消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

見えざる占領 08[教育篇] 売り渡される日本の教育(3)

2006-09-15 23:17:45 | 時事

 グレン・フクシマという日系3世の米国人がいる。米国政府が発信する政策方針を日本政府から委託された政府審議会委員が受け止め、日本政府に飲み易く加工すべく、米国政府から委嘱された代理人と交渉し、その結果が、内閣府に回され、首相からその方針に従えと各省庁に指令されるというのが、この10年間にわたって普通に見られる日本の政策決定の構図であった。この構図の設計者が、グレン・フクシマであったと言っても誤りではないだろう。


 1994年1月、彼が発足後1年のクリントン政権に提出した『対日政策レポート』からこの構図が作られた。クリントンは、このレポートの中には、「日本の反感を招かずに、目標をもっとも有効に達成するには、日本に対する外圧を、どの程度、どのように、そして、いつ、かければいいのかを、(クリントン)政権は分かっていない」という文章がある。クリントン大統領は、この個所に下線を引き、クリストファー国務大臣やカンター通商代表にそのレポートを見せ、彼らだけでなく、全閣僚が閲覧するようにと命じたとされている。


 フクシマは、1949年に米国のカリフォルニア州に生まれた。スタンフォード大学に合格していたが、「ディープ・スプリング・カレッジ」という非常に小さい私立短大に進学した。教師5名、生徒20人という極端に小さい学校である。全米大学進学適正試験(SAT)で全米1、2番という成績を取った大秀才が集まる短大である。集まるといっても、1学年10名程度しか入学できない。ほとんどの生徒はハーバードエールといった有名大学にも合格したのに、この短大に入学している。卒業後は4年制大学に編入学するのである。しかし、彼は、4年間以上、大学に在学すると、当時、真っ盛りであったベトナム戦争に徴兵される可能性を恐れて、早く大学を卒業すべく、スタンフォード大学の1年生に編入学した。初めは医学部志望で理系の勉強をしていたが、3年生で歴史と経済学を勉強するようになった。4年生の時、交換留学生として慶應大学の法学部に聴講生として入った。そして、1972年にスタンフォード大学を卒業した。1971年の卒業予定であったが、徴兵を逃れるために、そのまま慶應に留学生として居続けたかったからであると自ら告白している。


 1972年の10月に開かれた第2回日米学生会議で知り合った日本女性と結婚し、『アサヒ・イブニング・ニューズ』の仕事、アテネフランスでの英語の仕事をした。1973年から国際法律事務所でアルバイトをしながら、東京大学大学院の外国人研究生として日米関係の勉強をした。そして、1978年にハーバード大学大学院に進学している。そこで、ビジネス・スクールとロー・スクールのジョイント・プログラムのコースに在籍した。


 4年後の1982年にプログラムを終え、博士論文作成のために、東京大学法学部に入り、商法と経済法を学ぶ。その間、慶應、立教上智の各大学にも出入りした。1984年に米国に帰国、ロサンゼルスの法律事務所で弁護士の仕事に従事する。そして、1年後の1985年4月1日からUSTRにスカウトされた。


 USTRの役人として日本にきて後、米国の役人が日本のことをほとんど知らないことにショックを受ける。日本の役人が米国のことをよく勉強していることと対照的であることを痛感する。


 その5年後、つまり、1990年、自らの通信サービスへの関心もあって、AT&Tジャパンに会長として入社する。米国政府による日本政府への要求の最初に、「通信サービス分野」があることと、フクシマのAT&Tジャパン社会長とは無関係ではないだろう。


 しかし、1995年9月20日、AT&Tの3分割に遭遇する。AT&Tは、通信機器メーカーのルーセント・テクノロジー、コンピュータ会社のNCR、そして、通信サービスのAT&Tの3つに分かれた。1996年、新生AT&Tに居残るが、通信サービスだけに限定させられたAT&Tに嫌気がさし、1998年5月、アーサー・D・リトル社の日本支社長としてヘッド・ハンティングされた。


 このアーサー・D・リトル社は、経営と技術に関する世界最大級の国際的コンサルティング会社であり、米国ではもっとも旧い歴史をもつ。1886年、マサチューセッツ工科大学のアーサー・D・リトル博士によって創設されている。世界20数か国に、50以上の事務所を配置し、顧問先は50か国を超える。3500人を超すスタッフを擁し、経営コンサルティング会社として不動の地位を確保している。


 日本法人、アーサー・D・リトル(ジャパン)株式会社は、1978年に設立された。フクシマが入社した時期は、日本企業の系列が揺らぎはじめ、金融政策も護送船団方式を止め、日系金融機関は、外国の経営コンサルティング会社への需要を急増させると予想されていた時である。


 同氏自ら神戸大学大学院経営学研究科教授・金井壽宏のインタビューに次のように答えている。

 「規制緩和などによる変化によって、日本における直接投資が増える。外国からの企業にも経営コンサルティングのサービスの需要がある。そういういくつかのファクターをもって」、同社の日本支社長への就任を受諾した。


 フクシマが金井教授に語っている自身の役割を次の3つに集約している。

 1つは在日米国商工会議所の仕事(1998~2000年会頭)で、日本政府、日本の経済団体との関係を深め、米国政府や米国企業との交渉の仲立ちをする。


 2つは、米国政府が資金を提供する日米友好基金の仕事。これは、日米の知的交流をする機関であり、米国務省と教育省の局長レベルの会議で15人の委員からなる。ここでも、フクシマがキーパーソンになっている。


 3つは、アーサー・D・リトルの仕事。おのおの、20%、5%、75%の比率で時間配分を行っていると彼は話した。


 フクシマ・レポートがクリントン大統領に渡されたのが1994年1月であった。そのわずか9か月後、クリントンは、チャールズ・レイク・USTR日本部課長を日本に派遣し、「規制緩和」を要求させた。そして、米国政府は、同年の11月、最初の『年次改革要望書』を日本に提出した。


 そして、内閣総理大臣を本部長とする「行政改革推進本部」の下に、「規制緩和委員会」が1998年1月に設置された。この委員会は、1999年4月に同じ監督部の下で「規制改革委員会」と名称を変更した。委員会の座長は、少なくとも2006年現在までは、オリックス会長の宮内義彦がずっと続けている。


 第1回の同委員会の議事概要には、米国側がこの委員会の進捗程度に不満を表明しているとし、それを織り込んだ同委員会の第2次見解が1999年12月14日に小渕総理に提出された。そこには、「法務」、「金融・証券」、「保険」、「エネルギー」、「情報・通信」、「運輸」、「流通」、「住宅・土地・公共工事」「医療・福祉」、「雇用・労働」、「教育」、「保安・環境ビジネス」、「個別基準認証」の13分野が規制緩和の重点分野として列挙された。これは、明らかに、『年次改革要望書』の内容に沿ったものである。


 2000年11月、規制改革委員会にフォーリー米駐日大使が招かれ、『年次改革要望書』の説明を行った。米国の意向が、日本の規制改革委員会に反映されているであろうことを想像させるのに、十分な招聘であった。


 2001年6月、小泉内閣の「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」出された。


 「経済の再生」の項目の(2)に「人材大国の確立」が配置され、次のように書かれている。


 「このため、教育全般について、そのあり方を検討する必要がある。特に国立大学については、法人化して、自主性を高めるとともに、大学運営に外部専門家の参加を得、民営化を含め民間的発想の経営手法を導入し、国際競争力のある大学を目指す」。


 「(3)民間活力が発揮されるための環境整備」の「(i)規制改革」の項では、 「社会的規制の改革はさらに遅れている。特に、医療、労働、教育、環境等の分野での規制改革は、サービス部門における今後の雇用創出のためにも重要である。本年発足した総合規制改革会議における、これら重点検討分野の検討が期待される」。


 在日米国商工会議所は、宮内義彦を2001年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選んだ。「永年にわたる規制緩和や構造改革に向けた積極的な活動」が表彰の理由であった。


 さらに、2003年5月、第2回目の2003年日米投資イニシアティブには、第1回にはなかった「教育・医療分野への投資が、米国側の大きな関心事項」として追加されたのである。


 さて、件のフクシマは、2000年10月より日本ケイデンス・デザイン・システムズ社長、2003年7月より同社会長に就任。さらに、2005年2月、エアバス・ジャパンの代表取締役兼CEOに就任した。エアバス・ジャパンは、2001年5月設立された。特に日本の航空会社に向けた販売活動の強化を図る他、日本の航空機メーカーとの産業協力拡大や顧客支援活動に力点を置いていると同社はホームページで宣伝している。


 フクシマは、米国政府の機関、USTRのお陰で引き立てられながら、今度は、米国と対立する敵方の航空機メーカーの日本代表になったのである。日本的浪花節が通用するお人ではなく、国際的なビジュネスマンであることは確かである。しかし、彼が、日本を最大の儲け口にしていることも同じく確かである。