障されていると考えているかもしれませんが、自主的に民間のシステムを活用し、自分で老後に備えて準備しています」。


 彼のような真摯な人でも、自分の領域になると我田引水の強引な論理が展開される。米国人は、老後に備えて投資信託などの財産形成にいそしんでいるので、日本人ほど医療制度に不安感をもつ人はいない。そうであろうか。健康保険制度に入ることのできない貧乏人が病気を極端に怖がっている現状、病気になれば簡単に解雇されてしまう理不尽、健康保険の負担を「リーガシー・コスト」、つまり、過去の強かった労働組合のご機嫌を取って導入された健康保険制度が、米国の古いメーカーを脅かせているということを平気でいう企業社会の冷酷さ、こうしたもろもろの不安に米国人は怯えていないというのだろうか。



 日本では、最新の治療が、健康保険制度の存在のゆえにできない。必要なことは、すべての人に一定の医療を施し、さらに余裕のある人には高度の民間医療を併用させるという制度、つまり、混合医療制度の認可である。



 山崎拓の事務所で、レイクはこのように語った。どちらが、日本のリーダーとしての格を発揮しているかがここではあまりにも明白であろう。米国政府の威光を傘に、素直に承る政府高官に対して、一民間企業のトップが、おごそかに命令している図がここには如実に示された。


見えざる占領 04[医療篇] 狙われる医療保険制度(1)

2006-09-10 00:54:26 | 時事

 アフラック全体の収益の7割も稼ぎ出すアフラック・ジャパンの社長に2003年、その副会長に2005年に就任したチャールズ・レイクが、2002年2月13日、当時の自民党幹事、山崎拓の事務所で、後の小泉政権の政策を予見したかのごとく、とくとくと語った。


 小泉政権の政策のほとんどは、米国政府によって押しつけられたものである。これについては、章を改めて説明するが、小泉の首相就任(2001年4月)後、わずか10か月で、米国政府の要求通りの政策を5年間にわたって打ち出してきた小泉政治の特徴がここでは見事に表現されている。

 

 小泉の「聖域なき構造改革」についてどう思うのかという山崎はレイクに質問した。「聖域なき構造改革」とは、2001年4月26日に首相に就任した小泉が、2001年5月7日の所信表明演説で使った言葉である。レイクの返答を要約する。

 

 日本は米国のベストパートナーであり、親友である。だからこそ、米国政府は、日本政府と議論し、政策に示唆を与えようとしている。これは、「日本政府に対して高圧的に提言をするのというのではない」。示唆とは構造改革のことであり、すでに、日本政府は構造改革について政府内で充分議論されていると米国政府は受け取っている。

 

 「私は現在、アメリカンファミリー生命保険会社に勤めておりますが、10 年前には米国政府でUSTR(米国通商代表部)に所属し、日米のいろいろな交渉に参加しておりました」。


 つまり、日本市場を金梃子でこじ開けようとするUSTRの日本担当者がレイクであった。USTRは、『年次改革要望書』、『日米投資イニシアティブ報告書』をはじめ、日本政府につぎつぎと構造改革を迫る文書を作成し、そうした文書に沿って日本政府を動かしてきた組織である。USTRは、日本の構造改革の首謀者であるといってよい。そのUSTRの日本担当の最重要の人物がアフラックにスカウトされ、日本支社の社長、副会長に抜擢されたのである。レイクは、日本の官僚の天下りをよく批判する。しかし、レイク自身が、特定の業界の利益代表者であり、その功によって、業界のポストを用意されたのである。日本の高級官僚の天下り程度のものではない。れっきとした独立国相手に戦い、勝利を収めて、後押しをしてくれた業界に凱旋したのである。


 彼は、対日交渉の過程で、当時の大蔵省の「護送船団方式」を基本的に守るというスタンスが、新設された金融庁の「自己責任原則による金融行政」というものに変わり、これで、日本の金融もやっとグローバルスタンダードになったと語った。


 その上で、「簡保」を変えなければ、よい金融行政にはならないと強調した。保険市場では、簡保は、民間企業に比べると有利なルールの適用を受けている。つまり、民間企業は保険市場で不利な立場に立たされている。こうしたことを放置すれば、「構造改革」は成功しないと強く訴えた。


 「自己責任原則による金融行政」の具体化とは、つまるところ、簡保の廃止である。優遇されている簡保が存在するかぎり、民間保険会社は差別されているというのである。狙いは明白であろう。米国の保険会社が日本で本格的に業務展開をしようとするかぎり、簡保は邪魔であると、彼は、露骨に指摘したのである。


 彼は、「抵抗勢力」という言葉を使った。
 「小泉政権がなさろうとしている改革を、基本的におかしいと思っている人は、米国政府には少ないと思います。しかし同時に、いろいろな抵抗勢力がある中で、それを実行することがいかに大変かも承知しています。どのようなタイミング、スピードで、経済回復に向けての構造改革が実行されるのかが、世界の注目の的になっています。まさに総理が『今年が本番』とおっしゃっていることが本当かどうか、世界は見ていると思います」。


 こうした発言は恫喝であろう。「世界は見ている」とは「米国の保険業界は注目している」ということ以外のなにものでもない。




 彼は、米国政府の仕事に就いていたし、東京とワシントンを行き来しているので、米国流の政治の考え方はよく分かっているという。米国流の政治とは、国民の支持率を絶えず意識して政策を行うというものである。小泉には幸い高い国民の支持率がある。この高い支持率が小泉の構造改革を成功させるであろうという。


 「どうしたら国民のサポートを得られるか、またサポートしてくれる層がどこにあるのか見極めなくてはいけないということです。しかし、『失われた10年』を乗り越えるための改革は、それに対しての既得権やその他の抵抗がある中でたやすくできるわけではない。反対勢力がいろいろなところから出てくれば、それだけ強力な政治のリーダーシップが必要になります」。


 「米国の政府関係者、証券アナリストなどと話をしておりますと、彼らが懸念していることは、実質として構造改革がタイムアウト(時間切れ)になることです。たとえば、田中前外務大臣の件で支持率が下がるというようなことで自信をなくし、心配することによって、構造改革を断行できなくなるような政治環境が生まれた場合です。問題を解決しないという状態が続くということです。それは、日本経済にとって決して好ましいことではないという見方をしていると思います」。


 国民の支持率が高い間に、小泉は、米国政府の要求を早く実現させてしまえといっているのである。


 山崎拓は、言わずもがな発言をしてしまった。
 「それで、もうすぐ大統領がお見えになる(注:2002年2月17日に来日)のですが、たぶん不良債権の処理を強く勧められると思いますが、それに応えようと今小泉政権は準備を開始しております。不良債権の処理は必要なことはよく分かっておりますから、どうもそれだけではない、そういう気がしませんか?」。


 この人、なにをいってしまったのだろう。子ブッシュ大統領が、日本に要求するものの中には、不良債権処理以外にもいくつか重要なことがあるのでしょうね。なんでもおっしゃって下さい。私たち小泉政府は、それにお応えしますと宣言してしまったのと同じことではないか。


 レイクは、勝ち誇ったようにいった。
 「不良債権については、米国の経済界や関係者が議論しています。不良債権の処理をしなければいけない、不良債権が日本経済の活性化の障害になっているのではないか、という議論です。かし、不良債権の問題はある意味では現象であって、そのベースにあるのは構造改革だと私は思います。たとえば、企業統治の問題もそうです。
  キャピタルマーケットが、いろいろな形で合理的に動いていくようなインフラづくりがされなければならない。それは商法改正の議論だったり、会計制度の見直しだったり、金融システムの改革、より具体的にいえば株の持ち合いの解消ということも、そういう意味での株式市場の活性化につながり、システミックなネガティブ・インパクトが起きない環境をつくっていくことを意味すると考えます」。


 今日、これらすべてが小泉内閣の下で実現している。「企業統治」を変えることが日本の財界人の合い言葉になった。「商法改正」も行われた。「会計制度」も大きな変化があった。「株の持ち合い」も一種の脅迫によって解消させられた。後に小泉内閣が着手することになるこれら重要事項が、米国政府の代理人であるとはい、当時で若干、40歳の若造の口から提起されたのである。
 

 そして、レイクは、保険市場という彼がもっとも関心をもつ分野に話をもって行く。いろいろな投資銀行が新しい金融商品を開発し、インフラの整ったマーケットで活発に取引されなければならないのに、日本では、各種規制があるためにそれができない。金融市場のインフラをまずつくるべきであると彼は強調した。


見えざる占領 03[保険篇] 奇妙な日米保険交渉(2)

2006-09-09 00:42:08 | 時事

 こうしたご都合主義的な規制緩和は、米国流に言えば、次のようになる。文章は、USTR(米通商代表部)の議会に提出した報告書から取ったものである。


 まず、1995年の報告書で、「1994年10月の『保険に関する措置』は、日本の保険業の大幅な改革の立法化直前に実施されたが、この中で日本は、保険分野の規制緩和推進のため数多くの措置を講じることを約束した」と記載され、さらに、2000年の同報告では、第3分野を米企業が死守するとの強い意志が語られている。

 

 「日本の民間保険市場は世界有数の規模であり、暫定的なデータによれば1998年度の元受正味保険料総額は3310億ドルに達する。この他に、簡保(簡易保険制度)と呼ばれる公営の大規模な郵便生命保険事業、国民医療健康保険制度、そして数多くの相互扶助組織(共催)が、巨額の保険を提供している。多くの国と同様、民間保険市場の監督は、伝統的な生命保険と損害保険(動産保険と災害保険)の部門に分かれている。さらに日本の場合、生命保険商品と損害保険商品の双方(例えば、ガン保険、医療保険、傷害保険など)を扱う、いわゆる『第3分野』があり、これは市場全体の5%を占めているにすぎない。これまで、外国や日本の中小保険会社は、この小規模な第3分野で活躍しており、この分野でのシェアの約4割を占めている。一方で生保・損保分野におけるこれら(外資と日本の中小会社)の保険会社のシェアは常に5%を割り込んでいる」。


 「日米両国は、1994年10月と1996年12月の2度にわたって、日米経済枠組み合意の下で2国間保険合意を締結している。1996年の合意が必要となった理由は、日本が1994年の主要な合意事項に反した形で日本の保険会社の子会社が第3分野で営業することを認める意向であったことが、米国側に明らかになったためである。主としてこうした取り組みと、両合意の実施に対する米国の現政権の緊密な監視により、日本の保険市場の規制緩和は進み、かつては小さかった生保・損保分野における外国企業のプレゼンスも大きく変わり始めている。米国その他の外国保険会社は、第3分野における順調な業績を維持する一方で、近年は生保・損保分野でも、商品開発と革新的なマーケティング、そして直接投資により急速にシェアを拡大している」。

 「1996年12月の『補足的措置』は、日本の大蔵省が実施する生保・損保分野における規制緩和の範囲と時期を定めた。この合意は、激変を避けるという約束に沿った形で、第3分野における日本の保険子会社の事業活動範囲も定めている。1997年12月、日本政府はWTO金融サービス協定の下で、こうした約束に拘束力をもたせることに合意した。
 具体的には、1996年の合意の下で、日本は、年齢、性別、運転歴、地域、車両の使用状況など各種のリスク基準によって保険料の異なる自動車保険の申請を認可することを約束した。日本はまた、自動車および火災保険の業界一律の料金を設定する料金算定会の権限を廃止することに合意した。さらに日本は、『届出制度』の対象となる商品の範囲を拡大するとともに、保険会社が企業向け火災保険に弾力的な料率を適用することを認められている契約額の下限を、1998年4月までに70億円まで段階的に引き下げることを約束した。  第3分野に関して1996年の合意の下で、日本は、外国企業が規制緩和後の生保・損保分野でプレゼンスを確立するために十分な期間が経過するまで、日本の保険会社の新規子会社が、ガン保険、医療保険、傷害保険など外国保険会社にとってとくに重要な第3分野の商品を販売することを禁止または大幅に制限することを約束した。
 この合意には、1996年の合意による生保・損保分野の規制緩和措置を日本が1998年7月までに完全に実施した場合、第3分野における激変を避ける措置を解除するための2年半の『時計の針』を始動させることが定められた。日米両国は、1996年の生保・損保分野の規制緩和要件がすべて実施されているかどうかについて、まだ最終的に共同で判断するに至っていない」。



 「2つの保険合意の下での2国間協議は、最近では1999年4月にワシントンで行われた。これは、1998年6月に保険を含む金融サービスの監督・規制のために設立された独立規制機関である金融監督庁の代表者が初めて参加した正式の2国間協議となった。日米両国の保険規制制度に関する現行および今後の計画について相互理解を深めるため、米国は4月の会合で規制当局者間の協議機会を設け、全米保険監督官協会(NAIC)の代表がこれに参加した。
 この点検会合の中で、日本政府が提供したデータと1994年の合意に盛り込まれた客観基準を使い、日本による1994年と1996年の合意規定の実施状況を評価した」。
 

 

簡易保険について、米国政府は執拗にその撤廃を迫っていた。


 「簡保に関して、日本は1994年の合意の中で、簡易生命保険法(『簡保法』)により郵政省が基本的な保険商品11種類を提供することが認められていること、また郵政省がこの11種類から派生する25種類の商品を提供していることを確認した。日本はまた、簡保法で認められている商品または特約の範囲内の限られた変更を除いて、郵政省が提供する保険商品または特約を拡大または変更するには国会の承認が必要であることを確認した。日本は、簡保提供についていかなる変更に関しても、日本で営業する外国保険会社に対し、その件につき通知を受け、コメントを提出し、郵政省当局者と意見を交換するための意味のある公正な機会を提供することを約束した」。  2002年のUSTR報告では簡保に照準が絞られていた。 「米国はまた、日本が簡易保険制度(簡保)の役割を拡大する計画の可能性があることについても深刻な懸念を表明した。米国は、民間保険会社が提供している商品分野にも簡保を拡大することは、日本の規制緩和の目的と市場の『ビッグバン改革』に相容れないことを指摘した。米国は、簡保が保険業法の対象外で金融監督庁や公取委の監督の対象にならないことについても懸念を表明した。これらの事項については、1999年11月および2000年2月の規制緩和構造作業部会の会合で協議され、この中で米国は、日本がこうした要望を受け入れることが、米国の対日保険アジェンダの進展における重要な一歩となることを強調した」。


 ながながとUSTRを引用してしまったが、米国の保険業界の対日交渉は、独立国に対する相手の意志を尊重する姿勢など微塵もない。まず、日本の保険市場の大きさへの注意を喚起し、そうした市場に参入するためには、折角切り開いた第3分野を規制改革の流れに逆行した形、つまり、日本の大手会社の第3分野への進入を当分の認めない。どの程度、外資が日本市場に食い込んだのかを米国の保険業界の団体を入れてサーベイする。日本の簡保の各種特権を剥奪し、民営化する、しかも、その検討委員会には外資の意見を反映させるというものである。日本という語を米国という語に置き換えればこうした合意の異様さに気づくはずである。日本を含む外資が、米国の保険市場に食い込むことができないのは、米国の規制のためであるので、そうした規制を撤廃せよ、米国で弱い日本企業が活躍できる分野を保証しろ、等々のことを日本政府は一度でも米国政府に要求して見ろ。ただちにそうした政府は叩きつぶされるはずである。そうした異様さに気づいているのかいないのか、へらへらとした日本側の交渉担当者たちに意見はないのか。


 そして、2001年、第3分野に、日本の大手が参入してもよいことになった。その間、2年半どころではなかった。じつに、6年間も経過したのである。その間、アフラックのように、米資は、日本市場で首位の座に躍り出たのである。

 

 「規制緩和という新たな規制」の最たるものが、日米保険協議である。

  アフラック会長の勝利宣言とは、米国政府のごり押しによる日本企業の犠牲の上に成り立ったものであることを多くの人は正しく知らなければならない。

 

 アフラック会長は、ガン保険の分野で日本市場で1位になり、同じくこの分野で第2位の第一生命との業務協定に成功したと誇らしげに演説した。団体の医療保険でも1位になったと自賛した。


 同会長はさらに演説を続ける。2003年4月1日から医療保険制度が変化し、患者負担がそれまでの20%から30%になった。今後、日本の高齢化はますます進む。ということは、公的医療保険制度は後退し、民間保険が大きく伸びることになるであろう。  生命保険分野だけに限定すれば、日本は20兆ドル、米国が30兆ドルで、両国の合計は他のすべての国の合計を上回る。その巨大市場から簡保が撤退させられ、米資が市場を獲得するのである。


 同会長の言葉を引用しよう。 「とくに、医療に関する患者負担が増えることになれば、私たちのような分野がニッチ市場ということで拡大すると思われ、財務基盤がしっかりした信頼できる生保を求めるということになる。アフラック・ジャパンがなければ、私たちもここまで成功できなかった」。


 日本で進行させられている規制緩和とは、こうして米資に日本市場を貢ぐことなのである。不思議なのは、日本の財界主流が、そうした事態への不満を漏らさないことである。まがいものの規制緩和で、日本の財界本流はなにか得るものがあったのだろうか。骨のある財界人は、いなくなってしまったのだろうか。米国政府へのイエスマンは、政界、官界、大学、マスコミだけでなく、財界をも包み込んでしまったかの観がある。


 アフラックは、改名前は「アメリカン・ファミリー」として日本人にはその名を記憶されてきたものである。アフラックの英語名は、American Family Life Assurance Companyである。エイモス3兄弟(ジョン、ポール、ビル)によって、ジョージア州コロンバス市に1955年に設立された。アフラックに社名変更したのは2005年である。  日本で扱う商品は、ガン保険、特定医療通院給付金(放射線治療、抗ガン剤治療、ホルモン療法を受けるため通院したとき入院の有無に関わらず保障)、高度先進医療給付金(健康保険制度適用外で多額の費用がかかる高度先進医療も保障)などである。 2003年春から(米国本社では2000年から)、パペットで精巧に作られたアフラックダックをイメージキャラクターとして採用し、CMにも登場し、現在はシリーズ化されている。この間、このCMは数多くのニュース番組やバラエティショーの話題として取り上げられたほか、効果を上げた広告に贈られるエフィー賞を受賞するなど、米国では話題のCMのひとつとなっている。


本山美彦 福井日記 38 雁渡来

2006-09-08 00:15:44 | 路(みち)(福井日記)

 わが下宿周辺の広大な田圃は、いま稲刈りのたけなわである。機械のすごさに驚嘆して見ている。刈り取り機の周囲には、カラスやサギがちょこちょこついてきて、なかなかユーモラスな雰囲気を漂わせてくれる。

 

 

 早朝、ジョギングしていたら、素晴らしい光景に出会った。なんと、まだ9月というのに、雁が渡来したのである。雁は、稲が刈り取られた後の田圃に舞い降りる。例年、11月前後に渡来するものであると聞く。しかし、今年は、まだ残暑厳しい9月初めに渡来した。なぜなのだろう。

 

 私が見ているのは、「真雁」であろうと思う。体長は70センチ程度。やや灰色を帯びた茶褐色で雄雌同色らしい。嘴はピンクがかったオレンジ。足はオレンジ色。嘴の付け根の額の部分は白い。白い腹部にベルト状の黒い模様がある。鴨川の鴨にどことなく似ている。

 

 夏、シベリアで暮らし、9月にいったん北海道に渡り、その後、11月前後に本州に渡来する。そして、3月ごろに北上し、いったん北海道にとどまった後シベリアに帰る。主たる繁殖地はシベリアである。本州の滞在地は、日本海側は島根県の宍道湖以東、太平洋側は日本最大の伊豆沼などがある宮城県まで合わせて約40か所あるという。夜はねぐらの湖沼にいて、昼、近くの水田に食事に向かう。主に水田の落ち穂を食べ、さらに水田に生えている植物の根を食べる。

 

 朝、雉を良く見る。ケーンという甲高い声を出す。雁の声は、雉と同じである。

 いい光景だ。いつまでもこうした神の恵みに浸ることができるようにと祈りながらジョギングした。


見えざる占領 02[保険篇] 奇妙な日米保険交渉(1)

2006-09-06 02:03:11 | 時事

 2003年6月24日、「日米投資イニシアティブ」に関係する活動の一環として、日本の経済産業省がシカゴで「対日投資シンポジウム」を開催した。そのさい、アフラックの最高経営責任者(CEO)のダニエル・エイモスが基調講演を行った。日本での保険分野におけるアフラックの目を見張る躍進ぶりがそこでは誇らしげに語られた。


 2003年、アフラックは、それまで、日本での生命保険保有契約件数において第1位であった日本生命を抜いて、首位に躍り出たのである。外国の企業が、日本の同業者を追い越して第1位になったということは、日本の歴史始まって以来のことである。 当時の最高経営責任者をしていたダニエルの叔父が、大阪万博見学をかねて、日本各地を視察した。そのとき、彼の目に留まったのが、日本人の多く白いガーゼのマスクをしていたことである。風邪を人に移したり、逆に移されたりすることを防止するために着用しているのであるとの説明を聞いて、彼はひらめいた。そのように考える国民なら保険も買うであろうと。彼は、生命保険を日本で売るべく、日本の市場調査を行った。その結果、日本人の高い貯蓄性向と生命保険を重視する性質が判明し、1972年に、日本で保険業務を行うための免許申請をした。


 日本に事務所を開設、日本政府への説得を開始し、1974年に免許を得た。最初の4年間で契約数350万件であったが、15年後の1989年には契約数が2500万件にも増加した。現在では、日本の全世帯数の25%をカバーするまでになった。日本で活動する外資の中では、売上高において、コカコーラを抜いて、IBM に次ぐ第2位である。



 販売戦略として、大手企業を代理店にした。代理店になった大手企業が、従業員にアフラックの商品を売るという仕組みを作った。アフラックは、これをエージェンシー制度と呼んでいる。この仕組みは本拠の米国では認められていないものである。しかし、日本では認められた。現在、東証に上場している企業の95%がアフラックのエージェンシーになっている。アフラックの日本法人であるアフラック・ジャパンは、世界のアフラックの全利益のうち、じつに、70%も稼ぎ出している。


 2002年度には、大手生命保険会社のうち、7社も、ソルベンシー・マージンが悪化して、破産した。ソルベンシー・マージンとは、保険会社の経営の健全性を測る指標の1つで、保険金の支払余力を意味している。支払余力とは、大災害や景気低迷などの通常の予測を超える事態が起こった場合の、保険金の支払能力のことである。保険会社では、契約者に保険金などを支払うために、通常の予測に基づき、責任準備金として保険料や運用収益などを積み立てて対応している。そうした資金が支払余力である。


 日系勢のソルベンシー・マージンの低下が目立つと、逆に、アフラックの財務内容のよさが際だつようになった。この年、日本の大手生命保険会社を尻目に、アフラックは、全体で、売上を18%上昇させた。2003年度には、新規保険契約で10億ドル分に達した。資産も1日当たり1000万ドル分増大させた。


 ダニエル・エイモスが入社した1973年の総資産は、アフラック全体で4400万ドルであった。この数値は、現在では、アフラック・ジャパンだけで、たった4日半だけで達成できる数値である。それほど、アフラックにとっての日本は重要な市場となっている。日本の生命保険会社の上位13社のうち、資産の伸び、ソルベンシー・マージン、営業利益率においていずれも第1位である。保険契約ごとの費用も、日本の会社に比べてかなり低い。


 ダニエル・エイモスは、アフラック・ジャパンの最大の強みとは、商品の販売方法の違いであると豪語する。つまり、日本の会社は、自社の従業員に商品を販売させている。これでは、商品が売れない場合でも従業員に給料を払わなければならない。これに対して、アフラック・ジャパンは、コミッション制度を採用している。コミッショナーは、商品の売上を伸ばせば収入が増えるが、商品を売らなければ収入はゼロになってしまう。アフラック・ジャパンの従業員は3500人、米国人は2人だけである。そして、商品を売るエージェントは5万人いる。


 アフラック・ジャパンが、日本で快進撃したのは、ひとえにガン保険を日本で初めて開拓したからである。通常、死亡時に保険金が支払われるという従来型の生命保険のことを第1分野といい、これも従来型の損害保険を第2分野という。それ以外の分野が、いわゆる第3分野である。


 第1分野には、終身保険、定期保険、養老保険、年金保険などがある。第2分野には、自動車保険、火災保険、賠償責任保険、動産総合保険などがある。そして、第3分野には、傷害保険、所得補償保険、医療費用保険、介護費用保険などがある。  アフラックをはじめ、米系外資は、ここに第3分野で大きな地位を保証されていた。日本における保険業務の規制緩和とは、外資が参入しやすいようにすることである。日本は、1994年までは、保険の種類ごとに非常に細かく営業内容が定められていて、外資の参入する余地はなかった。生命保険と損害保険との相互参入の認可は、日本政府の発案ではなく、米国政府の圧力から実現したものである。細かく規制されている分野には外資は参入できないが、これが外され、相互参入が認められると、それだけ外資にとって参入できる余地が大きくなるからである。


 1994年の「日米保険合意」ができるまでは、当時としては新しい第3分野には、日本の大手保険会社は見向きもしなかった。この分野が、外資にとって、「隙間」(ニッチ)市場に他ならなかった。この隙間にアフラックなどの外資は参入し、ほぼこの分野を外資が独占していたのである。


 しかし、この合意は、へんてこなものであった。第1と第2の分野は規制緩和によって、競争を促すが、第3分野は、従来通りで行くというのである。つまり、第3分野は、まだ営業基盤の弱い外資にとって死活的に重要な分野なので、この分野に、日本の大手企業が参入してもらっては困るというのである。当分の間、業界秩序を激変させないために、第3分野に進出できるのは、外資と日本の中小企業に限定するというのである。まったく、「日米保険合意」とは、外資にとって都合のよい「規制緩和」だったのである。


現代米国の黙示録 12 メガ・チャーチ(2)

2006-09-05 00:59:59 | 現代宗教

 メガ・チャーチの企業性を示すエピソードとして、イエス・キリストの生誕日とされている12月25日が日曜日と重なれば、クリスマスの集会を開かずに、従業員を休ませ、クリスマス行事をしないメガ・チャーチが増えたことが挙げられるハイベルズが司祭を務める「ウィロー・クリーク・コミュニティ・チャーチ」はそうした傾向に先鞭をつけた。 2005年のクリスマスがまさに日曜日であった。AP通信によれば、毎週約7000人が礼拝に参加するケンタッキー州レキシントン近郊の「サウスランド・ディサイプル・チャーチ」も12月25日の礼拝を休むことにした。教会職員やボランティアが自分の家族と聖日を過ごせるように考えたからであると言う。


 そのような教会として、AP通信は、シカゴの「ウィロー・クリーク・コミュニティ・チャーチ」、ミシガン州グランビルの「マースヒル・バイブル・チャーチ」、ジョージア州アルファレッタの「ノースポイント・コミュニティ・チャーチ」、ダラス近郊の「フェローシップ・チャーチ」といった福音派のメガ・チャーチを挙げている。


 カリフォルニア州パサデナの「フラー神学校」のロベルト・K・ジョンストン教授は、「今起きていることは、クリスマスが救世主の誕生を祝う信仰共同体の時としてよりは、むしろ家族の祝いの時としてクリスマスが再定義されているということを表している。しかし、それが、信仰の核心にあるキリスト教儀式を一つ失うことになる危険性がある」と嘆いた。 Finke & Stark[1992]によれば、米国の宗派ごとの信者数シェア(クリスチャンの内訳)は、正統派プロテスタント(統一メソジスト、米国長老派教会、米国聖公会)が、80年の12%から2000年には9%に低下している。これに対して、福音主義者(南部バプティスト、キリスト神教会、アッセンブリー・オブ・ゴッド教会)は、80年の13%から2000年には15%に上昇している。
 こうして、21世紀に入って、福音主義者が、米国宗教界で最大勢力にのし上がったのである。アクロン大学、ジョン・C・グリーンの資料によれば、2004年の米国人の宗派別人口のシェア(全人口に占める内訳)は、白人福音主義者が26%、黒人福音主義者(白人とは宗教的には違いはないが、政治的主張が異なるために、白人とは区別して扱われる)が10%、正統派プロテスタントが16%、無教会が16%、非キリスト教徒(仏教、ユダヤ教、イスラム教、その他)が5%、その他のキリスト教徒が5%(計100%)であった。
 米アラバマ州フローレンスの「神の第一教会」は、青年たちに生きた金魚を飲み込ませるという苦行を強いている。これを同教会は、「恐怖の要素」宣教と称している。青年たちに恐怖というものを教え込もうというのである。教会の青年担当アンソニー・マーチン牧師は言う。  「私たちは、聖書が恐怖に関して記していることを実際に受け止め、学校で私たちの信仰を共有することを恐れないようにする必要がある。私たちはそんな恐怖に人生を支配させられない用意をしておくべきである」。


 これぞ、「レフトビハンド現象」である。イエス・キリストの再臨があるまで、キリスト教徒たちは、トリビュレーションの艱難に苦しまなければならない。世の中は恐怖と苦難に満ちている。それと戦う強い気持ちをもたなければならない。恐怖を克服する意志をもたねばならないというメッセージを出して、メガ・チャーチの指導者たちは、次々と恐怖を製造するのである。  実際、米国の権力は、米国福音派教会のこうした姿勢を最大限利用してきた。 あまりにも不興を買ったために廃止されたが、2004年4月、占領政府はイラクの新国旗を作成した。これは、非常にイスラエル国旗と似たものであった。田中宇は、これを「米占領軍が米国内のキリスト教右派に向けて、イラクがイスラエルの一部になったことを示すために、こんな旗を作ったのではないか」と疑っているhttp://tanakanews.com/e0721secondcoming.htm)。


 米軍がイラクを占領した直後、米軍はイラク人の各派を集めて開催された最初の地が「ウル」であった。ウルは、聖書によるとアブラハムの故郷である。イスラエル人の始祖であるアブラハムは、ウルからカナンの地(イスラエル周辺)に移住した後、神からナイル川からユーフラテス川までの中東一帯の支配を任されたと聖書にはある。田中宇によれば、これも、米軍による米国福音派へのメッセージである。つまり、米軍が聖地イスラエルの領土を取り戻したということを米国の福音派にアッピールしたのであると、田中宇は言う。


 「かつてアメリカが入植・建国されていく過程で、イギリスからアメリカ大陸への移住を、イスラエルの再建になぞらえたキリスト教徒の勢力がいくつもあった。彼らは、自分たちの行動力でアメリカにイスラエルが再建され、それをきっかけにして歴史が聖書の記述通りに展開してイエスの再臨が起き、千年の至福の時代を早く実現させたいと考えた」。


 聖書に書かれている通りに歴史が動くなら、早く千年王国が到来するように、聖書の預言を自分たちで実現させよう、つまり、戦争を起こそうというのである。再び、田中を引用しよう。


 「大昔から自然に形成された伝統のある社会に住む日本人など多くの国の人々にとって、歴史は『自然に起きたこと』の連続体であるが、近代になって建国されたアメリカでは『歴史は自分たちの行動力で作るもの』という考え方が強い」。


 その意味において米国は特殊な存在なのである。つまり、彼らは、自分たちの行動力で国際政治を動かし、最終戦争状態を作り出そうとしているのである。キリストの再臨を促すのは、イスラエルをまず強大にさせ、敵のイスラムへの攻撃を誘発し、最後に米国とイスラエルの共同戦線によって、中東からイスラム勢力を一掃することがキリスト教徒の責務となるという歴史観に福音派は浸っている。そんな馬鹿なという思うのが常識というものであろう。しかし、レフトビハインド現象の蔓延、福音派による露骨なイスラエル支持、さらには、米国の権力者がイスラエルを支えることによって米国内の福音派の支持を得るという構造を見るとき、荒唐無稽なシナリオがもしかして米国民の心の奥底を捉えてしまっているのではないかとの恐怖感を私などは抱いてしまう。


 しかし、米国内にも冷めた目があることを急いで付け加えなければならない。『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、ビル・ケラーが、2004年5月17日、「神とジョージ.W.ブッシュ」という題の記事を書いていて、そこでは、キリスト教右派の影響力はすでに無に等しいと断じている。これが、米国の良識というものだろう。しかし、私は、レフトビハインド現象を、もっと深刻に捉えている。