消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

見えざる占領 02[保険篇] 奇妙な日米保険交渉(1)

2006-09-06 02:03:11 | 時事

 2003年6月24日、「日米投資イニシアティブ」に関係する活動の一環として、日本の経済産業省がシカゴで「対日投資シンポジウム」を開催した。そのさい、アフラックの最高経営責任者(CEO)のダニエル・エイモスが基調講演を行った。日本での保険分野におけるアフラックの目を見張る躍進ぶりがそこでは誇らしげに語られた。


 2003年、アフラックは、それまで、日本での生命保険保有契約件数において第1位であった日本生命を抜いて、首位に躍り出たのである。外国の企業が、日本の同業者を追い越して第1位になったということは、日本の歴史始まって以来のことである。 当時の最高経営責任者をしていたダニエルの叔父が、大阪万博見学をかねて、日本各地を視察した。そのとき、彼の目に留まったのが、日本人の多く白いガーゼのマスクをしていたことである。風邪を人に移したり、逆に移されたりすることを防止するために着用しているのであるとの説明を聞いて、彼はひらめいた。そのように考える国民なら保険も買うであろうと。彼は、生命保険を日本で売るべく、日本の市場調査を行った。その結果、日本人の高い貯蓄性向と生命保険を重視する性質が判明し、1972年に、日本で保険業務を行うための免許申請をした。


 日本に事務所を開設、日本政府への説得を開始し、1974年に免許を得た。最初の4年間で契約数350万件であったが、15年後の1989年には契約数が2500万件にも増加した。現在では、日本の全世帯数の25%をカバーするまでになった。日本で活動する外資の中では、売上高において、コカコーラを抜いて、IBM に次ぐ第2位である。



 販売戦略として、大手企業を代理店にした。代理店になった大手企業が、従業員にアフラックの商品を売るという仕組みを作った。アフラックは、これをエージェンシー制度と呼んでいる。この仕組みは本拠の米国では認められていないものである。しかし、日本では認められた。現在、東証に上場している企業の95%がアフラックのエージェンシーになっている。アフラックの日本法人であるアフラック・ジャパンは、世界のアフラックの全利益のうち、じつに、70%も稼ぎ出している。


 2002年度には、大手生命保険会社のうち、7社も、ソルベンシー・マージンが悪化して、破産した。ソルベンシー・マージンとは、保険会社の経営の健全性を測る指標の1つで、保険金の支払余力を意味している。支払余力とは、大災害や景気低迷などの通常の予測を超える事態が起こった場合の、保険金の支払能力のことである。保険会社では、契約者に保険金などを支払うために、通常の予測に基づき、責任準備金として保険料や運用収益などを積み立てて対応している。そうした資金が支払余力である。


 日系勢のソルベンシー・マージンの低下が目立つと、逆に、アフラックの財務内容のよさが際だつようになった。この年、日本の大手生命保険会社を尻目に、アフラックは、全体で、売上を18%上昇させた。2003年度には、新規保険契約で10億ドル分に達した。資産も1日当たり1000万ドル分増大させた。


 ダニエル・エイモスが入社した1973年の総資産は、アフラック全体で4400万ドルであった。この数値は、現在では、アフラック・ジャパンだけで、たった4日半だけで達成できる数値である。それほど、アフラックにとっての日本は重要な市場となっている。日本の生命保険会社の上位13社のうち、資産の伸び、ソルベンシー・マージン、営業利益率においていずれも第1位である。保険契約ごとの費用も、日本の会社に比べてかなり低い。


 ダニエル・エイモスは、アフラック・ジャパンの最大の強みとは、商品の販売方法の違いであると豪語する。つまり、日本の会社は、自社の従業員に商品を販売させている。これでは、商品が売れない場合でも従業員に給料を払わなければならない。これに対して、アフラック・ジャパンは、コミッション制度を採用している。コミッショナーは、商品の売上を伸ばせば収入が増えるが、商品を売らなければ収入はゼロになってしまう。アフラック・ジャパンの従業員は3500人、米国人は2人だけである。そして、商品を売るエージェントは5万人いる。


 アフラック・ジャパンが、日本で快進撃したのは、ひとえにガン保険を日本で初めて開拓したからである。通常、死亡時に保険金が支払われるという従来型の生命保険のことを第1分野といい、これも従来型の損害保険を第2分野という。それ以外の分野が、いわゆる第3分野である。


 第1分野には、終身保険、定期保険、養老保険、年金保険などがある。第2分野には、自動車保険、火災保険、賠償責任保険、動産総合保険などがある。そして、第3分野には、傷害保険、所得補償保険、医療費用保険、介護費用保険などがある。  アフラックをはじめ、米系外資は、ここに第3分野で大きな地位を保証されていた。日本における保険業務の規制緩和とは、外資が参入しやすいようにすることである。日本は、1994年までは、保険の種類ごとに非常に細かく営業内容が定められていて、外資の参入する余地はなかった。生命保険と損害保険との相互参入の認可は、日本政府の発案ではなく、米国政府の圧力から実現したものである。細かく規制されている分野には外資は参入できないが、これが外され、相互参入が認められると、それだけ外資にとって参入できる余地が大きくなるからである。


 1994年の「日米保険合意」ができるまでは、当時としては新しい第3分野には、日本の大手保険会社は見向きもしなかった。この分野が、外資にとって、「隙間」(ニッチ)市場に他ならなかった。この隙間にアフラックなどの外資は参入し、ほぼこの分野を外資が独占していたのである。


 しかし、この合意は、へんてこなものであった。第1と第2の分野は規制緩和によって、競争を促すが、第3分野は、従来通りで行くというのである。つまり、第3分野は、まだ営業基盤の弱い外資にとって死活的に重要な分野なので、この分野に、日本の大手企業が参入してもらっては困るというのである。当分の間、業界秩序を激変させないために、第3分野に進出できるのは、外資と日本の中小企業に限定するというのである。まったく、「日米保険合意」とは、外資にとって都合のよい「規制緩和」だったのである。


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