思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

BABYMETAL はヘーゲルの世界精神の現れである

2015-05-16 20:34:31 | Weblog
ベビーメタルが世界で熱狂的に受け入れられるのは、世界精神の現れだからではないか。

bebi-metarugaBABYMETAL - Road of Resistance - Live in Japan - (Official Video)



Baby Metal live Mexico City 2015. Ijime,Dame Zettai





poyo3939さん
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2012/2/2900:00:57
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連綿と続く歴史を貫いて流れる根源的力、歴史はその現れ、これが絶対精神。
その歴史のその時代時代の基本的形を作る力が世界精神。
つまり、時代に制約された、
時代に特徴的(画期をなす)に現れた絶対精神が世界精神。
世界精神は絶対精神発現の各局面です。
絶対精神は世界精神を通して自らを現すわけです。






huuzoku168さん
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2012/2/2812:21:19
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ヘーゲルは神のごとくの哲学者ですから理解にはそれなりの覚悟が必要ですね。
一般的とはいえないかも知れませんが参考程度に

「絶対精神」
世界を統べる精神、キリスト教的には神といってもいいが、キリスト教的な論では説明に窮する部分があるのであえて東洋的に仏といえば、世界を統べる仏の精神で、個人個人はその仏の精神(仏性)を内在するものであり、その仏の精神に向かって努力する存在でもある。つまり、神、仏の精神が「絶対精神」ということですね。
神の子、仏の子という表現をすれば、神、仏の精神が絶対精神で、子はそれに向かって努力する存在とわけるとわかりやすいかもしれません。

「世界精神」
「1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに破れたプロイセンがナポレオンに征服されると、イェーナ大学は閉鎖せざるを得なくなった。ナポレオンはイェーナに入城し、それをヘーゲルは見た。ヘーゲルはこの時の事を「世界精神が馬に乗って通る」。と表現している。」
こういった表現から、ヘーゲルの説く世界精神とは世界がある方向に向かうように意図された精神(計画)が存在しそれを世界精神と言ってるのです。
もっとわかりやすく言えば、国際的な大企業であればある期間ごとに世界戦略というものを立てます。そのような世界戦略ともいえるのが世界精神ですね。
個々の精神の集合が未来を決めているのではなく予め計画された世界精神というものがありそれに向かって努力している存在が個々の精神であるということですね。ナポレオンの出現はその世界精神に合致したものということでしょう。









弁証法(ダイアレティック)と止揚(アウフヘーベン)の違い。

2015-05-16 15:51:19 | Weblog

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13110604603より


弁証法(ダイアレティック)と止揚(アウフヘーベン)の違い。
弁証法というのは対立物を止揚(アウフヘーベン)することで、新しい総合に至ること。
つまりメタ・レベルに到達することで、対立を乗り越えることだけど、止揚(アウフヘーベン)には二つの相反するような意味があって、一つは対立を克服して新しい局面に移行することだけど、もう一つは対立をそのまま温存して保存するという意味があります。
止揚の「止」というのは留めること、「揚」とはメタ・レベルに上昇することを意味するから、相反する意味が同居しています。
ヘーゲルが「精神現象学」で弁証法の典型的な例としてあげているのが、「主人と奴隷」の関係です。
主人は奴隷がいるから主人、奴隷も主人がいるから奴隷、どちらもどちらかが欠けたら規定を失うから、主人は主人でいられないし、奴隷は奴隷でいられません。
つまり、相互に依存しあっています。
主人が奴隷よりも優位なのは奴隷がいなくても食べるのに不自由しないこと、一方奴隷が主人に対して劣るのは主人がいないと食べてゆけないことです。
奴隷はたえず生命の危機に脅かされていて、自己の否定性に直面している。
しかし、自己の否定性を意識していることは、自己の自立性を獲得することです。
一方、主人は生命の危機に直面することがないから、かえって自己の自立性を失う。
こうして主人と奴隷の関係は逆転して、奴隷が自立性を獲得することで主人になり、主人は自立性を失うことでかえって奴隷になる。
このヘーゲルの「主人と奴隷」の弁証法を激賞したのがマルクスで、これは資本主義社会の「資本家と労働者」の関係を表したものだ、そして主人と奴隷の関係が逆転するのは、労働者が資本家を打倒する革命の論理だといいました、
だけど、ヘーゲルをよく読んでみると、主人と奴隷の関係は必ずしも逆転するのではなく、弁証法によっても依然として主人は主人だし、奴隷は奴隷です。
最近は、ヘーゲルは別に主人と奴隷の関係が逆転するのではなく、「相互承認」の関係に入るのだという見解が支配的です。
つまり、ベーゲルの述べているのは「承認論」です。
資本家が資本家であることを労働者が承認し、相互に「和解」に至る、それがヘーゲルが弁証法で述べたことだというのです。
そのように二つに見解が分かれるのは前述しましたように「止揚(アウフヘーベン)」という言葉のもともともっていた両義性に基づきます。
弁証法は「対立物の統一」とよく言われますが、それは弁証法の一面を捉えていっているものに過ぎず、別の一面では対立物を対立物として温存するものでもあるのです。

物質中心の浅い意識は誰もが持っている意識

2015-05-16 13:57:12 | Weblog
キリストも釈迦も意識を深めることで、高次の法則を認識し真理を悟ったのである。

法則は高次になるほど統一性と調和のレベルが高くなる。

物質中心の浅い意識は誰もが持っている意識なので、

物質科学による成果は誰もが理解できる。

そのため評価がしやすく、急激に発展してきたといえる。

深い意識は努力が必要なため、その成果は特定の人にしかわからない。


キタロウの音楽は、意識を深めることで認識された高次の法則である。