goo

2009.05.30 神の領域?

今年になってから、足の調子が、良くなかったのです。
2カ月程前、ひどく傷めてしまい、このところ、整形外科に通っています。
整形外科に行った日は、ついでに隣のスーパーに寄って買物をしていましたが、
それが負担になり、膝が大きく腫れます。
ですから、通院した日は、帰宅したら、もう腫れて痛み出すのです。
それで、整形外科に一日置きに水を抜きに行っていました。

でも、一日置きに、両足共に100ccずつ抜かれる日が続くと、これではいけない
と考えさせられました。
先生にお聞きすると、やはり、1週間に1回ぐらいが適当だそうです。
1週間に1度なら、抜いた後へ、ヒアルロン酸を入れられます。

私の水の溜り方は、いつも、先生と看護婦さんたちが、驚く程です。
病院でも、他に例がありません。
震災が引き金になっていて病歴が長く、良い医者に辿り着いたのが遅かったので、
水が溜る袋が延びきって大きくなっているので、溜り出すとどんどん溜ります。

この前は、左110cc、右145ccという信じられない量を抜かれました。
その時、看護婦さんが、「でも、貴女は、突然治ることがあるんですよね。」と
言いました。
私は、勢い付いて、「そうなんです。そんなことが何度もありました。急に水が
溜らなくなり、スッキリした足になることがあるんです。」と言いました。

すると、先生は、「それは、医学的には考えられませんな。」と言われたので、

私は、「自身で水を排出する力を持っていたと言うことではないのでしょうか?」
と聞きますと、「それは無いです。理由と言われても分りませんな。それは神の
領域です。」と言われました。

「え~?そうですか?」私は、丁度水を抜いて貰っている時で、ベッドの上にい
ましたので、思わず胸の上で両手を組んで、「神様、もう一度助けて下さい。」
とお祈りしましたら、看護婦さん達が、笑っていました。


今回は、私は必死です。
歩かない生活をすることにより、腫れを押さえる必要があると思いました。
一日置きに抜かないと痛くて堪らない状態でしたが、なんとか我慢して、4日目
に整形外科へ行く様にしました。
4日目に行く時は、痛すぎて、タクシー乗り場まで、行けないぐらいでした。
(マンションの目の前にあるのに)

そして、外出を止めて2週間、最近は、食材を宅配で取り寄せる様にしました。

すると、不思議ですね。
あれほど、我慢出来なかった痛みが、少し我慢出来る様になりました。
腫れは、相変わらずですが、痛みが、全然違ってきました。
今回は、1週間我慢出来そう…と思った途端、昨夜の疼き方に、降参!
今日、水を抜きに行きました。6日目でした。

前回より、少し、減っていました。(左82cc、右125cc)
先生が、ふた桁になったと喜こんで下さいました。
「若くなった。若くなった。」と。(数字が小さくなったことです。^^)

この調子で、少しずつ、治ることを願って頑張っている毎日です。


(後日談)

先生は,私が酷くなっては治り、又酷くなって治りするのを、何度も
目撃されている。
その後、私が完全に治った時は、皆さんの前で講演をしてくれませんかと
言われた。

コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.28 あなごの夏蜜柑寿司


(1)
今月の中旬のことです。
生協で生のあなごを開いたものが、売られていました。
あなごの付け焼きも、自分で作る友人を思い出して、私もやってみようと
思い買って来ました。

その友人に電話をしたら、「私も今日買って来たのよ。一盛5匹よ。今から
焼くところ。」とのこと。
彼女は、素焼きにして、焼き上がりに、醤油とお酒をつけるそうです。
細巻き寿司や、ごぼうと一緒に柳川にしたりするのだとか…。すごいな!

Mさんに聞くと、やはり、素焼きにして、焼き上がりに醤油をつけるとのこと。
私が、「あ、どうしよう?醤油を付ける刷毛が無い」と慌てると、Mさんは、
「私は、スプーンにお醤油を入れて、掛けるだけですよ。」とのこと。

ガーン!さすが~!刷毛が無いと塗れないと思った私が恥ずかしい。赤面です。
料理上手は、シンプルですね。道具などにこだわらないのですね。

斯くして、「あなご焼き」初体験の私は、おっかなびっくり、チタン鍋に油を
薄く塗り、焼き始めました。
両面素焼きにしてから、スプーンに醤油を入れて、端から掛けて行きました。
ここ迄、前日に作っておきました。



(2)
Mさんが、「お寿司を作るんでしたら、今は夏蜜柑で作ると美味しいですよ、
青みは、おたふくなどが良いですね。」と。
彼女は、そら豆のことを「おたふく」と言われます。
そーか~!ということで、初体験の夏蜜柑のお寿司を作ることにしました。



(3)
これこれ!
このチタン鍋の小型で1合のご飯のお寿司上手になるのが、私の夢です。



(4)
あなごとそら豆の夏蜜柑寿司です。
初夏ですね~。
なかなかの味でしたが、まだまだ、お寿司上手の称号は上げられません。
すし飯の酢の割合がよく分かっていません。要研究です。

真中に、自家製の生姜漬の千切りを飾りました。


*****************************************************************

なお、今日ネットを見ていますと、あなごやうなぎの様に、鱗のない魚は
皮の下に白いネバネバがあるので、さっと茹でて、その粘りをこそげてから
料理をするのが、料理屋さんのやり方だそうです。
そうすると、生臭みがなくなり、美味しくなるそうです。
煮あなごや、蒸しあなごの場合は、違いが出るでしょうね。
焼く場合は、そのままで良いと思います。
ご参考迄に。



コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.26 チタン鍋で鮎を焼く



5月中旬のことです。
スーパーで、綺麗な鮎が並んでいました。
一度、チタン鍋で焼いてみようと思って買いました。

上に来る方から、焼きました。
鮎に粗塩をまぶして、薄く油を塗ったチタン鍋に、そっと入れた
途端、電話がなりました。
<今、架けてクンナヨ!>

架けて来た友人に事態を話しましたが、彼女は全然慌てません。
<そりゃあ、そうですよね。見えて無いから。>

そんな訳で、焼き上がりが、イマイチ気に入りませんでしたので、
又、改めてトライしようと思っています。


別売で「たで酢」の小袋を売っていたので、買いましたが、私が、
たでそのものに、なじみがないからか、美味しさがわからず不味
ッと思いました。

それで、酢に少量の「柚子こしょう」を溶いて、たで酢の代わり
にしてみました。
これは、気に入りました。ご参考までに。
…と言う訳で、初夏の味覚、鮎を楽しみました。




コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.24 山椒の実を炊きました。


(1)
山椒の実を買って来ました。



(2)
私は、昨年始めて山椒の実を、炊きましたが、枝を取らずに炊いてしまい、
後で、枝を外すのに往生しましたので、今回は先に取りました。
これが、大変な手間です。
枝を取って、実だけにするのでに、大変時間が掛かります。

私は、一度しか炊いたことが無いので、Mさんや、Yさんに聞いてみますと、
アクをとる為に、一度湯がいた方が良いとか…。



(3)
それから、少し水に晒しました。



(4)
醤油と酒で炊きました。



(5)
出来上がりです。冷凍しておく積もりです。いろいろに使えます。


昨年末、我が家にやって来た友人に、おぜんざいと、この山椒の実入りの
塩昆布を作ってあげたら、とても喜んで、塩昆布のお代わりをしてくれた
ので、鍋毎テーブルに出したことを、書きましたが、その友人から、先月
電話があり、山椒の実を探しているけど何処に売っているのかと、聞いて
きました。
「山椒の実はもうすぐ出るのよ。前の塩昆布に入っていた分は、昨年作っ
たものを冷凍していたのよ。」と説明し、今年出たら、貴女の分も作って
おいてあげると約束していたので、今年は、張り切って多めに作りました。
「2008.12.19 お善哉と塩昆布と、仕事の展開」





コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.22 感謝の仲間(その6)<完>

<感謝の仲間(その6)>

本当に、私は、家族を亡くした人の気持ちを逆撫でするようなことを
してしまいました。
自分のことばかり、考えていたと思います。
反省しなければなりません。

いち早く撤去され更地になり、遠方へ避難したお宅では、亡くなった
方の冥福を祈りながらの避難生活で、特別の哀しみの日々だったこと
と思います。
現在奮闘中の私達は、自分達の苦労にかまけて、察することが出来な
かったのです。

どうしたらいいか聞きますと、母屋の跡地から、更に瓦礫を動かし、
同じ敷地内の東側へ移動する様に、指示がありました。
東側の収益物件は、撤去の日を待って、壊れたままで建っていました。
その前へ、瓦礫全部を移動させる様にとのことでした。

でも、前にも書きました様に、その時は、この一画の解体撤去はすべ
て終り、後はその物件の撤去を残すのみになっていましたので、もう
撤去されるのはまさに時間の問題です。長く掛かる訳ではありません。

少しの間、目をつぶって貰えないものかと思いましたが、無理でした。
結局、私の窮状は理解して貰えず怒りは収まらない様でした。  

私は、窮地に立たされました。
もう一度、ボランアティアの大学生に頼むしかないと思いました。


そこへ、救いが入ったのです。
北隣の収益物件経営の男性が、地震の跡地にはもう収益物件を建てず、
ガレージ経営に変更するとのことで土の入れ替えを行うと言うのです。

そこで使うユンボ(ショベルカー)を依頼しているので、それで瓦礫
を移動させたら良いと、言ってくれました。

お陰で、機械の助けにより、瓦礫は東側へ移動できました。


そして、更にもう一つ、同じく北隣から、有難い申し出がありました。
それは、ガレージ用のジャリを搬入した後のトラックが空で帰ること
になるので、それを利用して我が家の瓦礫を乗せて帰れば、運搬費を
折半できるので、自分も好都合だと言ってくれたのです。

又しても、救われました。
斯くして、北隣に砂利を運んだ後のトラックは、帰路、南隣から我が家
の瓦礫を乗せて搬送しました。
こうして私は、最後の最後になって、始めて解体業者の恩情に縋ること
なく、自力で(自費で)瓦礫を撤去出来たのです。

これらの費用は驚く程格安でした。
日本中から集まった解体業者は、いずれも、神戸の震災の余りの惨状に
心から同情してくれて、私達にあくまでも優しく、出来ないこと迄、目
をつぶって協力してくれたのと同じ様に、この業者も、何とかしようと
の思いから、報酬も最低限しか受け取らなかったものと思われます。
私達被災者は、身に沁みる思いで、それらの親切を受けたのです。


そして、私は感心しました。
それは、北隣の男性が、よく個人で、その様な交渉を運送業者と出来た
ことでした。
何故なら、解体業者や運送業者は、震災後、全国津々浦々から数知れず
集まっていましたが、この状況下にはすべて市の傘下にあり、その指示
で動いていたのです。
もちろん、我々は交渉権を持ちませんので、自力での復興は絶望的だっ
たのです。
北隣では、弟さんが建築関係だったので、その縁故だったと思われます。
本当に、助けられました。

ようやく瓦礫の撤去はすべて終り、解決しました。
それらの日々も、司令官と友人達が、いつも、そばにいて支えてくれま
した。
時は、すでに、6月になっていました。

瓦礫が除けられた隣家の母屋跡を、娘さんが水で浄めていました。
私は、その後1年経って神戸に戻りましたが、隣家は2~3年して戻って
来ました。
始めは、まだ怒りを解いて貰えませんでしたが、その後、ふとしたこと
から、許して貰えました。
私はネコが苦手ですが、たまたま我が家の門に居たネコを、隣のネコと
は知らず話し掛けて、それがきっかけだったと思います。


             <感謝の仲間(その7)へ続く>
           (…つもりでしたが、今回は、これで終了とします。)



ここまでは、家の復興に掛かる前の出来事で、ここから始めて、私が家の
本当の復興作業が開始する訳ですが、もう、これ以上、私には書けません。
始めは、神戸の家の復興までを、つまり、1年半後に「神戸での再出発」が
出来た感動の日までを書くつもりでした。

つまり、この後の、仲間達の、それこそ信じられない献身的な協力をこそ、
書いて残したいと思ったのですが、それらの暖かいものに包まれていたから
こそ乗り越えられた、余りにも過酷な状況と、信じられない無理解な世界、
大阪の郊外に1年半避難生活をしながら、神戸ではなく大阪と言う震災とは
無関係の地域に勤務していた為の例え様の無い無理解、不安、孤独、絶望!
それらを抜きにすれば、この仲間の信じられない献身の話は、横糸のない
織物となります。つまり、意味をなしません。

しかも、それらを書くことは私には堪え難く、身を切り刻むことになります。
思っただけで、息が浅くなります。(ハアハアと言う呼吸になります。)
友人達も、言ってくれました。
「もう、この辺で、充分よ。」と…。

そう言う訳で、このお話は、今回で終了とさせて頂きます。





コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.20 感謝の仲間(その5)

 <感謝の仲間(その5)>

お隣の家は、地震で全壊し、その時倒壊した母屋で、ご主人が亡く
なりました。
そのお宅は、一部我が家の塀の上に乗り上げ、そして西側の玄関部
分は、道の上に倒壊しました。
それが道を塞いでいて、通れないので、この家を一番先に撤去する
ことが決まり、そして、そのお宅は、撤去し更地になった後、すぐ、
遠くへ避難されました。

しかし、その敷地には、もう1棟、収益物件が建っていたのです。
その収益物件は、近隣一画(12軒)の中での、最終の撤去と決まっ
ていて、もうその時は、家を解体せず修理する我が家1軒のみを残し、
廻りはすべて撤去されていて、この収益物件の撤去作業を残すのみ
となっていました。

司令官は、業者と掛け合って、その最終撤去時の瓦礫と共に、我が
家の瓦礫を搬出してくれることを応諾して貰っていたのです。
その為、我が家の瓦礫を、隣家に運び込む必要があったのです。
もちろん、そのことは隣家の避難先へ電話を入れて、了承して貰っ
ていたのです。

お陰で、私は、我が家の瓦礫搬出の、最後のチャンスを辛うじて
掴んだのでした。
これに、間に合わなかったら、我が家の瓦礫は取り残されるので、
私達は必死だったのです。


ところが、その後、たまたまやって来た、その家の娘さんから、
怒りの苦情があったのです。
理由は、こうでした。
ここは、父親の亡くなった神聖な場所である。
ここへ、瓦礫を置くことは承知できない。
しかも、土まで運んで来ている。土迄とは承諾していない。

この一画は、同じ時期に建った分譲住宅でしたので、我が家と隣家
とは、元々の工法は同じでしたが、隣家は、その後、一階の上に継
ぎ足して、二階建てにしたので、その時点で屋根の構造は変わり、
新建材になっていたことから、倒壊しても、屋根から土などは落ち
なかった為、我が家から、瓦礫が土ごと運ばれたことが理解出来な
かったものと思われます。
事実、我が家の様に、築40年の木造住宅を、大きな改修も行わず、
そのまま使っていたのは、我が家ともう1軒だけでした。

大量の屋根土の中におびただしい木片と、瓦のかけらが混じってい
るのが、その時点での我が家の瓦礫の状態でした。
と言うのは、これが震災後何ヶ月も掛け、懸命な支援者達の尽力で、
大きな瓦を取り除けるだけ取り除き搬出した後の状態だったのです。
この土の中の瓦礫は、汗と努力の結果でした。
ここから土だけ除けることは不可能です。


            <感謝の仲間(その6)へ続く)>


コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.18 感謝の仲間(その4)

<感謝の仲間(その4)>

1回目のボランティアのお陰で、瓦礫の山は減りました。
でも、まだまだ、庭の瓦礫は半端な量では無く、もう一度、ボラン
ティアを頼むことになりました。

2回目のボランティアは、大学生15名程でした。
この時、学生達が、手押しの「一輪車」を、4~5台持って来ました。
よく農家や、工事現場で見かけるものです。
その「一輪車」…、これが、ほんとに優れ物でした。
…と言っても、女性の力では手に負えるものでは無さそうでしたが。

この「一輪車」で、学生達は、すいすいと一番最初に更地になって
いた隣家の空き地に、どんどん瓦礫を積み上げて行きました。
ここへ、一時的に置かせて貰うことになっていたのです。
夕刻には、我が家の庭の瓦礫は無くなりました。
信じられません。一気に撤去出来ました。

司令官は、一輪車の有能さに、すっかり感心して、ボランティアが
帰る時、彼等にお願いして、本拠地まで一緒に付いて行きました。
本拠地を知っておくと、今後、又、一輪車か、何かの工具を借りる
ことも出来ると言っていました。
結局は、その後一輪車は必要ありませんでしたが、又しても、彼の
配慮を学びました。

こうして、ボランティアの支援を2回受けた直後のことです。
司令官から電話があり、「今、区役所に来ている。」とのこと。
その時、もう瓦礫の撤去は済んでいたので、私は、びっくりして
「え~?なんで~(何故)?又、頼むの~?」と、馬鹿なことを聞
きました。でも、すぐ分りました。
「いやいや、お礼に来た。」と司令官は言いました。
それは、きちんとお礼を述べるという礼儀正しい姿です。
そして、それと同時に、3回目の依頼もあり得るかも知れないと考
えての行動だったと思います。
締め切り真際になって2回も依頼した為、我が家のことは担当者は
よく覚えていたので、お礼に行って良かったと言っていました。

この方は、人に好かれ、交渉が上手で、いつも物事をどんどん推進
して行かれるけれど、なるほど、人の協力を得られる人には、それ
だけの誠意と配慮があるのだと、又しても私は深く教えられました。

本当に、長い長い間、この瓦礫撤去を願って頑張って来た私達は、
ここで、大きな安堵を得て、喜び合いました。
駅前の、焼肉屋さんが壊れずに残って営業していましたので、そこ
で、皆で祝杯を上げて帰りました。
いつも、朝集合して神戸に来て、帰る時は夜になっていました。


しかし、その後で、大変なことが起こったのです。

隣家の更地になった個所に、我が家の瓦礫を、一時的に置かせて貰
うことは、聞いていた隣家の避難先へ電話でお願いし事前に了承を
得ていたのですが、そのことで、頭を抱える問題が起こりました。


            <感謝の仲間(その5)>へ続く

コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.16 感謝の仲間(その3)

<感謝の仲間(その3)>

業者の好意で、家の前にあった土嚢袋の山は、徐々に減りました。

でも、庭の瓦礫の山は、懸命に土嚢袋に詰めても詰めても、そして
どんなに廃棄に努めても、庭に盛り上がったままで、全く嵩が減り
ませんでした。
やっぱり、これが天災と言うものかと思いました。
屋根から落ちた瓦礫の嵩は、人の太刀打ち出来る量ではありません
でした。

我が家は昔の家なので、屋根の構造は木を張った上に、分厚い土を
乗せ、その上に重い重い日本瓦が乗せられていましたので、そして、
それらが全部ずり落ちたので(お陰で、梁が折れず家は助かりまし
たが)、半端な瓦礫の量ではなかったのです。

私もそれ迄知らなかったのですが、瓦というものは、小さなかけら
でも信じられない重量で、工具を持たず人の手だけで運び出すには
限界がありました。
あれだけやったはずなのに、全く片付いていない。いつまで掛かる
か、見当が付かないと言うのが実感でした。
すでに4月も終ろうとしていました。

5月の連休には、司令官は毎日来てくれました。私の方は身体を壊
して休みがちでした。寒い小雨の降るゴールデンウイークでした。
彼は、一人で頑張ってくれましたが、「1日中瓦礫を片付けても、
夕方見ると、『一体、何処をどうしたの?』と思うほど、朝と夕方
と、見た目は何も変わらない。」とショックを受けていました。

思いあまった彼は、自分の大学生の息子さんのラグビー部の部員に
頼んで手伝ってもらうと言い出しました。
ところが私が、ラグビー部員ならお腹を空かせているでしょうから、
仕事が終ったら、庭でバーベキューでもして上げないといけないの
では?と言い、そして謝礼のことなどを心配した為、私に心配を掛
けない様にと、区役所にボランティアを頼もうと言うことになりま
した。

バーベキューのことは、近所の人達が、互いを励まし合う為にして
いたことがあったので、これは、良いことだと思ったからです。

そして、私も瓦運びで、とうとう膝を傷め、曲げられなくなったの
で、ボランティアに頼むことを、司令官にお願いしました。
司令官は、区役所まで出向いて依頼してくれました。
彼は、区役所へ行く道は目をつぶっていても行けると、いつも言っ
ていました。(電車で数駅あり、その上、相当距離歩きます。)
私の為の様々な証明を取ったり、質問や相談の為、何度出向いてく
れたか分りません。

ところが、依頼に行くと、もう、ボランティアは解散寸前ですよと
区役所は驚いたそうです。滑り込みセーフでした。
その時、もう、5月の半ばでしたした。(震災後4カ月)

そして、ボランティアの来てくれる日が決まると、司令官は、町中
が全壊しているので、地図とは全く様相が違っているので、ボラン
テイアが我が家に辿り着けないと困ると言って、私の苗字を書いた
白いプレートを特注してきて、我が家の入り口にボンドで張り付け
に来たりして、準備をしてくれました。
ボンドが多すぎたので、乾く迄30分押さえていたと笑っていました。
こうして、全員で来る時以外でも、何度も一人で来ては情報を収集
し、準備してくれました。
この配慮と情報収集力こそが、復興作業に一番大切だと知りました。


いよいよ、ボランティア来訪の1回目、学生十数名と、京都からの
弁当持ちの主婦二人が来てくれました。
学生達は、パン箱の様な、平たい大きなプラスティックの箱を用意
していました。良いアイデアだなと思いました。
そこに瓦礫を入れて、2人叉は3人一組で、とても重いはずのその箱
を幾度も運び続けました。
私達は、そんな便利な道具が無かったので苦労しましたが、でも、
もしあったとしても、私達には、それを運び上げる力は無かったと
思います。
私の支援者のほとんどは、中年の女性でしたので、若い大学生達と
の腕力の差を目の当たりにして驚きました。

ボランティアの主婦二人は、もっと早く申し出られたら来ましたの
にと言ってくれました。
私は、自力で復興しようとしたけれど、膝を傷め曲げられなくなっ
たので、お願いすることにしましたと言いました。
この二人は、玄関脇の瓦礫の撤去をしてくれました。
優しい方々で、癒されました。何回目かの応援だったそうです。

私は、自力で復興出来る者は、ボランティアを頼めないと思ってい
て、自分が膝を傷め、作業が出来なくなる迄、ボランティアを頼む
という発想を持っていませんでした。
これだけの支援者があるのだから贅沢だと。
一人暮らしの年輩の方で、身寄りも、頼める人も無い人のものだと…。

でも、そんなことは無かった様です。
皆さん、積極的に頼まれていましたよ、とのことでした。
本当に、そうでした。天災を、甘く見ていました。
私の無理した膝は、その後、更に筋肉を落として持病となりました。

友人達にも、家には介護の必要な親を持っている人もありましたが、
私は好意に甘えて、苦しい目に合わせました。
役所にボランティアを申し出てくれる方々は、その支援を望んでく
れているのですから、お願いしますと、力に縋っても良かったのだ
と思います。
           
             <感謝の仲間(その4)>へ続く

コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.14 感謝の仲間(その2)

<感謝の仲間(その2)>

14年前の震災の復興の時、そして4年前の今の家への転居の時、そ
の2年後の最終的な引き払いに至る、大きな試練の3回の転機…、
その間、私はたった一度も、お願い助けて!と言う必要が無かった
のです。
彼女達が、すべて考えて行動してくれました。
「次は、何日と何日と何日に集合よ。その後は、何回集まれば終る
はず。」などと友人達が計画しているのを、横で聞くだけでした。

私は「父母が頼んでくれたのだ。父母の強い念で私は助けて頂いて
いるのだ。そうとしか考えられない。」と思い「お父さんお母さん
ありがとうございます!」と、いつも心で叫んでいました。


震災復興の時は、この他に「司令官」の役目を見事に果たして下さ
った男性がいて、その方の適確な推進力と細かい配慮に、ただただ
一同尊敬の念を持ち、従いました。
あの様に、真心込めて、復旧推進が出来るものかと感心しました。
人を引っ張って行く人は、頭脳と心が違うと思いました。

殆ど毎週、土曜か日曜(皆働いていたので休日に)大阪で集合し、
皆で神戸へ向います。
神戸の我が家へ到着してしばらくすると、関西電力や、電話局の人
がやって来ます。彼が事前に予約しているのです。
電話線を繋いで貰ったり、電線を復旧して貰う為です。

私は、大阪で集合する時、いつもすぐには皆さんに有難うと言えま
せんでした。私は、そのことを詫びました。
「私は『先に心の中で、お父さんお母さんありがとう。』と言って
しまうので、皆さんにありがとうと言うのは遅れてしまうんよ。」と。
すると、司令官から帰って来る言葉は、「それでいいねん。それで
いいねん。」と言う言葉でした。
そう言う暖かな人達に包まれての復興でした。


被災地に着くと、司令官は超多忙でした。
家の中はすべての物が倒れ、壊れた箪笥や戸棚や本箱から物が飛び
出したものが大きな山となって、足の踏み場も無く散乱しています。
普通の軍手では、割れ物が手に刺さる為、豚皮の手袋で、それら
を選別したり捨てたりの作業の連続の中、給水車の音楽が鳴ると、
彼はすぐ飛び出して、近所のバラックやガレージで、寒さで焚き火
を炊きながら、家財道具を守りつつ生活している人達に声をかけ
バケツを借りて水を運んであげていました。
自転車を使って運ぶ人には、水を乗せて自分が自転車を押して歩き、
被災者の人を手ぶらにして上げて、一緒に和やかに話しながら帰っ
て来ます。

私達だけでなく、廻りの人達からも好かれ信頼されていて、後々迄、
あの上役の方はお元気ですか?と、懐かしそうに聞かれました。
親身な気働きから、てっきり私の職場の上役だと思われていた様で
した。実は若い頃の職場のお客様でした。ですから、私の友人達も
同じく顔見知りだったのです。

彼は人々とコミュニケーションを取りながら、遠く離れた所へ避難
している私が取り残されない様と、情報収集に熱心でした。
ブルドーザーによる撤去はいつからか?何ヶ月先のことか?どう
いう順番で更地にして行くのか?情報は、彼が一番知っていました。

一つずつの家を取り壊し、更地にして行く時、彼は、その一軒ずつ
の業者に掛け合って(一軒ずつすべて業者が違います。日本中から
来ています。)我が家の瓦礫を面倒みてくれる様頼んでくれました。

何故なら、我が家は、一軒だけ、梁が歪まず残ったので、壊さずに
修理して住む予定の為、瓦礫を捨てる方法が全く無かったのです。
折角、瓦礫を土嚢袋に入れてどんどん整理して行っても、家の前に
うずたかく積むだけで、何処にも持って行き場が無かったのです。
その内に、これを、どうにかしてくれないと、道を塞いで、作業が
出来ないと苦情が来ましたが、捨てる術が無いのです。

業者ならば、廃材を捨てる権利を持っています。
しかし、業者が神戸市から貰うお金は、潰す家の潰し賃と、潰した
廃材の運搬費や手数料です。
従って、それ以外の物を運ぶのは、只働きです。
でも、業者は親切で、出来ることは、目をつぶってくれました。
ブルドーザーで潰した家の瓦礫の中に、運べるだけの瓦礫を運んで
おくと、廃材として一緒に撤去してくれると言ってくれたのです。
彼は常にアンテナを張り巡らせて、一軒ずつ業者に掛け合ってくれ
て、我が家の復興を進めてくれました。


そして、司令官には、一軒ずつ取り壊された瓦礫の山に、別の大き
な目的がありました。
ブルドーザーが壊した後、廃材を運ぶトラックが来る迄に、日数が
あります。
彼は、そこへ行き、鉄の棒を何本かずつ、拾って来ました。

我が家の南の塀は、南の家が我が家の側へ倒れた為、塀がその家を
受けた形になって、倒れました。
彼は、適当な鉄の棒を物色して拾って来ては、我が家の塀を修復し
始めました。
まず、倒れている塀を起してから、欠損している部分を、自力で
補填しようとしました。

欠損部分は、奥側の15メートルほどでした。
適当な鉄の棒が無い時は、木の棒のこともありました。それを、
やはり廃材の縄やら、針金で、結わえながら、組んで行くのです。
皆で道を通っている時も、彼の目は、両側の道のおびただしい瓦礫
を見ていて、何本かの棒を拾って来ていました。
一日に数本の棒でも、日に日に復旧部分は拡がって行き、真夏の頃、
ふと見ると、塀はすでに完成していました。

一面、更地となった中に、たった一軒だけ残って、国道から我が家
が見えるという、信じられない光景の中、1年半も空家にしていて
も、物取りにもあわず、浮浪者に住み付かれることも無かったのは、
この塀のお陰だったと深く感謝しています。


              <感謝の仲間(その3)へ続く>



コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.12 感謝の仲間(その1)

先日、私がちょっと一眠りをしたばっかりに、このブログの連続更新
が出来なかったと、大騒ぎを致しました。(2009.05.06 仮眠をしたばっかりに!)

それは、その前日の「久し振りの集い」の続編に当るものだったの
です。(2009.05.04 久し振りの集い)

では、それをUPします。↓(長文、お許し下さい。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<感謝の仲間(その1)>

久し振りに集まったこの仲間のことを書いている内に、忘れられな
い感謝が込み上げて来たため、思いあまって続きを書いていました。

いつも思うことですが、この人達がいなかったら、阪神大震災の後、
一人暮しだった私が神戸の家を復興することは絶対に出来なかった
のです。

この友人達のお陰で神戸の家が復旧でき、そして1年半の避難生活
の後、ようやく神戸に戻ることが出来ました。
その再出発の日にも、彼女達が引越を手伝い、一緒に祝ってくれま
した。
お赤飯を蒸してきてくれて、合計3カ所からお赤飯が届きました。

ようやく復興した神戸の家に、私は、その後10年住みました。
復興した最初の年のお正月、私は、支援者の皆さんに、おせちのご
招待をしました。
長年勤めていた私が、おせちなど作れるとは思いも掛けなかったと、
皆さん、あまりに、喜んでくれましたので(喜ぶ方は私の方なのに)、
私はびっくりし、それが嬉しくて、固く決心しました。
私の身体が動く限り、おせちを作ってお招きし続けようと…。

震災後、神戸に戻って10年間暮しましたので、10回のおせちの
ご招待が出来ました。
そしておせち以外に、お世話になった方々をお招きし、その10年間
で、100回程のおもてなしをしたと思います。
私の残りの人生すべてを使ってご恩返しをしたいと思っていました。
もちろん、料理だけでなく…。

途中で健康を害し、手足の激痛に、悔しくて泣きながら、おせち
を作りました。
もう、来年からは無理だ、これが最後のおせちになると思った時、
思い出にと、兄弟を招待しました。
ところが、それが一番の底で、そこから辛くも這い上がり、まだ、
痛みはあるものの、又、何とかおせちを続けることができました。

10年経ち、まだまだ皆さんに何のご恩返しも出来ない内に、神戸
の家を処分することになりました。
すると、又、震災復興を支援してくれたあの同じメンバーが集結、
再び、信じられない様な献身的な引越の手伝いが始まりました。

一軒家を畳んで引越をするという、想像を絶する大仕事を皆さん
のお陰で、無事乗り越えることが出来ました。
心身の激しいストレスも、明るい励ましと慰めに包まれて乗り切り、
ようやく、今のマンションに移ることができて、落ち着きました。

それから2年後、今度は急遽、そのまま置いていた以前の家を売る
ことになり、空家の中に置いていたものを、大至急、整理、処分し
なければならなくなりました。

もう一度、徹底的な最終的な引越です。

又、この仲間が毎日毎日来てくれて、2年間放置されていた真夏の
あばら家で、真っ黒に激しく飛び交うやぶ蚊と闘いながら、汗が
滝になって流れて目が開かない苛酷な暑さの中を、ものともせず、
最終的な荷物の処分、移動など、想像を絶する献身を貰いました。

古着屋さんと話を付けて、我が家へ呼んで来てくれて、震災で助か
った衣装箱の古着類を、あっと言う間に片付けてくれました。
もちろん、家具や、机や、雑器なども。

その前の引越しの時、処分を決心出来なかった父母の思い出多い品
物類を、一緒に考えて処分してくれました。
絹の絞りの布団側が付いていた、母が大切にしていた真綿の布団…、
そして、今では手に入らない「ラクダ」の毛の布団には、目も鮮や
かな絹のサテン地に中国の絢爛たる模様の刺繍が施されていました。
母の思い出のあるものを、そのまま捨てるには忍びなく、色々な所
へ引き取り手を探し廻りました。
友人達は、何回でも、何処へでも、私の気の済む迄、車を走らせて
処分先を一緒に探し廻ってくれました。
(結局、真綿の布団は箕面のMさんへ(大変に喜んで頂きました)、
ラクダの毛の分厚い布団は布団屋さんでも引き取り手はなく、処分
しました。)

私の意見を聞きながら、何日も掛けて分類し、不要なものはゴミに
出してくれて、必要なものを残した後、「鍵貸して!」と言うので
渡すと、あとは我が家迄何回も何回もピストン運転で荷物を運んで、
14階の私の部屋まで重い重いそれらを運び上げてくれました。

我が家の玄関の廊下は、ものすごい荷物の山となっていました。
「この荷物の片づけも又手伝いに来るからね」と言ってくれました
が、さすがに私もそこまでは甘えませんでした。

            <感謝の仲間(その2)>へ続く

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.10 もう一度、泡のこと。



先日、チタンカップの中に出来る泡の写真を、見て頂きました。
「2009.03.30 この泡は何でしょうか?」


ところが、今日は、泡がもっと多く出来ていましたので、改めて写真に撮
りました。

私は、いつもコップに水を入れておき、毎朝バルコニーの植物にやります。
友人達が、一晩チタン鍋に入れておいた水を植物にかけると、植物が
びっくりするぐらい生き生き育つと言い合っているのを、横で聞いていて、
私の方が真似をしました。

でも、我が家のバルコニーでは、植物は少ないので、チタン鍋では量が多
すぎます。それで、コップにしました。
使ったあと、又水を入れておきますので、この泡は、一昼夜置いて出来た
ことになります。

これとは別に、冷蔵庫の中にチタンの大型カップ2個に水を入れており、
それを交互に、飲んでおります。

余りの美味しさに、以前はお茶好きだった私が、お客様の時以外はお茶を
全く飲まなくなってしまいました。
お水を飲むのが楽しみで、「食後のお茶」は、「食後のお水」になってし
まいました。
お水を飲む習慣が無かった私がです。

水にしろ、料理にしろ、チタンに入れておくと、味が良くなるのは確かで
すが、その理由が分りません。

友人が、一晩チタンカップに入れていた水を飲んで、「え~?これ本当に
水道の水?」と、あまりの美味しさに感激して、他の友人を連れてやって
来たことがあります。
「2008.10.30 チタンカップの水の美味しさに感動した友人」


しかし、何故美味しくなるのかは、分りません。

人間に美味しく、そして植物にも美味しい水にする、チタンの不思議、
この泡を調べれば、その謎が分るのではないでしょうか?


コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.08 ご飯炊き、ひとつまみ食べてみる



(1)
今日も、チタン鍋の小型で、1合のご飯炊きです。
おねばが噴いて来ました。
綺麗です。いつ見ても、楽しい。




(2)
おねばが上がると、一番小さな火にします。
これは、暫く経っておねばが少なくなってきたところです。
おねばが消え、水気が無くなったら、出来上がりです。
(その間、約7分です。)




(3)
水気が無くなったら、そっと蓋を開けて、この様に鍋の縁の
ご飯を一口取って食べてみます。
炊けていたら、OKです。
後は、火を止めて、蓋をして10分蒸らすだけです。


簡単でしょう?
これは、私がまだ、チタン鍋でご飯を炊いたことが無い頃、
Yさん宅に招かれた際、ご飯炊きを見学させて貰いましたが、
その時、彼女がして見せてくれたことでした。
私にも、ひとつまみ食べさせてくれて、「ね、できてるで
しょ?」と言いました。

なるほど、こうすれば、芯が無く、出来上がっていることが
確認できるので、安心して、火を消すことができるなと思い
ました。

しかも、出来上がっているけれど、もう少し、固目にしたい
と思えば30秒そのままにしておくとか、軽くお焦げを作りた
いと思えば、後1分程火を消さずにいれば、とても良い香ば
しいお焦げの香りがしてきますので、そこで火を消せばいい
のです。
ですから、ひとつまみ味わうことは、良い目安になります。
(特に、慣れない内は…。)

Mさんなどは、お料理の大家ですから、ガラスの蓋など無く
ても、ステンレスの蓋で、失敗無しでご飯を炊かれますから、
別格ですね。
しかも、彼女は、チタン鍋は、少々水が少なくても多くても
全く問題無く、必ず食べ加減にできると、いつも言われます。
水を計って炊いたことが無いそうです。
今迄の他のお鍋は、土鍋もすべて大変水加減が難しく、決め
られた通りに計って入れないと必ず失敗するけれど、チタン
鍋はそれが無い不思議な鍋だと、いつも絶賛です。


なお、Yさんは、お焦げを作ると美味しくて食べ過ぎるので、
この頃は作らない様にしているそうです。
私は、柔らかめのご飯が好きですから、出来上がった時点で
火を消して蒸らします。

ご参考になりましたでしょうか?




コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.07 待ち兼ねた連休明け

今日は、待ち兼ねた連休開けでした。
何を待ち兼ねたかと言いますと、もちろん、整形外科での治療です。
(つまり、水抜きです。;;)

この連休の間、膝の水を抜けなかったので、腫れてパンパンになって
しまい、結局、良い方の足に負担が掛かってしまい、そちらも痛み出
したのが苦痛でした。

いつもの左足は、少し少なくなって、104ccになったので、先生は、
「ホー、今回は少なくなりましたよ。」と言われました。

でも今回は、反対の右足も大きく腫れていたので、抜いて貰いました。
それが、なんと! 右足は105ccもあったのです。
これでは、痛かった筈です。

104ccと、105cc、…
又、新たな記録を作ってしまいました。

水が溜るのを防ぐには、動き回らないことが、一番良いらしいです。
動かなかったら、筋肉が弱ると思われがちですが、実は、歩くことよ
りも、筋肉強化の体操の方が、筋力を付けるには有効だそうです。

私は、家にいることは大好きなのですが、外出する用事が結構多く、
これでは、なかなか治らないのではと思い、この頃は、外出を極力
減らしております。

以前の、もっと比べ物にならない極限状態から生還した私なのです
から、今回も、どうしても、治したいと思っています。



コメント ( 2 ) | Trackback (  )

2009.05.06 仮眠をしたばっかりに!

(1)
関東に住んでいる甥とその一家が、里帰りで神戸へやって来ました。
こちらへ来たら、美味しいイタリアンに連れて行ってあげると約束していました。
昨日電話があったので、急遽イタリアンを予約、私の兄弟達も参加し、総勢7名で、
イタリアンを食べました。
貸し切りにしてくれました。

甥の子供の2才の幼児が大喜びでした。私は仲良しになりました。
料理は美味しく、楽しい会で、私もスパークワインや白ワインを飲みました。

帰宅後、ブログに載せる原稿を書いていると、眠くてたまらなくなりましたので、
先に、一眠りすることにしました。
UPしようとしていた文章は、8割方書けていたので、一眠りして最後の仕上げを
して、UPする積りでした。
久し振りのアルコールに酔ったので、寝てスッキリしたら、早く文章もまとまる
と思いました。

それで、夜の8時半頃、仮眠に入りました。
ところが、次に起きた時は、夜中の12時を4~5分過ぎたところでした。
ウソ~! 私は目が点になりました。
家中の時計を見ました。でも、電波時計なので、どれも同じです。
12時を過ぎて、もはや翌日になっていることは確かです。

がっくりしました。
毎日、ブログを更新していましたのに、もう翌日になったので、更新が間に合い
ません。
せめて12時5分前に起きていたら、間に合わせていたと思います。
何とツイテいないのだろうと思いました。


(2)
しばらく落ち込んでいた私は、ふと思いました。
「あ、これで良かったのかも知れない。」と…。

と言うのは、1~2カ月前、知人に言われた言葉から、私は自分の仕事への取り組
み方(特に時間配分)に、ある疑問が生じ、私は、それを糺すべきではないかと
思っていたからです。

知人の言葉は、「自律神経が乱れる」という言葉だったのです。
その時、私は、あ!と思いました。
昼間は、交感神経が優位になって、張り切って仕事をしますが、それを、夕刻以降、
リラックスして、副交感神経優位に切り替えなければならない。
そうしないと、昼間の疲れが修復出来ない。
昼間働いて、夜休む、それで、身体は維持されると分りました。

私の場合、ブログを、夜に向って書き始め、12時を目処にUPすることを繰り返し
ています。
リラックスすべき夜に向って、もう一度、ヤアヤアと戦闘モード(自律神経で言う
ところの交感神経優位)を、繰り返している。
これでは、身体が修復される時が無い。
知人は言いました。
あなた程勉強している(誉め過ぎです)人が、それに気付かなかったなんで、信じ
られないと…。

昨夜の寝過ごした仮眠の原因は、アルコールだけではなかったことに、今気付きま
した。
このゴールデンウイークで病院が休みなので、2日に1度100cc以上の水を抜いて
貰っていた私の足は、抜いて貰えないので水が溜りに溜って、夜も疼き、そのスト
レスから睡魔におそわれたのだと思います。
(多分、ここまでひどい人は、前代未聞だそうです。私の行く病院は、素晴らしい
先生で、信じられない程の人が押し掛けますが、こんな人は始めてだそうです。
オリンピックではあるまいし、記録を作る必要はありませんよ、と言われています。)
私は、昼寝や、仮眠の習慣は全く無いのです。
身体が昼寝を求めたら、その時は、必ず体調が悪いのです。


(3)
今日も、予約で遠く西明石の美容院へ、足を引きずりながら行ったので、そのスト
レスから、又、激しい睡魔に襲われながら、これを書いています。
パソコンの前に座り詰めの生活が、こんなに足を悪くさせるとは…、気付いた時は
後の祭りです。

昨日、偶然にも、ブログが間に合わず、更新が果たせなかったことから、私の中の
「連続更新と言う呪縛」が解けました。
あまりにも、書くべきことが多すぎて、どこか追い立てられるものがありましたが、
それも、慌てなくなりました。
つきものが落ちた様な気持ちです。
昨日、時間に間に合わなくて良かったと思っています。

あれから、自律神経に関する素晴らしい本に出会いました。
私は、自分がいかに無知だったか、本当によく分りました。
又、いずれ、その本のことを、お知らせ致します。
コメント ( 0 ) | Trackback (  )

2009.05.04 久し振りの集い



(1)
久し振りに、仲良し3人組で、会おうということになりました。
40年前の職場の仲間です。

この頃は、なかなか会えなくなりました。
一人が、この4~5年母親の介護の為、毎週土曜日に実家に帰ります。
4人姉妹で交替で介護をしていて、勤めている彼女は、土曜日が当番
なのです。

もう一人は、8人目のお孫ちゃんが生まれた為、手伝いで大変です。
そんな中でも、このゴールデンウイークには、1度でも会おうとして
計画してくれます。
本当は、ドライブか小旅行を、彼女達は望んでいた様ですが、私が
足を悪くしたので、やむを得ず、我が家でお茶をして、近所で夕食
することになりました。

この3人組以外に、以前の神戸の家の近所に住んでいるMaさんにも、
声を掛けました。銭湯で知り合った、20年来の友人です。

彼女の母親は昨年暮、大腿骨骨折し入院手術後、最近退院しました。
彼女はアルバイトを続けながら、そのお世話で大変ですが、もしや、
この日は空いていないかなと思い、念のため声を掛けたら、その
まさかの「もしや」でした。^^
今日は弟さんが来てくれるので、たまたま家を空けられると言うの
です。
大喜びで、アルバイトの帰りに寄ってくれました。

彼女は「友達の友達は友達よ!」と言うのが口癖の、とても可愛い
性格の人で、先の私の友人二人とも大の仲良しになってくれました。
彼女のそういうところを、私は本当に尊敬しております。
お陰で、今では、4人組となりました。

そんなことで、今日は、「久し振りの4人組集合」でした。


(2)
ケーキと美味しいお紅茶、お饅頭と美味しいお煎茶を、煎れて飲み
ながら食べながら、おしゃべりしました。

夕方になったので、皆のお気に入りのお蕎麦屋さんへ行き、夕食を
して、解散しました。

短い時間でも、こうして会う時、皆、癒されて楽しんでいることが、
しみじみと伝わって来ます。
もちろん、私もです。
こうゆう時、私は心の底から、幸せを感じます。



コメント ( 0 ) | Trackback (  )
« 前ページ