思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

UFOを撃退したクラウド・バスター

2019-04-25 22:31:57 | 思想、哲学、宇宙論
http://vrilgese.blog.fc2.com/blog-entry-915.html



1954年1月28日、ヴィルヘルム・ライヒ(Wilhelm Reich, 1897年3月24日 - 1957年11月3日)博士は初めてUFOを目撃した。午後10時、書斎にいた彼は窓から外を見ていてUFOを発見、15分にわたってその異常な飛行行動を観察した。
ライヒは、UFOの動力源としてこの宇宙に普遍的に存在するオルゴン・エネルギーを利用していると考えた。そして、異星人は地球を侵略しているとライヒは思った。1952年からの53年にかけてアメリカ全土を襲ったひどい旱魃は、異星人のしわざにちがいない。
ライヒはクラウド・バスターでUFOを撃退する決意を固めた。

1954年5月12日夜10時頃、アメリカのメイン州レインジェリー郊外のオルゴン研究所では、広大な敷地の一面に、まるで多連装高射砲のような装置が何本もの砲身を空に向け、月明かりの中に立っていた。数人の男たちが、その装置の周囲でいそがしく働いている。研究所の設立者ライヒ博士とその助手たちである。
やがて博士が、装置の先端を星の瞬く夜空の一点に向け、ねらいを定めると、装置を始動させた。数分間それを続けたのち、目標位置を少しずらした。こうして何度目かにねらいをつけたとき、突然、1つの星が急激に光を弱めた。まもなく星はふたたび元の明るさにもどったが、なおもねらいをつけていると、この星だけがさらに3回続けて、はっきりと暗くなった。それは、星のまたたきとか目の錯覚といった可能性のつけ入るすきがないほど、明瞭なものであった。
ライヒはその星が最初に暗くなったときに、すでにそれがただの星ではないことを見破っていた。その真の正体は、異星人の乗る宇宙船なのだ。彼は、自分の発明した装置、クラウド・バスターで、UFOのエネルギーを吸い取ることに成功したのだ。

このまま実験を満天の星の中にうまく身を隠したつもりのUFOも、エネルギーをどんどん吸い取られていくのに我慢できなくなり、擬装をかなぐり捨ててその場から逃げ出すのも時間の問題だった。
だが、UFOはライヒ博士とクラウド・バスターに攻撃してくる可能性もあった。
危険を感じたライヒ博士はそこで実験を一時中断した。そして、その夜は実験を再開したものの、もう一度別の星の光を弱めて、UFOの化けの皮をはぐクラウド・バスターの威力を確認するにとどまったのである。
この夜を境にして、クラウド・バスターはUFOを撃退するスペースガン(宇宙銃)に生まれ変わったのだ。10月10日夜の2度目の実験では数個の星の光が弱まったばかりか、星たちはスペースガンの銃口を避けて四方へ飛び散った。

1954年、FDA(アメリカ食品医薬品局)はオルゴン療法装置の販売を禁止し、ライヒは起訴され、懲役2年の刑を言い渡された。そして57年11月、彼はコネチカット州の刑務所で不遇のうちにその生涯を閉じた。60歳であった。
対UFO兵器スペースガンの開発にライヒが取り組もうとした矢先に、FDAが突如強硬手段に出た裏には、何か意図的なものが感じられてならない。

http://vrilgese.blog.fc2.com/blog-entry-738.html

オーストリア系ユダヤ人の心理学者ヴィルヘルム・ライヒのUFOについての見解は独創的である。
彼は、地球は銀河系の戦闘の中心地であり、UFOは敵対する者たちの軍艦だと述べている。一方の軍勢はとてつもなく邪悪で、地球を放射能の燃えかすにしてしまおうと、地球とその大気からオルゴンを奪おうとしているが、もう一方の軍勢は人類の味方で、盗まれたオルゴンを補給してくれているというのだ。

1953年11月、ライヒはUFOに関する本を読み、あるアイデアを思いついた。それは、生命が誕生するのは地球だけに限定されないのだから、UFOが宇宙から飛来しているのは事実だということ。さらに、UFOには独特の動きや青みがかった光が見られ、静かに動くという目撃報告があることから、UFOはオルゴン・エネルギーで動いているに違いないと確信したのだ。そして、UFOを操縦する人をCORE(cosmic orgone engineering)人と呼ぶようになった。
また、ラジウムに関する実験の結果から、彼はオルゴン・エネルギーには有益なオルゴン(OR)と致死性オルゴン(DOR)の2種類あるという結論に達し、UFOがDORを増大させているのではないか、という仮説も考え出した。UFOがオルゴン・エネルギーを使って、廃棄物のDORを放出しているとしたら、UFOは地球への侵略者になるのではないか。そのときは、自分の技術が必要とされるだろう、とライヒは考えたのだ。逆に良性であれば、ORANUR病(ラジウムによる疾病)に対する同盟者かもしれない、とも考えていた。
そのどちらなのかを確認しなければならない、と危機感を持っていたが、宇宙からの侵略者と戦う前に、ライヒが行っていた治療に対する医学会からの批判や訴訟が激化し、この疑問への答えは得られなくなってしまった。

このころ、ライヒはUFO撃退装置として「クラウド・バスター」という装置を開発した。UFOが排出する悪性の雲を消し、大気を浄化しようと考えたのだ。
クラウド・バスターは、長さ数メートルの金属パイプを数本束ねたものを、回転できる台座の上に据え付けたもので、パイプの下端にはケーブルが接続されており、このケーブルの先端を川などに入れて、悪性のエネルギー(DOR)を中和するというものだ。
また、クラウド・バスターは逆に雲を作り、雨を降らすこともできる。ライヒは地球の砂漠化を、人々の感情の病の結果生み出された現象と考え、クラウド・バスターを使った人工降雨実験を行って、実際に雨を降らすことに成功している。当時の新聞は、砂漠に突然降った雨に驚き、ライヒの実験の成功を大々的に報じている。
しかし、ライヒはオルゴン集積装置アキュミュレーターを偽医療器具と断定した販売禁止命令に違反し、実刑判決を受けて服役中の1957年に獄中で死亡した。
ライヒの死後、彼の説は忘れ去られるかに見えたが、賛同するセラピストたちは今も治療活動を続けており、オルゴン・エネルギーについても何人かの研究者がライヒの実験を追試したり、自らのアイデアを盛り込んで研究を続けている。




人工降雨装置クラウドバスター

2019-04-25 19:27:32 | 思想、哲学、宇宙論
http://diysome.web.fc2.com/FE/Hajime/index4.html#Israelexperi




2.2 イスラエルとナミビアにおけるデミオのフィールド実験


 アリゾナ実験は、私の口演と出版により知られるところとなり、だんだん、砂漠や乾燥した環境に住んでいる海外の私的な団体や、現実の結果が気象学理論より大事だという人達が興味を持つようになってきた。

 それで、私の仕事に、イスラエル(izrael, イズリアル)の私的財団と政府がスポンサーになった。1991-92年のことであった。3年間続く干ばつで彼らの貯水池がほとんどからになり乾いてしまっている状態を終わりにする、という目的であった。

 クラウドバスター・アンテナ10日間の運転が、大気の脈動と降雨の復活のトリガーを引いた(天気予報官の説明では、“ストームのドア”が開いた)。それは、雨期の全期間を通じて持続した。そして、全ての降雨記録史を打ち破るものであった。

 それから1年後、ナミビア政府がクラウドバスター・フィールド作戦のスポンサーとなり、12年間続く干ばつを終わらせることになった。それは、南アフリカ全域にわたる水源と野生生物の劇的な枯渇となったのであるが、最後の3年間は最悪となったのであった。

 2週間に渡り、私が率いたチームは、クラウドバスターを動作させた。一つの大型クラウドバスター・アンテナを用いた。すると状況が変わった。多量の降雨を連続的にアフリカの南部全域にもたらした。しかも何か月も続いた。(DeMeo 1993c)

 イスラエルとナミビアのどちらの場合も、動作させた後、すぐに干ばつが数か月間無くなったばかりではなく、それに続く雨期は素晴らしかった。約3年間は干ばつになることはなかった。これらの結果は、クラウドバスターの効果ばかりではなく、その装置が大気の脈動を復活させる、という点でもライヒを支持している。



2.3 エリトリアにおけるデミオのフィールド実験:5年プロジェクト


 あまり名も知られていないジャーナル内で公表しただけだし、また学術学会において発表したに過ぎないのに、イスラエルとナミビアの実験で良い結果が得られたという話が広がった。

 アフリカの角(つの=アフリカ大陸東端のソマリア全域 とエチオピアの一部などを占める半島)の中にあるエリトリア政府が、このことを知り、彼らが見舞われている長期旱魃を終わらせるために、この方法を使うことに興味を示した。

 約30年間、隣のエチオピアとの戦争の苦しみとともに、降雨量が平年を下回る状態が続き苦しんでいた。貯水量は極端に少なく、土地は、干ばつと動乱により荒れていた。私は、1994年の夏に開始する5年間テスト・プロジェクトを提案し、彼らはそれに同意したのであった(DeMeo 2002c)。

 5年間、私の国際的献身的技術者チームは、旱魃には戻らないことと降雨量を増やすことをゴールにおいて、エリトリアの各夏に赴いて数週間クラウドバスターを動作させた。

 Fig.16に見られるように、エリトリア市民航空局の公式天候データは、クラウドバスターを動作させる前の15日間に比べて、動作後の15日間は約50%の増加が、全観測点を通して、統計的有意(p<0.0042)に認められた。唯一の例外は、1996年の動作をしなかった時で、我々が仕事をした他の年に比べて降雨は少なかった。

 我々が仕事をした初めての年である1994年には、砂漠周縁部の草原地帯の近隣の地域に渡って、約30年間において初めて、平年以上の降雨を引き起こすという非常に大きな地域的な成果が現れた。1995、1997、1998および1999年の降雨量は素晴らしかった。そして、3個別々に離れているクラウドバスター・アンテナが協調動作に入ったとき、1998年、特別に大きな降雨量の増加が見られた。

 その期間の天気予報では、1998年にピークに達するエルニーニョ現象が強くなりつつあり、特に乾燥した天候になるということであった。しかし、我々が動作させたどの年も素晴らしい降雨が展開した。食料の輸入は激減した。

 サハラ砂漠の近隣の荒涼とした状態が与えられたのに、 この結果は、エリトエリアのみならずエチオピアとスーダンの大部分に影響を与えたのであるが、 1989年のアメリカの南西部バスター実験で見られた降雨倍増効果よりももっと驚異的であった。

 後でおこなった分析でわかったことだが、3台のクラウドバスター・アンテナを動作させたときの1998年の最も強力な動作期間は、殆どのナイル川流域で降雨量が大きく増大した時期であった。

 これは、ナイル川の流水量を劇的に増加させ、アスワンダムの背後にあるナセル湖を満たした。それは1968年に建設して以来はじめてのことであった。そればかりか、ナセル湖は、オーバーフロー状態になり、とてつもない量の水が放水路からサハラ砂漠に流れ込んだのである。(以下略)