goo blog サービス終了のお知らせ 

思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

バッハのシャコンヌは、非言語的な神の思考

2016-07-08 10:54:33 | Weblog
不完全性定理が意味するのは、言語に基づいた人間の思考には限界があり

完全なものにはならないということだとすると

非言語的な思考なら完全なものに成り得るのかもしれません。

バッハのシャコンヌは、非言語的な神の純粋思考であるため完全性を持ち得たと思います。

神の思考は万物に浸透しているので、不完全な日常の中にも、神の完全性が潜んでいるのかもしれません。

バッハはそれをシャコンヌで表現したといえるのではないでしょうか。

神は音楽のような非言語的な論理構造の上に成り立っていると思います。


不完全性定理と神の非存在

2016-07-07 19:23:53 | Weblog

http://blogs.yahoo.co.jp/w4105015/17789247.html


最近『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』という講談社の現代新書を読み終わりました。面白かったので少し考察してみました。異論反論を歓迎します。



0. はじめに

本書には、そこで示されている不完全性定理を用いることによって、神の非存在が証明された一例が乗っているのだが、その論展開は、はるか200年前にイマニュエル・カントが提唱したことと酷似しているといえる。以下、それについての考察を述べる。


1. 不完全性定理とは

不完全性定理とは、いかなるシステムであろうと、そのシステム内部では決して解決できない問題が発生することを証明した定理である。つまり、すべての問題を解決する万能マシンは存在することができない、ということが明らかとなったのである。

不完全性定理について、より数学的に厳密な表現をすれば、ある程度の複雑なシステム(一定の公理と推論規則によって構成され、無矛盾であり、自然数論を含む程度の複雑さを要件とする)が、正常であるとき、システムは不完全となる。
システムが正常であるというのは、システムのすべての証明可能な命題が真であり、すべての反証可能な命題が偽であるということを指す。システムが不完全であるというのは、システムの命題の中に真であるか偽であるかを決定することが不可能である命題があるということを意味する。
そしてそこから、正常なシステムでは、自己の無矛盾性(証明可能であると同時に反証可能である命題が存在しないこと)を証明することができないという結論が出てくる。システムが正常であれば、システムの無矛盾は、前提として述べるまでもなく当然の帰結として導かれる。なので、ここで問題としているのは、その無矛盾が真理であるにも関わらず、それが証明不可能だという点にある。

システムの判断は、証明可能性に依拠している。つまり、論理的矛盾を発生させる命題に対しては、判断を下すことができない。文中でも挙げられていた例を出そう。

命題:「私は嘘つきである」 さて、この命題は真か偽か

この命題が真であるならば、「私は嘘つきである」という私の発言は正しいことになり、嘘をついていないことになり矛盾が生じる。また、この命題が偽であるならば、「私は嘘つきである」という発言は正しいことになり、この命題は真としなければならない。つまり、この命題は決定不可能な命題である。

このように不完全性定理は、システム内部に決定不可能な命題が発生するため、命題の真理性について判断できなくなることが必然的に起こることを証明した。真理性について判断をするためには、システムの外部からでないと不可能であり、システムの限界を示したのである。


2. 不完全性定理の哲学的帰結と神の非存在論

この不完全性定理によって、いくつかの重要な帰結が導かれる。それを端的に表せば、すべての真理を証明することは不可能である、ということである。そこに、決して越えることのできない「理性の限界」がある。

これは不完全性定理の、いかなるシステムであろうと解決できない(決定不可能)命題を含むということから導かれた帰結である。システムの内部では真理性を定義できない。

そして、いささか脱線になるが、これによって人間精神は機械を上回ることも帰結として導かれる。なぜならば、機械というシステム内では決定不可能な命題があるということを、人間はシステムの外部から発見することができるからである。人間自らも従わざるを得ない普遍的システムに対し、人間はその不完全性を理解できると言い換えても良い。

そして不完全性定理を用いて神の非存在の証明も試みられている。神とは、日本人がイメージするような神々ではなく、一神教における唯一絶対の神のことである。この神は、万物の起源であり、完全性をその要件とする。つまり、定義として、「すべての真理を知る無矛盾な存在を神とする」ことに異論はないだろう。
しかし、不完全性定理によって、矛盾なくすべての真理を決定することはできないことが証明されている。よって結論は「神は存在しない」ことになる。


3. 不完全性定理による神の非存在論の限界

この神の非存在の証明は、パトリック・グリムが1991年にゲーデルの不完全性定理を用いて行なったものである。しかし、この見解に限界があることは、本人も承知していたようである。以下、本文からの引用。

「ただし、グリムは、彼の証明が否定するのは、「人間理性によって理解可能な神」であって、神学そのものを否定するわけではないと述べている。(中略)つまり神は、理性では認識不可能な存在である。かりに神が存在するとしても(中略)、理性では立証不可能である。それが、ゲーデルの不完全性定理からグリムの導いた結論である」

神を人間と同じ法則の下におくならば、神の存在は否定される。なぜならば、その法則の下では否応なしに不完全性があることを余儀なくされ、神の無欠性も否定されるからである。しかし、神をそのような法則すら超越するものと捉えれば、話は変わってくるのである。
ここでは、神の存在の証明は、人間理性では不可能である、ということを覚えておいてもらいたい。それが最も重要な結論だからである。


4. イマニュエル・カントによる神の存在論の考察

カントは、神の存在論に対して、次のような見解を示した。

神の存在に関する先験的(ア・プリオリ)な考察は、すべて失敗に帰する。なぜならば、理性によって導かれた概念は、実在性を要件としないからである。
また、神の存在に関する経験的(ア・ポステリオリ)な考察もできない。なぜならば、万物の起源としての絶対者たる神を人間と同じ因果律の下で理解しようとするならば、神自身をもその因果律の法則下にある存在と認めざるを得ないからである。

つまり、神の客観的実在性を思弁的方法によって証明することはできず、また反証することもできない。それは先験的概念によって支配されている人間にとって、それを超越した存在としての神を理解することが人間理性そのものを超越することになるからである。

(カントは理性の思弁的使用によっては神の存在を証明することはできず、神の存在の認識という意図を達成することができないとしたが、それが実践的に使用される場合には、大きな意味を有するとした。『実践理性批判』参照)


5. まとめ

このカントの出した結論は、グリムが最終的に導いた結論と全く同じである。それどころか、カントは人間理性の限界についても不完全性定理と同様の指摘をしていた。

人間理性は、一定の先験的概念=システムの下で思考するため、その中で解決できない矛盾を抱えることになる。カントにとって神の存在論は、まさにシステム内における決定不可能な命題だったのである。

カントが『純粋理性批判』を出して200年が過ぎたが、人類は未だにそこで示された限界から脱け出してはいない。この限界をいつか超える日が来るのか、それともゲーデルが追認したように、限界を超えることはできないのだろうか。興味深いテーマである。




参考文献

1章~3章
高橋昌一郎『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』講談社現代新書 1999年


神の表現

2016-07-07 13:34:23 | Weblog
バッハのように神を音楽的に表現することは可能ですが、

数学で神を表現した人はいないと思います。

神はデジタルな論理で成り立っているのではなく、

音楽のようなヴァイブレーションで構成されているのかも知れません。

そして、その存在のみで自己完結した存在だと思います。


ゲーデルの不完全性定理について

2016-07-07 13:25:21 | Weblog
http://www.leitmotiv.info/archives/47935513.html

ゲーデルの不完全性定理について、
WIKIの言葉を変えて、分かりやすくしてゆきます。
数学というよりも論理学ですね。


①第1不完全性定理

「ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」


②第2不完全性定理

「ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明できない」


数学的には「ある矛盾のない理論体系」とは「公理系」ということです。
数学には、前回お伝えしたように、「大前提」としなければ次に進めないようなことが必ず決まっています。
例えば自然数で、1の次は2とする・・・などでしたね。

つまり上記の定理①②をさらに換言すれば・・・、
①大前提とする「正しいこと」の中に、「正しいとも正しくないとも言えないことが必ずある」。
②大前提で「正しい」としても、その中では「自らが正しいことを証明できない」。
・・・ということですね。


これは有名な哲学者エピメニデスの「クレタ島人のパラドクス」
(当ブログ記事「逆説」カテゴリー参照)と似ています。


「すべてのクレタ島人は嘘つきである」と、
あるクレタ島人が言ったというお話です。


もしこの言葉が「真実」であればクレタ島人は「嘘つきである」ことになるが、

そのクレタ島人は「嘘つきなのに真実を言った」ことになってしまい、

矛盾している。

一方でこの言葉が「嘘」だとすればクレタ島人は「正直者である」ことになるが、

そのクレタ島人は「正直者なのに嘘を言った」ことになってしまい、

矛盾している。


クレタ島人の言葉が真実でも嘘でも、

どちらも矛盾していることになる。


これは「自分自身について真偽を確かめようとするときに発生してしまうパラドクス」であることから、

一般的に「自己言及のパラドックス」と言われています。





「私は正直者です」と言った場合を考えてみます。

この言葉が「真実」だった場合は正直者が「自分は正直者だ」と真実を言ったことになるので、

問題なく成立するわけですが、

この言葉が「嘘」だった場合でも嘘つきが「自分は正直者だ」と嘘を言ったことになるので、

これも問題なく成立してしまうのです。


「私は正直者です」という命題は、

真偽どちらでも成り立ってしまい、

真とも偽とも言えないということです。



ゲーデルの不完全性定理の意義は、

「自己言及パラドクス」が数学においても発生することを証明したということです。



1930年に数学界の巨匠ダフィット・ヒルベルトは、

「数学理論には矛盾は一切無く、どんな問題でも真偽の判定が可能であること」

を完全証明しようとして全数学者に提唱しました。

「ヒルベルトプログラム」と呼ばれる、

数学全体の完全性と無矛盾性論理的な完成を目指す一大プロジェクトとして、

当時世界中から注目を集めたそうです。


そこへ、若き数学者クルト・ゲーデルが現れ、

「数学理論は不完全であり決して完全には成り得ない」ことを、

数学的に証明してしまったのです。


証明自体の内容については難しいのでワ~プ・・・、
結論として、
あるネット記事(「哲学的な何か、あと数学とか」:このサイトでは『14歳からの哲学入門』を紹介していますね。)からさらに援用編集して換言表現します。

①一見すると完全無欠に見える数学理論の中にも、

「真とも偽とも決められない命題」「証明も反証もできない命題」が含まれている。



②数学理論において証明不能な命題を含むということは、

「正しいとも間違っているとも言えない不明な領域」が数学理論の中にあるということなのだから、

数学理論が「自らの理論体系は完璧に正しい」と証明することは不可能である。


この不完全性定理は、
数学だけではなく哲学・科学・論理学・法律学・経済学など理論体系一般全てに適用できるため、

「論理的に突き詰めていけば、どんな問題についても真偽の判定ができ、それを積み重ねていけば、いつかは真理に辿り着けると信じていた人に大きな衝撃を与えた(上記ネット記事)。」のです。


「ゲーデル・ショック」です。



これは、
「ヘーゲル弁証法」による正反合の無限連鎖で、
自らの発展進化を信じて疑わなかった「近代」自体の、
破綻・敗北を予告していたとも言えるのではないでしょうか。


・・・とすれば、
ここからポスト・モダンが忍びやかに始まったと言えるのかも知れませんね。


空間次元と完全性

2016-07-06 15:23:36 | Weblog
世界の完全性は、その世界を構成する空間の次元の制約を受けるのではないでしょうか。

より上の次元に行くに従い、完全性が高まっていくと考えられます。

完全性が高まるほど、自由度が高まり、できることも増えていくとおもいます。

神はもっとも高い次元の存在だとすると、万能ではなくても

多くの能力を持ち、高い完全性を持っていると思います。




神は存在しないのか

2016-07-06 11:30:54 | Weblog
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7633852.html

苫米地英人の「なぜ、脳は神を創ったのか?」という本を読みました。
その中に、パトリックグリムという人が「神は存在しない」と証明
したと書いてありました。その概要は、(ゲーデルの不完全性定理などから)
完全な系は存在しないので、神という完全な系は存在し得ない、ということらしいです。
しかし、考えてみたのですが、「完全な系は存在しない」というのは、あくまでも
人間の言語から構築する系についての限界のことであり、人間の思考を超えた
完全な系が存在することは否定できないのではないでしょうか?
つまり、全知全能の神は存在しえないのではなく、仮に全知全能の神が存在したと
しても、その神の思し召しは人間(言語)には理解できない、ということではないでしょうか?
まあ、そうだとしても、今ある宗教は神の言葉ではなく、人間の言葉の積み重ねにすぎない
ことになるので、宗教における神の否定にはなるとは思いますが。
人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか?
私は、この世界には自分たちの思惑を超えた何者かがいるようには思いますが。
肝心のグリムやらゲーデルやら全く無知なので、そういうとっかかりでも
教えていただけたら幸いです。よろしくお願いします。





この質問への回答は締め切られました。



>完全な系は存在しないので、神という完全な系は存在し得ない、

という論理には、欠陥があると思います。
 何故なら、「神は完全ではない」とするだけで、神が存在する事が可能となるからです。
 私はその書籍を読んだ事は御座いませんが、苫米地英人氏は何の根拠があって、「神は完全である」という事を大前提とされておられるのでしょうか?

 もしも、完全な存在というものが存在するとしますと、それはその存在のみで自己完結した存在でなければなりません。
 己のために、何か己以外のものを必要とする様な存在は、完全な存在とは言えないと思います。
 ですから、完全な存在は、己以外のものを必要とする事は無い筈です。
 又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を受けたりする必要はない筈です。
 又、必要性の無い事をする者は、完全な存在とは言えない事と思われます。
 ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。
 又、完全な存在である以上、他の存在に影響されるなどという事も無い筈です。
 つまり、仮に、神が完全な存在だとしますと、人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になります。

 しかし、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。
 もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事が判ります。

 従って、「完全な系は存在しない」事が「神は存在しない」事の証明とはなり得ないと思います。






No.10

回答者: hekiyu
.
”人間の思考を超えた
完全な系が存在することは否定できないのではないでしょうか”
    ↑
完全な系が存在する「可能性」は否定できない、ですね?

”全知全能の神は存在しえないのではなく、仮に全知全能の神が存在したと
しても、その神の思し召しは人間(言語)には理解できない、ということではないでしょうか”
    ↑
ミミズは、人間の存在や人間の思考は理解できない
でしょうね。
それと同じです。

”人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか”
    ↑
全知全能という概念そのものが自己矛盾を含んでいます。
このカテで指摘されていました。
神が全知全能なら、神が持ち上げることができないバーベルを
造れるはずだ。造れなければ全知全能とは言えないからだ。
そして、そんなバーベルを造ったら、神はそのバーベルを持ち上げる
ことができない。
そんな神は全知全能とは言えないだろう。

”私は、この世界には自分たちの思惑を超えた何者かがいるようには思いますが”
     ↑
いるかもしれませんね。
しかし、それは言葉通りの全知全能ではないでしょう。
ただの宇宙人かもしれません。
人間とは無関係な存在かもしれません。






No.12ベストアンサー

回答者: psytex
回答日時:2012/08/09 16:07
.
ゲーデルは、不完全性定理の前に、完全性定理も証明しています。
限定された“正しさ”が与えられれば、その展開において完全な
論理的世界像は成立する、というものである。

不確定性原理は、そうした構成の元となる“正しさ(ある言明が
Aと非Aを同時に導かない)”について、それ自身の公理系の内
においては証明不能である、という証明をしたものです。

つまり、単に「公理系は無矛盾ではあり得ない」という話ではなく、
「公理系では証明できない公理(たとえばユークリッド幾何学の
平行線定理、確定性を記述する物理学における不確定性原理)
が入り込む事で、その公理系は無矛盾たり得る」というものです。
つまり「公理系が不完全であるか、その言明が無矛盾たり得ない
かのどちらか」という事で。

つまりある意味、神という公理系外の外挿要因によって、有限な
世界は誕生した、という話につなごうとすればできます。
ただ、そうして「誕生」した世界自身に不確定性原理によって、
絶対的確定化において無限不確定性=無に還元するという、
自己完結的第一原因が存在する、という奇妙な事になります。

もし、神が創ったにしては、自分の存在が完全に不要であり、
信じるに値する痕跡を全く残しておらず、そうした本質的認識
のできない低認識において、安易に第一原因(世界の起源や
生きる意味)を求める怠惰において、神は生まれるように見える。


不完全性定理

2016-07-06 10:56:56 | Weblog
不完全性定理 1930年頃
一般的に言って、
「数学的に証明された」ことについては、もう議論の余地はない。

どんなに年月が経とうと、決して反論されることもなければ、
科学理論のように、よりすぐれた理論に取って代わられることもない。
主義主張にも善悪にも関係なく、また、どんな嫌なヤツが言ったとしても、
数学的に証明されたことは常に正しい。

まさに絶対的な正しさ。
「数学的証明」こそ、永遠不変の真理なのである。

だからこそ、数学を基盤にし、証明を積み重ねていけば、
いつかは「世界のすべての問題を解決するひとつの理論体系」
「世界の真理」
に到達できるのではないかと信じられていた。

さて、1930年頃のこと。
数学界の巨匠ヒルベルトは
「数学理論には矛盾は一切無く、
 どんな問題でも真偽の判定が可能であること」
を完全に証明しようと、全数学者に一致協力するように呼びかけた。
これは「ヒルベルトプログラム」と呼ばれ、
数学の論理的な完成を目指す一大プロジェクトとして、
当時世界中から注目を集めた。

そこへ、若きゲーテルがやってきて、
「数学理論は不完全であり、決して完全にはなりえないこと」
を数学的に証明してしまったから、さあ大変。

ゲーデルの不完全性定理とは以下のようなものだった。

1)第1不完全性原理
 「ある矛盾の無い理論体系の中に、
  肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」

2)第2不完全性原理
 「ある理論体系に矛盾が無いとしても、
  その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、
  その理論体系の中で証明できない」

数学的証明は難しいので、要点を簡単に言おう。

たとえば、ボクが、「ボクは嘘つきだ」と言ったとする。

もしこの言葉が「真実」であれば、ボクは「嘘つきである」ことになるが、
そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。
一方、この言葉が「嘘」だとすれば、
ボクは「正直者である」という事になるが、
そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

結局、ボクの言葉が、真実でも、嘘でも、
おかしなことが発生してしまうのだ。

これは、
「自分自身について真偽を確かめようとするときに
 発生してしまうパラドックス」
であることから、
一般に「自己言及のパラドックス」といわれている。


ちなみに、「ボクは正直者だ」と言った場合でも、似たようなことになる。
まず、この言葉が「真実」だった場合、
正直者が「自分は正直者だ」と真実を言ったことになるので、
問題なく成り立つわけだが、
この言葉が「嘘」だった場合でも、
嘘つきが「自分は正直者だ」と嘘を言ったことになるので、
これまた問題なく成り立ってしまうのだ。

つまり、「ボクは正直者だ」という命題は、
真でも偽でも、どちらでも成り立ってしまい、
結局、真とも偽とも決められないのである。

ようするに、
『おれって正直者(嘘つき)なんだよねー』と、
 自分で自分のことを言及したところで
 自分では、その言葉の正しさを絶対に証明できない、って話だ。

このような「自己言及パラドックス」が、数学においても、
同様に発生することが証明されたのである。

それは、すなわち、
一見すると、完全無欠に見える数学理論の中にも、
「真とも偽とも決められない命題」「証明も反証もできない命題」が
含まれていることを意味する(第1不完全性原理)。

そして、数学理論において、証明不能な命題を含むということは、
「正しいとも、間違っているとも言えない不明な領域」が
数学理論の中にあるということなのだから、
数学理論が「自らの理論体系は完璧に正しい」と証明することは
そもそも不可能なのである(第2不完全性原理)。
 
この不完全性定理は、数学のみならず、
理論体系一般すべてに適用することができる。
そのため、哲学者、科学者、法律家など
「論理的に突き詰めていけば、
 どんな問題についても真偽の判定ができ、
 それを積み重ねていけば、
 いつかは真理に辿り着けると信じていた人々」
に大きな衝撃を与えた。(ゲーデルショック)

不完全性定理は述べる。
「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
 それは、その理論体系に矛盾がないことを
 その理論体系の中で決して証明できないということであり、
 つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

我々が、理性により作り出した理論体系が真理に到達することは決してない。




ベートーベン作曲 「交響曲第5番ハ短調 運命」

2016-06-25 11:37:10 | Weblog
ベートーベンの運命は、宇宙の自己組織化力が精神に作用した結果

複雑な秩序や構造が、精神内部に作り出されていく過程を表現したものではないか。

まるで精神内部に宇宙的な構造が生み出されていくように感じる。


ベートーベン作曲 「交響曲第5番ハ短調 運命」



アミシリーズとベビーメタル

2016-06-24 15:50:59 | Weblog


>よろこび、健康なユーモア、楽天主義、希望、責任、悪意のない魂、信念、許し、

隣人へのたすけ、ほんものの愛などが、ますます必要不可欠なものになっていき、

それが人類にとって、そして一人ひとりにとって、

高い水準の存在へうつるのに必要なエネルギーになると言っていた。



まるでベビーメタルのことを言ってるみたいですね。

ベビーメタルのエネルギーは、人類が高い水準の存在へうつるのに役に立ってくれるのです。