大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

「叙勲・褒章」

2018-03-05 20:48:20 | 日記
黄綬褒章を受章された方(の土地家屋調査士会)から、「受章祝賀会」の案内をいただきました。
これまでも何回か同様の案内をいただき、大分会の会長だとか日調連の副会長だとかの職にあった時には、出席したこともあります。また、そもそも私自身、大分会の会長在任時にはその案内を出したこともあります(「渡世の義理」というもので・・・)。
そのような経過の上で今頃こんなことを言う、というのも如何なものかと思われるかもしれませんが(自分自身で思っています)、この今回いただいたご案内を含めて、今後一切のこの手の「祝賀会」には出席するつもりがありませんので、今後のためにその旨を表明しておきたいと思います。(まぁ、その手の案内を出してくれる方が、どれほどこれを読んでくれているか、というと、あまりないようにも思えますし、そもそもこれまでも「叙勲・褒章」を受けられるような方からすると私なんぞには来てほしくない、という思いがあるのかとも思えて、案内自体をいただかないことも多いので、あらためて表明する意味もあまりないのかもしれませんが・・・。)

この「叙勲・褒章」については、私としては、そもそもそれ自体について根本的に気に食わない、というところがあるのですが、それについては、とりあえずさておくとして、ごく身近な問題としての「土地家屋調査士に対する叙勲・褒章」についてだけ考えます。

土地家屋調査士に対しては、たとえば直近の昨秋のものを見てみると「旭日双光章」1人、「黄綬褒章」8人を「受章」されている、ということです。
多分これは例年に比べて多くて、例年は「4~5人」が通常であるように思えますが、何はともあれこれほどに多くの人が受章するのは「めでたいことだ」とされています。
さらに言うと、それだけでなく、「どれだけの人に受章させられるのかが連合会の力量を量るもの」だと考えられたりして、「隣接の他士業(要するに司法書士ですが)に比べて土地家屋調査士の方が多い」ということが、日調連の「手柄」であるかのように考えられたりもしているようです。
これは、「叙勲・褒章」という制度そのものが、それを餌にして国民を「馴治」することを目的とするものであることからすると、とても素直な対応の仕方だと言えます。「国」(の機関であるところの監督官庁)の言うことに素直に従い、その意を体して活動して、無用な「反抗」などせずに与えられた環境のなかで黙々と与えられた職務をこなしていく、というのは「望まれた姿」であり、「叙勲・褒章」などの餌をばら撒かれるのに値する「善行」だ、ということです。
しかし、それでいいのかな?・・・と私は思います。よく、「人間衣食が足りると名誉が欲しくなる」というようなことが言われますが、その「衣食」という「餌」をまず得た上で、さらにその次の「名誉」を得ることをひとつの「目的」にするようになってしまうと、それこそ本質的な意味での「名誉」からはどんどんかけ離れてしまうのではないか、という気がします。つまり、自分だけは衣食が足りた、ということの上で、自分自身が衣食を足りさせるために行った「努力」というのはとりあえず棚に上げた上で、なお余った部分を「名誉」のために費やす、というのは、何か歪んだもののように思えるのです。

そのようなものとして、私は、そもそも「叙勲・褒章」というような制度そのものがなくなればいい、と思いもしますし、特に土地家屋調査士の世界で、これが重いものとして考えられなくなればいいな、とも思うのですが、どちらも現実的には「無理」なのだと思わされもします。

・・・というのは、この文章を書き始めてから、Wikipediaで「叙勲・褒章」を調べていて次のような記事を読んだからでもあります。大江健三郎の(「叙勲」の一種である文化勲章の受章拒否にかんする記事です。
(大江健三郎の文化勲章受章拒否について
)「ジャーナリストの筑紫哲也は、出演していたテレビ番組『NEWS23』において「制定されたのが昭和12年という第二次世界大戦真っ只中にも関わらず、従来の勲章のような武功や勲功など国の為に尽くした者ではなく、純粋に日本の文化に功労のあった文化人に贈る為に制定されたのがこの文化勲章だが、ノーベル文学賞は受賞しておいて自国の文化の為に尽くした者の為の勲章を拒否するのはどう考えてもおかしい、彼はただ単なる左翼主義者である」と受章拒否を批判した。
大江健三郎については、私としては「嫌いな人ベスト(ワースト)200」に入れてもいいくらいな人ではあるのですが、それにしてもこの筑紫哲也の「批判」はひどいですね。わが大分県出身の筑紫哲也ではあり、近年のジャーナリストとして「偉い」人だと言われている人ではありますが、正直言ってどこがすごいのかまったくわからない人で、特にこういうことを言っちゃぁおしまいだ、という感じがします。
そもそも「賞」などというものは、それを「授ける」側の論理があり、それが圧倒的に強い力を持っているが故に「授けられる」側はありがたく押し戴くべきものとされ、現実にそのようになるケースが圧倒的に多いわけではありますが、本来的には「授受」の双方に同じ権利が与えられているものであり、「受章拒否」の権利は当然にあるものとみるべきです。「ノーベル賞」なら欲しいけど「文化勲章」はいらないや、という判断もあっておかしくないのであり、そんな人の内面にまで入って文句を言うということ自体がおかしなことなのだと思います。

・・・ということで、急に卑近なごく小さな話になりますが、私としては「官」からの一切の「表彰」は受けないようにしています。「地方表彰」を受けたら「管区表彰」が欲しくなり、その次は「大臣表彰」・・その次は「褒章」、・・その次は・・・というようになってしまうことが恐ろしいと思いますし、そのようになるように仕掛けられた罠を恐ろしいと思うからです(そんな恐れを抱く必要はないのかもしれませんが・・)。