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2021.03.24 はじめてCGで描いたお雛様(その2)


   

そのマック教室は、生徒募集30人、授業料30万だった。
講習期間は、6カ月だったかと思う。
CADのときと同様、殆どが20代で、10代の人も居た。
40代以上は、居なかった。60歳の私は、特異な存在だった。

面白いことには、10代の子は、ほとんど辞めてしまった。
それも、難しすぎると言う理由で。
授業料30万を、親に出してもらったから、簡単に辞められる、自分で払って
ないから、やめられるのよねと、廻りはひそひそと言っていた。

20代の女性で、こんなものを習って、一体何に役に立つのか?と、余りにも
言い立てる人が居たので、言い分を聞いてみると、会社で何か指示待ちをして
仕事をする、そんな明らかに事務員の立場で考えて居ることが分かった。
これは無理だ。この人には、クリエイティブな仕事は、無理がある。
自分で何かを見付けて、形あるものに成し遂げようという気持も考えも全く無い。
ここに居ても意味が無い人だった。
退学を止めなかった。この人も、辞めて行った。
教室は、だんだんガラガラになっていった。

私は、「パソコンは何でも有りの世界だ、自分さえ頑張れば」、と思って職場
を辞めて挑戦した。
パソコンは、人間が考えることは、何でも、人間の能力以上にやってくれる。
しかし、自分を高めないと、じぶん自身の技術を磨かないと、つまり、自分が
命令する力が無ければ、彼は自分では動けない。
そこを間違えるから、パソコン教室の仲間は次々に辞めて行った。

私は、先生に教わった手法を使って、家で明け方まで、独自で絵を描いた。
その頃は、パソコンでは、漫画しか描けないと思われていて、たまに「僕は
絵が描けます」と言う人がいるので、見せてもらうと、ミッキーマウスや、
アライグマラスカルを、コンピューターを使って同じ形に描くことが出来ると
言う自慢だった。
パソコンで、自分で独自に絵を描こうとする人は0であった。(当時は、先生
でさえも、パソコンでは、漫画しか描けないと思われていた。)

私は漫画には全く興味がないオバサンだったので、コンピューターで、自分で
絵を描きたいと思った。
我が家の庭のガーベラを初め、花屋で買って来たりんどう、水仙、コスモス、
などを、コップの中に差して、それを見つめながら写実しようとした。

3月になったので、お雛様を描こうと、立ち雛に挑戦した。
グラデーション機能を習ったので、金屏風の衝立てを描いてみようと思った。
下を赤にして、上を黄色に設定して、グラデーションを掛けると、金屏風に
なるのではないか?
すると、思った通り、見事な金屏風になった。
次に、ぼんぼりは、縦のグラデーションではなく、真ん中から外へ向かっての
グラデーションにすると、中の炎が光り、その廻りが桃色になって、ぼんぼり
が点っている様に見えるのではないか?
これも大成功した。

お雛様の繧繝(うんげん)模様の台座も、色塗りの線をぴっちりと合わせて行く
と描けたので、大喜び。
お雛様のお顔を書いてみると、何故か、私の姪の一人の顔とそっくりだった
ので、「え〜?◯◯ちゃんにそっくりじゃないの?」と大喜びした。
帯も、衣装も、どうやって描いたのだろう。とにかく、必死だったのは確かだった。

始めは、ここまでだった。金屏風の上部は、空白だった。
その内に、この上へ、桃の花があれば最高なんだけどと思い始めた。
挑戦することにした。
花屋から、桃の花を買って来て見ながら描いたことは、覚えているが、どんな
ツールで、どうしたか思い出せない。
桃は、どうやって描いたか、今では思い出せない。
グラデーション機能を使ったのかしら?
それとも、筆ツールで?

しかし、この桃の花のあでやかな美しさ!
雌しべの輝き!
この葉の上品な美しさ!
きりっとした、枝の美しさ!
つぼみの愛らしさ!
又、お雛様のお顔、衣装、冠、帯の模様、どうやって描いたっけ?
よく描いたな〜、
そして、このぼんぼり、本当に灯が点っているみたい〜。‥…

ごめんなさい。自画自賛が止まりません。
この世界を目指して以来、毎日ほとんど徹夜状態だったので、脚の筋肉を
落としてしまい、激痛の脚を抱えての毎日だったが、そんなことぐらいで、
諦められる訳はありません。
当時14インチの小さな画面で、スクリーンに部屋の電気が写り込むので目に
悪く、画質が粗い機器で超細密画に一晩中挑戦するので、目を傷めて手術をした。
又、当時、パソコンで作業する人には、必須だと言われていた電磁波除けの
ゴムのエプロンもしなかったからか、脳腫瘍が出来た。
手術したら、40日の入院が必要と言われたが、それらの日々が惜しくて、
放置していたら、全然悪化せず、でも病院にはマメに行っていたが、5~6年後、
もう、病院に来なくていいと言われた。
先生に「どうして?」と聞くと、「運命の神様のお陰です。」と言われた。

この立ち雛の絵を書き上げた時、3月だったので、これをプリントして、女性
の生徒さん達に配った。

その後です。
先生が、血相を変えて(と言ったら、悪い例の様ですが、そうではなく)
やって来られて、「これは、あなたが描いたのですか?」そうですと答えると
「今後、何か絵を描く度に、必ず私にプリントを下さい。」と何度も念を押して
言われた。

その後、私の別の花の絵で雌しべの書き方等を、これはどうして描いたか
(何のツールを使ったのか)と、聞かれたが、私は懇切丁寧には答え
なかった記憶がある。いえ、正直に言えば、聞こえない振りをした。

申し訳ないが、それには、訳が有る。
この少し前に、何かのことで、パソコン学校に1〜2回見学に行くチャンスがあった
ときのこと、若い学生さん達が、授業が終っても、そのまま帰らず、夜中中、
その機器を使わせてもらっていた。
当時、パソコンは高価で、マッキントッシュは、特に高価で、親に買って
貰える様なものではなかった。
その学校は、大変親切で、その様な学生の為に、夜でも学校を閉鎖せず、
機械を使うことを許していた。

それだけでも、凄いことなのに、さらに、衝撃的なことを聞いた。
次の日、午前の授業の生徒さん達が教室に入ると、夜中頑張っていた徹夜組が、
TシャツにGパン姿で、床にごろごろと眠っていたのと遭遇したとのこと。

その時、私は思った。
もうだめだ。若い人のこの様な体力と目の力で、勝負されたら、私等、
たちどころに追い越される。
こうしてはおられない。
私は、激しい焦りで一杯になった。
すぐ追い越される。その不安で、眠れない日が続いた。
私が独自に開発した手法は、絶対に人に教えられないと思った。
危ない危ない。若い力のある人に、たちどころに追い越される。

それを、親友のHさんに訴えると、大物の彼女は、呵々大笑して言った。
「大丈夫!こんな大変な作業を、若い人がすると思う?絶対するはずないよ。
絶対に追っかけて来ない。絶対に追っかけて来ないよ。」と。

そうか、その通りだ。これは大変すぎる。人はやらない、特に若い人は!
と大いに同感して、それから、ストンと憑き物が落ちて、眠れる様になった。

偶然ながら、その彼女が、明日、我が家へやってくる。
飾り棚の送り主のHさんだが、飾り棚以外に、このことも、お話しようと思った。

そんな、色々なことがあり過ぎて、当時は、1年で10年分ぐらい苦労した、
ぎゅっと詰まったそれらの年月を、今思い出している。
脚以外に、両手もストレスからか激痛で、痛くない個所は、両肘のみ、
なのに不思議なことに、包丁は握れて、布巾は絞れるという、この二つの幸運が
残されていたことに驚喜して、震災復興支援の友人達への感謝から、震災後
神戸再出発後の10年間は、ご近所の人も含めて食事接待を100回程と、
おせちも毎年数組招待した。
身障者が、健常者を接待していることを自覚していたが、全く止めなかった。
余りにも激痛で、気絶しそうに痛い日々だった。
朝起きて、起き上がるだけで、25分掛っていた。
彼女達は、私が手足が治った今でも、当時、私の手足が激痛だったことを
ほとんどの人は知らない。私が言わないから。

整形外科の先生に、私の足が治ったことを「近代医学では証明出来ない。
神の領域だ」と何回か言われた。

今日書いたことは、そんな私の激動の時代のほんの入り口の幕開けの頃のことで、
その後の苦難こそ、これらの30倍あったと思うし、よく死ななかったねと
言われるが、けれど、激痛だからと自分を守って寝込まなかったから、結果
足と身体がそれ以上は衰えきらず、今日がある(偉そうに言える程の今日では
無いけれど)と、私は、脚と身体の不調が治ったことの理由を問われると、
震災復興協力への感謝から、一生ご恩返しをしたいと言う決心は、一度も
揺らぐことなく、激痛をものともせず、ひるまず使いつづけて、酷使したから
ではないかと、答えるしかないと思っている。


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