森男の活動報告綴

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「風立ちぬ」の感想(ネタバレ・超長文注意)

2013年08月13日 | 雑記
それでは「風立ちぬ」の感想です。あくまで、私個人が映画について勝手に推察・解釈したもので、根拠はありません。引用についても、基本的に私のうろ覚えです。なので、以下の文章について資料的・評論的価値は一切ありませんので、あらかじめご了承ください。

あと、ネタバレしまくりですので、未見の方はご注意ください。映画の印象が曲げられてしまう可能性があります。









いいですか?

先日2回目を観にいきました。そしていろいろ考え続けてまして、新たに気付いたこともあれば、考えが変わったこともありました。

まず、先日「この映画は、まずは飛行機好きの人に向けて作られた映画だ」と書きましたが、ちょっと違うかも、と思い始めました。

飛行機が好きな人(いわゆるマニア)に「向けた」というよりは、まあ同好の士への「連帯の挨拶」といったほうが近いのかな、と。言い換えると特別観賞席といったところでしょうか。つまり、ちょっと席(視点)が変わるので、楽しめる要素はとても増えますが、本当に大事な映画の芯を受け止める、観客としての立ち位置は、他の人と同じということです。(それにしても、大盤振る舞いは大盤振る舞いで鼻血がでますが。メカ的な充実度で言えば、カリ城・ラピュタ以来ですね)

では、誰のために作られたのか?

それはまず「子供たち」に、そして次に「その他の人々」に向けた映画なのかなと思います。

でも、監督が伝えたかったであろう内容を考えると、この順番はあんまり重要ではないのですが。とりあえず、この話題はここで一旦おいときます。

さて、まずは推論からやってみます。こういうのは、ほんと綱渡りで怖いですね。得々と偉そうに「これはこうで」とか解説しても、「何をいまさら偉そうに当たり前のことを書いてるんだ。そんなのわかりきってることじゃないか」とか思われるかもしれないわけで。そして、これもありえることですが、監督がインタビューなどで話していることの真逆のことを書いてるかもしれません。でも、まあ恥を忍んで書いてみます。

あと、これまでに映画と原作の漫画以外は、何も見てません。評論や宮崎氏のインタビューも見てません。なので、どこかの誰かが同じようなことを書いていた場合は、偶然の一致だとお考え下さい。

最初の推論 「二郎と菜穂子の子供は、九試(劇中で造られた戦闘機)と零戦なのでは?」

キスシーンが多くでてきたり、初夜を思わせるシチュエーションが描かれるなど、宮崎作品としてはかなりきわどい描写がされています。夜、手をつなげたまま二郎が設計を続けるシーンなどは、まさにそれで、二人で九試を「つくって」いるわけです(うわわわ!!)。

菜穂子が「手を離さないで」と、念を押すのはそれだけ重要な営みであると認識しているからです。体がつながっていなければ「子供は」できないのです(ひええええ!!!!)。で、キスシーンが何度もあるのは、「二人が子供を作っている」ということを観客に気付かせたいというサインなのですね。二人のエロティックな関係・雰囲気を無意識に感じさせたいという意図があるのでしょう。なので、キスシーンが多いのは単に宮崎監督がおじいさんになってエッチになったとか、そういう話ではないんですね(いや、ちょっとはあるかもですが、それは知らない(笑))

そして推論その2 「子供は風の子」なのでは?

風はタイトルにあるとおり、とても大切なキーワードです。風は二人を出会わせ(汽車のシーン)、再会(軽井沢の傘のシーン)させています。それは、風が意図を持ってそうした、ということです。風が出会わせた二人がつくった子は「風」であると考えるのが自然ではないかと。

注意深く見ていくと、あちこちで風が二人の背後で吹いています。二郎が赴任したばかりの職場で設計をしているシーンでも、窓の向うの日よけがひらひらとずっと動いています。黒川宅での二人の結婚式では、菜穂子の髪をゆっくりとなで、桜吹雪を舞わせます。風は、二人をずっと見守っている、ということでしょう。

しかし、一方で震災のシーンでは風は死を招く恐ろしいものとして描かれています。風は、必ずしも二人の味方ではないということです。そもそも、菜穂子の自宅を焼き払い、二人を引き裂いたのも風です。この対比も重要なものでしょう。映画では描かれていませんが、震災時に炎の竜巻が発生し、多くの命を奪ったことはよく知られています(そして、もちろん広島・長崎でも、、、)。

話はそれますが、この震災のシーンは、本当に迫力があり恐ろしい映像です。物語のスタート直後に「これでもか」というくらいのインパクトで迫ってきて、観客の心に不安な印象を植え付けます。これは、ただの震災のシーンではなく、これからの不安に満ちた世相を暗示しているわけです。だからこそ、ちょっと長いかな?とうんざりするくらいしつこく描かれています。

また、燃え上がる空や、大荷物を抱えて逃げ惑う人々など、このシーンはどうしても戦争末期の日本本土空襲の印象とダブってしまいます。映画を観る人は、ほとんどが事前に「零戦を作った人の映画だ」ということを知っているのでなおさらです。そのため、映画の最後に本土空襲の描写が一瞬だけで済む様になっています。B29と燃える空をちらっとみるだけで、最初の地震の映像が脳内でよみがえり、勝手に補完してくれるわけです「ああ、あの地震の地獄がまたあったんだろうな」と。この辺の時間のはしょり方と有効利用のテクニックには舌を巻きます。ほんとに老練(失礼ながら。でも、そういうしかない)な見事な技です。

ついでに書きますが、ほかにもこういう技があちこちに見られます。

例えば、上司の黒川氏の奥さんの初登場シーンです。黒川氏宅で菜穂子の喀血の知らせを受けた二郎が「今すぐ東京に行きたいがどうすればいい」と奥さんに問うと、奥さんは「12時にバスが着て、それに乗れば1時の汽車に間に合う。バス停に人をやって待たすので準備を」と即答します。たった数秒のセリフですが、これだけで奥さんが「常にバスの時間を把握しており、かつ即座にお客が確実にバスに乗られる対策を立てて、実行できる」という聡明で有能な人物であることを示しています。そのため、あとで次郎と菜穂子が黒川宅を訪ねたときも、黒川氏を差し置いて「結婚してもいいじゃありませんか」といっても違和感がありません。観客はすでに、頼りがいのあるお姐さんとしてすんなり受け入れてしまっているわけです。

特高のくだりも見事です。特高が二郎を調べに来ている、ということで二郎は隠遁先として黒川宅の離れに向かいます。特高は一瞬しか登場しませんが、わずか1カットだけでこの時代の重苦しい印象を強める、重要な役割を占めています(しかも、顔すら出ていない!!)。さらに、次郎ら戦闘機の設計者が特高と敵対しているという、かれらの「免罪的な立場」を演出しているわけです。そして、この事件のために次郎は黒川宅の離れを得るのですが、このおかげで、後で二人が結婚するときに、新居を探すという余計な手間を省くことができています。これは、1粒で5-6度はおいしい、見事としかいいようがない手腕です。

あ、メチャクチャ話がそれてしまいました。戻します。すいません。

二郎は菜穂子に会う前、「子供」を自分ひとりで作ろうとして失敗しています。その直後に菜穂子と再会し、二郎は、この娘となら「しっかりした子供」が作れると確信するわけです。だからこそ、すぐに婚約するわけです。もちろん、そんな打算だけで二人が結ばれたわけではないのですが。無機的に解説すると、そういう風になる、ということです。二人の愛情の深さの演出も、これまた見事なものです。宮崎氏がここまで男女の恋愛をキッチリと描いたのは、おそらく初めてではないでしょうか。

しかし、その愛から生まれるであろう「風の子」は最初から悲しい運命にさらされることがわかっています。二人はどういう子供が生まれるのか、わかりきっているのです。

それは「人を殺し、殺される戦闘機」です。

そのことについて、二郎はもう気持ちの整理をとっくに済ませています。迷いは、ありません。カプロニが「ピラミッドのある世界とない世界、どちらを選ぶか。私はある世界を選ぶ」という言葉に二郎が同意するのはそういうことです。さらに、あとでカプロニは「飛行機は兵器であることを宿命付けられた呪われた存在である」とも言っています。2度にわたって同様の発言をするということは、それはとても重要なメッセージである、といえます。

カプロニの発言はしごく当然のものです。戦争がなければ、飛行機はここまで発展しなかったと誰もが認めざるをえないでしょう。例えばジャンボジェットは、第二次大戦中のB17やB29といった大型爆撃機の末裔です(どれもボーイング社の「商品」です。そしてこの二機種は一体何人「喰った」のか。計算するのも恐ろしいですね)。どうあがこうとも、われわれは戦争の恩恵を享受せざるを得ないわけです。残念ながら。

そして、二郎が作りたいと願っていた「美しく、速く、かろやかな飛行機」は、この時代では戦闘機以外はありえないのです。人を殺さないで済む飛行機は輸送機か旅客機など、機能(輸送量)を優先した、見てくれなど後回しの、大きくて鈍重な機種しかないのです。そして、スポンサーになれるほどの財力があるのは軍隊しかないのです。輸送機も旅客機も、結局は兵器や兵士を運ぶのがオチ、という世の中なのです

二郎が「自分の理想となる飛行機=人殺しのための兵器を作る」道を迷わず選択したことを、今の価値観で断罪するのは簡単です。しかし、技術者として、優秀な飛行機を作り出すことがどれだけ魅力的なことか。そして、そのチャンスをみすみす逃すことがどれだけ悔しいことか。それがわかる人がどれだけいるでしょうか。そして、自分の夢を具現化するために努力し、その能力を最大限に発揮できる場所で頑張る人を、だれが非難できるのか。とても善悪だけで判断できるような単純な話ではないのです。例えば兵器に嫌悪感を抱き、戦争反対を声高に唱える人も、いろいろな形でジャンボジェットの恩恵をうけているわけです。しかもその恩恵から完全に逃れることは不可能です(自分が乗らなくても運ばれる荷物や人との関係は絶てないし、絶っていることを証明するのは無理です)。それが、カプロニの言う「呪い」ではないでしょうか。これはもう、私たち全員にかけられた、本当に恐ろしい「呪い」です、、、。

話を戻します。

「人を殺し、そして自らも死ぬ子供」を作っていることを知りながら、二人は生き続けます。しかも、菜穂子自身も病におかされ、死を予期しています。実に、悲しく壮絶なラブストーリーです。

ここで、一つの疑問がでてきます。「死ぬのがわかっている子供」のために、なぜ二人は命を削るような努力をするのでしょうか。「先のない未来のために生きる」ことは矛盾しています。私を含む観客は「2人は未来のために生きて欲しい、末永く幸せになってほしい」と思うのが普通でしょうが、これは物語の構造的にそもそも無理な願いです。なので、少なからず違和感を抱いた人もおられるのではないかと思います。「なぜこのような救いのないラブストーリーにするのだろうか」と。私も最初はそうでした。

しかし、少し視点を変えて考えてみると、その答えのようなものが見えてきました。

それは「結果ではなく過程が問われている」からではないかと。

宮崎氏は「何が残せたか」よりも「どう生きたか」が大事だと訴えているのではないかと。

「菜穂子がかわいそう」という妹に、二郎は「僕たちは一日一日を大切に生きているんだよ」と諭します。「結果の出る明日のためではなく、今日一日をどう生きたのかが大事である」と。

映画の最後にカプロニは、二郎に「君の10年はどうだったかね」と問います。「結果」ではなく「過程」の充実度を問うているのです。普通なら「10年でどういう成果を出せたかね」と「結果の質」を聞くところでしょう。二郎は「できるだけのことはやりました」と答えます。つまり「10年を無駄には生きなかったつもりだ」と。カプロニも「それでいい」と納得します。お互い、過程を大切にすることをよく理解しているからこそのやり取りといえます。

二郎は、最後に菜穂子に「ありがとう」といい(「さようなら」とか「愛している」ではないのです)、菜穂子は笑顔のまま消えていきます。二人とも「全力で生きた」ことに、満足し後悔していないからこそのやりとりです。でも、二郎は涙をこらえることはできないのです、、、。

原作漫画では、飛行機製作において突き当たる現実(技術的、経済的なことなど)と折り合いをつける、二郎やカプロニの苦労をわかりやすく説明するために、宮崎氏自身の映画製作における体験談を頻繁に引き合いに出しています。これは、自身と彼らとを同一視しているともいえます。つまり、「二郎は、私である。カプロニも、私である」と。飛行機と映画は違うものですが、一流のものを生み出そうとする苦労や苦悩は、恐らく同じものだと思います。だからこそ、宮崎氏は2人をリスペクトしたこの映画を撮ったのでしょう。

二郎もカプロニも、それぞれ航空史に名を刻んでいることに異論はないでしょう。そして宮崎氏も、現代の日本人の中で、かなりの結果を出し続けている一人です。そんな人が「結果よりも過程が大事である」といっているのだとすれば、私たちはほんとに謙虚にその言葉を受け止めなければなりません。さらに言えば、結果だけが求められすぎている、現代の社会への一種の警句ともとれます。結果を求めるあまり、過程を軽んじる(つまり多少倫理に劣っても、結果のためには「可」とするような)風潮があるかと問われれば、うなずくしかないのが現状でしょう。

ここで、最初の「これは子供たちにむけて作られた映画ではないか」という推論に戻ります。

二郎は、これまでの宮崎作品には登場しなかった種類のキャラクターです。まじめで頭がよくて、礼儀正しく努力家で、親切で優しい。もっと細かく書くと「弱いものいじめが嫌いで、それを排除するためには暴力も辞さない(つまりただの平和主義者ではない)」「電車の席を率先して弱者に譲る」「身近なことにも気を配っており、鯖の骨からも学べることをよく知っている」「かなりの犠牲を払って人助けをしても、名乗る(謝礼をあてにする)ことを潔しとしない」「肉より魚が好き(笑)」「目の前で腹をすかせてそうな子供がいれば、躊躇なく助けの手を差し伸べる。そしてそれを『偽善だ』と非難されても『そうかもしれない』とあっさり認める」などなど、枚挙に暇がないです。ほぼ完璧に近い人間像です。

ブラント大佐に「君の欠点は、タバコを吸いすぎることくらいだ」と肩をたたかれること請け合いです(笑)。

でも、そんな彼を見ていて、嫌味に感じることはありません。むしろその必死な生き方に共感し、応援したくなってしまいます。これは宮崎氏の人物を描く力量のたまものであると同時に、氏が彼のような人物を好ましく理想に思っているからこそでしょう。

つまり、宮崎氏は、子供たちに「こういう人物たれ」と理想像を丁寧に示しているんですね。

その願いが子供たちにのみ向けられていることは、恐らく間違っていないと思います。宮崎氏は子供好きで有名で、何かにつけて「子供は素晴らしい。しかし、歳を経るにつれて、どんどんつまらない大人になっていってしまう」と嘆いています。いや、まあ「ほんとすいやせん」としかいいようがないです(笑)。

つまり、私たち大人はもう色がついちゃっているから、いまさらこういう理想像をみせられても、自分を変えることはとても難しいわけです。最初から諦められているんです(笑)

オープニングの、屋根から発進する軽飛行機のかろやかで素晴らしい飛行シーンは、子供たちに対する「つかみ」なのですね。「飛行機って、こんなに素敵なんだよ」という。

その後も、カプロニの飛行艇や爆撃機、空母から発艦するかわいらしい複葉機、荘厳なユンカースの大型機などなど、これでもかというくらい古い飛行機の魅力を伝えるシーンが続きます。恐らく、これを見た子供の1000だか100人に1人くらいは飛行機にヤラレて、人生が変わるでしょう。先輩の一人としては「ご愁傷様」としかいいようがない(笑)

で、これらのシーンはもちろんマニアのわれわれにとってもかなりおいしいご馳走です。どのシーンも、知っていれば知っているほど堪能することができます。先に書いたように、これはもう、マニア向けの特等席です。恐らく、こんな贅沢な作品はもうないでしょう。

話が少しそれますが、宮崎マニアの視点で少しだけ解説してみます。直球の解説だと、無知をさらけ出してしまうので、、、。

ユンカースの大型機(J38)は、宮崎氏のお気に入りの機体のようです。映画の原作は「宮崎駿の雑草ノート」という漫画の連載の一部で、連載は模型雑誌「モデルグラフィックス」の創刊号(1984年11月号)から、断続しながらもなんと30年も続いています。「紅の豚」もこの連載が始まりです。

で、この大型機はその連載一回目に登場した、由緒正しい(笑)機体なのですね。かなりの思い入れがなければ、ここまで引っ張ることはないかと思います。映画の時間配分として考えると、ドイツ訪問のくだりはあれほど時間を割くほど重要なものではないと思うのですが、それは多分「この機体を映画で飛ばしたい!!」という宮崎氏のエゴが勝ったからではないかと(笑)。なのでその描き方も半端でなく、機体表面の金属の質感の表現のしつこさは、郡を抜いていますね。

宮崎氏がそう明言したことはなかったと思うのですが、これは「未来少年コナン」の大型機「ギガント」のモデルで間違いないでしょう。日本がこの機体の製造権を買ったのは、日本陸軍がフィリピンのコレヒドール要塞を攻撃するためでした。劇中で二郎が「どこと戦争するつもりなんだろう」と問い、本庄が「アメリカだろう」というのは正解なんですね。6機が造られましたが、製造に手間取っている間に旧式化してしまい、目的を果たすことはなく「無駄」に終わっています。「この飛行機の購入費用で、日本中の腹をすかせた子供たちに天丼とシベリアを食わせてやれる」という本庄のセリフは、これを暗に揶揄した宮崎氏の声でもあるわけです。

同様に、宮崎氏ごひいきであろう機体が九三式重爆撃機です。二郎が軽井沢から戻り、本庄の飛行機を見に行く途中で、一瞬だけ格納庫に収まっているカットが出てきます。この飛行機、ルパン三世の「死の翼アルバトロス」でも一瞬登場します。ロンバッハ航空博物館のシーンですね。ロンバッハの収蔵品です(笑)。それぞれチラッとでてくるのがいいですね。「ほんとに好きなんだろうなあ」とニヤリとしてしまいます(私も、この飛行機好きです)。

わき道にそれすぎました。すいません。

で、子供たちだけでなく、もちろん大人のわれわれにもきっちり剛速球を投げてるんだろうなとも思います。「創造的でいられるのは10年だ」とカプロニは言いますが、これは真に受けてはいけない数字のような気がします。「それじゃ、宮崎さん、あんた何年創造してるのよ?」って思いませんか?(笑)。

もちろん「真に」創造的でいられるのは10年、であるかもしれません。あとは惰性である、という見方もできます。しかし、それはあくまで主観的なもので、同時にかなり恣意的なものでもあります。要するに、どうとでも取れるものです。宮崎氏が創造的な人物でなければ、一体だれがそれに当てはまるのか。世界で数人程度じゃないのか(笑)

宮崎氏の劇場映画の監督デビュー作は「カリオストロの城」です。これを自身で評して「これまでの大棚ざらえをやっただけ」とことあるごとにいっていました。つまり、新しい創造はしていない、ということです。確かに「どうぶつ宝島」などを見れば、あまりのそっくりさ、というか同じオチを臆面もなく同じように使っていることにびっくりします(その辺とは関係なく、面白い映画なので未見の方はぜひ)。しかし、だからといって「カリオストロの城」が「創造的ではない」とは断じていえません。

また話がそれました。「10年」というのは、何かを成し遂げようとする人にとっては、かなり具体的でリアルな数字です(椎名誠氏が「だれでも10年で何らかのプロになれる。だから、大事なのは最低10年頑張ることだ」というようなことを言っていたのを思い出します。彼は編集者と作家をそれぞれ10年やり、その実感としてそう語っていました)。そして、10年とは、かなりの高齢の方以外(80-90代以上でしょうか。ほんと失礼な話ですいません)にとって、ほぼ全員が何とかやりくりして工面できる時間といってもいいでしょう。つまり、だれでも「何か」ができるのです。そう思い至ったとき「宮崎さん、えっぐいボール投げてきたなあ!!!」と冷や汗がでました。「お前、ボケーッと人事みたいに映画観てるんじゃねーぞ」と鋭い刃(やいば)を突きつけられた気がしました。

これまでの映画でも基本的には「子供たちのため」に作られてきたと思いますが、これほど具体的・模範的な生きる姿勢を掲げることはありませんでした。ここまで「こうしろ、これがいいんだ」ということはある意味押し付けがましいともいえます。宮崎氏は、これまで普段のインタビューではあれこれと過激なことを言う人でしたが、作品ではかなりそれがセーブされていました。しかし、今回、そのタガが外れています。いや、外した、のでしょう。これだけのことを子供たちに求めるのは、酷なことです。これまでの作品からは考えられないことです。

でも「そんなことをいっている場合じゃない」と、思いはじめたのでしょう。

そして、もう一つ。映画の最初から最後まで、とにかく緑が美しく描かれていたことに気付かれた方も多いかと思います。二郎の故郷や、車窓の風景、飛行機から眺める下界の様子などなど、どれもがうっとりする美しい風景です。原作漫画では次郎が「美しい国土だ」とつぶやいています。これもまた、宮崎氏のボールの一つです。映画館を出ると、映画の中の美しい風景はほとんど微塵も私たちに残されていないことに気付きます。いや、残されてないというよりは、私たちが捨ててきた、というのが正しいのかもしれません。でも「もうちょっと、どうにかならないのだろうか」と思ってしまいます。

自然だけでなく、街の風景もどこかやさしく暖かい雰囲気で満ち溢れています。二郎の故郷の町の、緑と建物が溶け合った様子は、本当に美しかったです。恐らく、多少は憧憬も混じっていることでしょうが、昔はこういう風景がどこにでもあったのでしょう。これらも、次郎の人間像と同様に「君たちはこういう風景を作ってくれ」という、子供たちに向けた切実な願いであろうと思います。(余談ですが宮崎氏と養老孟司氏の対談をまとめた「虫眼とアニ眼」(徳間書店)という本で、宮崎氏は現代においても実現可能であろう理想の街を、漫画にして描いています。興味のあるかたはぜひ)

というわけで、この映画は「観客全員に向けて、宮崎氏が全力投球してきた、ビーンボールすれすれの剛速球(しかもストライク狙い)」であろうというのが、私なりの結論です。

「俺や、二郎や、カプロニはやることはやった。全力は尽くしたつもりだ。次はお前らの番だ!!!」と言っているわけです。いわゆる、檄文というやつです。

これは、キツイ。お三方ほどではないにしろ、私にも自分なりにやりたいこと・成し遂げたいことがあって、ちょこちょこは進めてはいますが、もしできなくても、だれに怒られる筋合いでもないのでぼつぼつ適当にやってます(笑)。しかし、昔から好きだった宮崎氏に、こういう風に激を飛ばされると、もうこれは「ハッ!了解いたしました!!頑張るでアリマス!!!!」と最敬礼するしかない(笑)

うーん、ほんと困りましたね、、、、。まあ、でもやるだけやるしかないか、と思います。でも、二郎みたいな生き方はできませんね。努力目標ですね(いきなり捻じ曲げている)。この辺が、宮崎氏が期待する子供とのポテンシャルの違いでしょうか、、、。

宮崎氏は、すでに70歳を越えています。今後も映画を撮るつもりがあったとしても、非常に限られた本数しか撮れないことは本人が一番よく理解していることでしょう。ここに来て、こういう剛速球を投げてきたということは、非常に意味深です。これから撮られるであろう映画を含め、この作品は、宮崎氏の遺言の「第一弾」といっていいのかもしれません、、、。

それにしても、宮崎氏のような監督とほぼ同時代を生きていられるということは、受け手としてほんとうに幸せなことです。今回この映画をみて、再確認しました。村上春樹氏などもそうなのですが、自分がそういう恵まれた場所(位置と時代が合ってることは奇跡に近いことです)にいられることを感謝したいと思います。まあ、それでも悪口もたまには言いますが、オフレコだからいいでしょう(笑)

というわけで、親の敵のように長く書いてしまいました。凄い分量ですねえ、、(ひとごと)。もちろん、一気に書いたのではなくて、1週間くらいかけてパタパタ打ちました。稚拙な文章の上、アホみたいな分量なので読むのは大変だと思います。どれだけいらっしゃるかどうかはわかりませんが、全部読んでくださった人には心からお礼申し上げます。もし万一、映画鑑賞のお役に立ってくれればうれしいです。

あと、再度書きますが、以上の推論が当たっているかどうかは保証の限りではありません。でもまあ、当たっているかどうかはほんとうにどうでもいいことかもしれません。映画を見て、そういう受け止め方をするバカが一人いた、というだけのことですから。

でもでも、一旦そういうふうに受け止めてしまった以上、これから肝に銘じてごそごそとやっていこうかな、と思います。

最後に、原作漫画はまだ本になっていませんが、映画をより理解したい方には必読です。どうしても読まれたい方は、月刊モデルグラフィックスのバックナンバーをどうぞ。vol 293-302号 (※休載された299号を除く)

それでは。

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