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最近『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』という講談社の現代新書を読み終わりました。面白かったので少し考察してみました。異論反論を歓迎します。
0. はじめに
本書には、そこで示されている不完全性定理を用いることによって、神の非存在が証明された一例が乗っているのだが、その論展開は、はるか200年前にイマニュエル・カントが提唱したことと酷似しているといえる。以下、それについての考察を述べる。
1. 不完全性定理とは
不完全性定理とは、いかなるシステムであろうと、そのシステム内部では決して解決できない問題が発生することを証明した定理である。つまり、すべての問題を解決する万能マシンは存在することができない、ということが明らかとなったのである。
不完全性定理について、より数学的に厳密な表現をすれば、ある程度の複雑なシステム(一定の公理と推論規則によって構成され、無矛盾であり、自然数論を含む程度の複雑さを要件とする)が、正常であるとき、システムは不完全となる。
システムが正常であるというのは、システムのすべての証明可能な命題が真であり、すべての反証可能な命題が偽であるということを指す。システムが不完全であるというのは、システムの命題の中に真であるか偽であるかを決定することが不可能である命題があるということを意味する。
そしてそこから、正常なシステムでは、自己の無矛盾性(証明可能であると同時に反証可能である命題が存在しないこと)を証明することができないという結論が出てくる。システムが正常であれば、システムの無矛盾は、前提として述べるまでもなく当然の帰結として導かれる。なので、ここで問題としているのは、その無矛盾が真理であるにも関わらず、それが証明不可能だという点にある。
システムの判断は、証明可能性に依拠している。つまり、論理的矛盾を発生させる命題に対しては、判断を下すことができない。文中でも挙げられていた例を出そう。
命題:「私は嘘つきである」 さて、この命題は真か偽か
この命題が真であるならば、「私は嘘つきである」という私の発言は正しいことになり、嘘をついていないことになり矛盾が生じる。また、この命題が偽であるならば、「私は嘘つきである」という発言は正しいことになり、この命題は真としなければならない。つまり、この命題は決定不可能な命題である。
このように不完全性定理は、システム内部に決定不可能な命題が発生するため、命題の真理性について判断できなくなることが必然的に起こることを証明した。真理性について判断をするためには、システムの外部からでないと不可能であり、システムの限界を示したのである。
2. 不完全性定理の哲学的帰結と神の非存在論
この不完全性定理によって、いくつかの重要な帰結が導かれる。それを端的に表せば、すべての真理を証明することは不可能である、ということである。そこに、決して越えることのできない「理性の限界」がある。
これは不完全性定理の、いかなるシステムであろうと解決できない(決定不可能)命題を含むということから導かれた帰結である。システムの内部では真理性を定義できない。
そして、いささか脱線になるが、これによって人間精神は機械を上回ることも帰結として導かれる。なぜならば、機械というシステム内では決定不可能な命題があるということを、人間はシステムの外部から発見することができるからである。人間自らも従わざるを得ない普遍的システムに対し、人間はその不完全性を理解できると言い換えても良い。
そして不完全性定理を用いて神の非存在の証明も試みられている。神とは、日本人がイメージするような神々ではなく、一神教における唯一絶対の神のことである。この神は、万物の起源であり、完全性をその要件とする。つまり、定義として、「すべての真理を知る無矛盾な存在を神とする」ことに異論はないだろう。
しかし、不完全性定理によって、矛盾なくすべての真理を決定することはできないことが証明されている。よって結論は「神は存在しない」ことになる。
3. 不完全性定理による神の非存在論の限界
この神の非存在の証明は、パトリック・グリムが1991年にゲーデルの不完全性定理を用いて行なったものである。しかし、この見解に限界があることは、本人も承知していたようである。以下、本文からの引用。
「ただし、グリムは、彼の証明が否定するのは、「人間理性によって理解可能な神」であって、神学そのものを否定するわけではないと述べている。(中略)つまり神は、理性では認識不可能な存在である。かりに神が存在するとしても(中略)、理性では立証不可能である。それが、ゲーデルの不完全性定理からグリムの導いた結論である」
神を人間と同じ法則の下におくならば、神の存在は否定される。なぜならば、その法則の下では否応なしに不完全性があることを余儀なくされ、神の無欠性も否定されるからである。しかし、神をそのような法則すら超越するものと捉えれば、話は変わってくるのである。
ここでは、神の存在の証明は、人間理性では不可能である、ということを覚えておいてもらいたい。それが最も重要な結論だからである。
4. イマニュエル・カントによる神の存在論の考察
カントは、神の存在論に対して、次のような見解を示した。
神の存在に関する先験的(ア・プリオリ)な考察は、すべて失敗に帰する。なぜならば、理性によって導かれた概念は、実在性を要件としないからである。
また、神の存在に関する経験的(ア・ポステリオリ)な考察もできない。なぜならば、万物の起源としての絶対者たる神を人間と同じ因果律の下で理解しようとするならば、神自身をもその因果律の法則下にある存在と認めざるを得ないからである。
つまり、神の客観的実在性を思弁的方法によって証明することはできず、また反証することもできない。それは先験的概念によって支配されている人間にとって、それを超越した存在としての神を理解することが人間理性そのものを超越することになるからである。
(カントは理性の思弁的使用によっては神の存在を証明することはできず、神の存在の認識という意図を達成することができないとしたが、それが実践的に使用される場合には、大きな意味を有するとした。『実践理性批判』参照)
5. まとめ
このカントの出した結論は、グリムが最終的に導いた結論と全く同じである。それどころか、カントは人間理性の限界についても不完全性定理と同様の指摘をしていた。
人間理性は、一定の先験的概念=システムの下で思考するため、その中で解決できない矛盾を抱えることになる。カントにとって神の存在論は、まさにシステム内における決定不可能な命題だったのである。
カントが『純粋理性批判』を出して200年が過ぎたが、人類は未だにそこで示された限界から脱け出してはいない。この限界をいつか超える日が来るのか、それともゲーデルが追認したように、限界を超えることはできないのだろうか。興味深いテーマである。
参考文献
1章~3章
高橋昌一郎『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』講談社現代新書 1999年