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2010.02.28 阪神大震災の日、香港に居た私(その8)

(その8)
この一連の話では、前章(その7)が、中核だと思います。
(それ以前の章は、このことを述べる為の長い序章でした。)

私は、今迄、この出来事を、殆ど、人には語ったことはありませんでした。親友達にさえも。
一度だけ、震災直後に長兄に話したことは覚えています。それを聞いた長兄は、深く目を閉じていました。

私は、何故、今迄、このことを人に語ることが出来なかったのか?
理由は、それを語れば、まさしく自分が生き延びたことを何か意味あることの様にとらえ、それどころか、
自分の善行(?)へのご褒美だと言う風な、思い上がった尊大な話になってしまうことを恐れたからです。

だったら、あの時亡くなった、多くの方々は、どうなるのか?
私などとは、比べ物にならない素晴らしい人々が、大勢亡くなっています。前途のある若い人々も。

長らく、固く口を閉ざしていた私でしたが、今年になって、このブログで、迎春用品の話からスワロスキー
の小物の話になり、それを買って来たいきさつに話が及び、やがて香港の話にどんどん繋がって流れが出来
て行くに至り、もはや、私には止め様のない流れになったことを感じて、とうとう、この話を書く時が来た
のだと思いました。

できたら、避けて通りたい、書きたくない話題でした。
ついに、その話をするのか、という気持ちでした。
この不思議な出来事を信じてもらえるか、又、それを私の筆力で著し得るものか、その不安もありました。
 
特に、前章(その7)を載せるについては、文章は出来上がっても、UPする勇気がなくて悩んでいました。

すると、クリスチャンの友人が、こう言って励ましてくれました。
「<何事にも時がある>と言う言葉が、聖書にあるのよ。コヘレトの言葉3章に、書いてある。今、貴女は、
書く時なのよ。震災から、もう15年経ったのだから、もう書いたって良いのよ。今がその時なのよ。」と。

確かに、震災から15年経った今、話しても良い時かも知れません。
自分は、その時、こんな経験をしたと言う、ありのままのことを、一人の被災者として語る訳ですから…。

そして又、ここで、今、書いておかなければ、もう忘れてしまいます。
今が限度です。今でさえ、記憶は薄れかけていますから。

小心者の私は、今回お話しするに至った経緯と心境を、「ひとこと」説明しないと気が済まないことから、
この様な、言い訳の一章を書かせて頂いた次第です。

この後、まだ、不思議な話が続きます。
後半、うまく纏まりますことやら、おぼつかないですが、お読み頂ければ、大変有難く存じます。

                               (その9へ続く)
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2010.02.26 阪神大震災の日、香港に居た私(その7)

(その7)
母は、震災の10年前に亡くなっていたのですが、生前の母に、私がいつもしていたことがありました。
それは、地震など、何か怖いことが起こると、真夜中でもいつでも、私は母のところに駆け寄り、両腕の
中にしっかり抱いて、「大丈夫よ、大丈夫よ。」と言っていたことです。

人間年を取ると、耳も、目も、感覚も鈍って来るので,何が起こっているのか把握出来難くなり、それが
恐怖に繋がるのだと言う、私の持論がありました。

母が、白内障の手術をした時は大昔で、私は30代の始めだったと思います。
その当時の白内障の手術は、入院1カ月間砂枕で頭を固定されていて、退院後も1カ月自宅安静という、
大手術でした。(介護疲れの私は、通勤電車のつり革に掴まりながら熟睡して、膝が大きくガクンガクン
するので恥ずかしかったことを思い出します。洗濯機に脱水が付いてなかった時代の真夏の入院でした。)

そういう時、私は疑似体験と言うものをしようとするのが常でした。
そんな状況の場合、どんな不自由があるのか、どんな心理になるのか、知りたいと思うことからでした。

…と言うのは、年を取って、自分がそうなってから気付くのでは、あまりに悲しすぎると思うからです。
それは、気付かなかった自分への自責を伴うからです。
できたら、早めに似た様な体験をしてみて、全く同じではなくても(同じになれる筈はもちろん無くても)、
理解を持っておきたいと言う気持ちが、強くありました。

その時、私は近くの国道2号線に行き、瞼を半眼にし視力を暗くして、じっと国道の騒音を聴きました。
すると、今迄とは全く違った、底知れない響きのある騒音となり、訳の分からない怖さを感じました。
人が、横をすり抜けて行く気配にも、体当たりされないかと、怖さで身がすくみました。

視力が薄くなると言うことは、当然のことながら、それだけで、恐怖が増すのです。
視力が衰え、さらには耳が遠くなると、ますます理解力を失い、何が起こっているのか分からないので、
恐怖は倍加します。脳の機能が衰えたら、なおさらのことです。
何が起こっているのか分からないということほど、怖いものは無いと思います。
その上、年を取ると、身体が利かなくなるので、危険を避けることも難しいので、恐怖は益々加わります。

そういうことを、疑似体験は、少しでも教えてくれる様に思いました。
出来たら、そんな経験を先にしておいて、親の老後に備えたいと考えました。
むろん、どんなことをしても、本当のところは、自分がその年になってみないと分からないことは、承知
していましたが、せめて、努力だけはしたいと思いました。

そんな私にとって、地震などのとき、年老いた母の恐怖を軽減することは、大切な役目でした。
そうゆう気持ちが、地震が起こった時に、母を両腕の中に抱きしめるという習慣になったのだと思います。

そんな時、いつも、小柄な母の頭が、私の左の頬に当たっていました。
母が、私をじっと見上げている(感謝のまなざし?)こともありました。

その視線です。まさしく、その視線なのです。私の左の頬に突然張り付いたのは!
香港のテレビで神戸の惨状を見た瞬間、まさに、母のその視線が、私の左の頬に、「パン!」と貼り付いた
のです。

そうか、そうだったのか・・・?
母が、私を此処へやってくれたのだ。
地震を避ける為に、私を海外へ逃してくれたのだ。
そう言うことだったのか!
私は、そう思いました。

衝撃でした。
そして、その視線は、その後も数日間、私の左頬に張り付いたままだったのです。

                               (その8へ続く)
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2010.02.24 阪神大震災の日、香港に居た私(その6)

(その6)
夕食は、香港島のお店で済ませていましたので、ホテルに帰ったら、後はお風呂と寝るだけでした。
Tさんに先にお風呂に入って貰って、次に私がお風呂に入っている時のことです。

突然、Tさんが、バスルームのドアを激しくドンドンと叩いて、大きな声で叫びました。
「ちょっとちょっと、早よ出て来て!、早く早く、テレビ見て!」と言って、激しく叩き続けます。

私は、あわてて濡れたまま、バスルームから飛び出しました。
そして、目の前のテレビに映っている光景を見て、びっくりしました。

凄まじい火事です。
真っ赤な大きな炎がめらめらと、大きく燃え広がっている恐ろしい光景です。
何よりも驚いたのは、テレビの下に出ていた文字なのです。
そこには、「神戸市長田区」と言う文字があったのです。
 
もちろん、流れている言葉は、分かりません。
でも、それは関係ないのです。
日本人には漢字が分かるので、テレビの画面を見れば、何が起こっているのか、理解できました。
神戸市長田区で、凄まじい大火事が起こっているということが…。

そして、続いて、出て来た画面を見て、私は仰天しました。
何と、阪神高速道路が、ぽっきりと折れて地面に横倒しになっている写真が写っていました。
そして、その下によく知っている文字があったのです。
それは、信じられないことに、我が家のすぐ南の町の町名でした。

あの、歩いて10分掛からない、我が家の南にある見慣れた高速道路が折れて地面に落下している
信じられない惨状が、はっきりと写っていました。

その時、初めて、私は神戸に何が起こったかを知りました。
私は、凍り付いた様に、画面を見つめて立ちすくんでいました。

その瞬間です。
まさに思いがけないことが起こりました。
私の左の頬に、母の視線が、パンと張り付いたのです。

                                (その7へ続く)
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2010.02.22 阪神大震災の日、香港に居た私(その5)

(その5)
14日(土)15日(日)16日(月)と、楽しく過ぎて行きました。
毎日、有名な中華料理店や、ホテルで、素晴らしい料理を堪能しました。

そして、いよいよ、明日は日本に帰るという前の日の、17日(火)のことです。
皆で、九龍から、香港島へ行くフェリーに乗っていました。

その時、仲間の一人が、怪訝な様子で、「何か変なんよ。…でもそんなはず無いしね。」と言いました。
聞いてみると、「現地の人が読んでいた新聞に、不思議なことが書いてあった。」と言うのです。

もちろん、日本語の新聞ではなく、現地の新聞なので、漢字の字面だけを、とっさに見ただけなので、
まさかと思うけれどと口ごもりながら、「新聞に、<大阪>、<大地震>、<200人死亡>と言う文字が
あった様に思う。」と言いました。

あわてて、廻りの現地の人を見回すと,新聞を持っている人は、見当たりませんでした。
新聞売り場を探しましたが、それも、とうとう見つかりませんでした。
記事を見たという仲間も、勘違いかも知れないと自信が無く、皆も、「まさかね。それは無いでしょう。」
ということになりました。

「でも、もし大阪でそんな大地震があったのなら、神戸も少しは揺れたでしょうね。」
「200人も死亡したのなら、かなり大きいからね。」
「でも、それはうそやわ。関西には地震はこないはずやもん。」
その頃、関西には地震が来ないと信じられていたので、やっぱり間違いだとの意見に落ち着きました。

フェリーが香港島に着きましたので、降りて、一応「日本大使館」に電話することになりました。
私が電話したと思います。
おそるおそる「日本で地震が起こったと新聞に載っていたと言う人が居るのですが、まさかそんなこと
ありませんよね。」と聞きました。
私は、てっきり、「え?何のことですか?」と言われるものと思っていました。

しかし、全く意外な言葉が返って来たのです。
日本大使館員の答えは、「はっきりしたことは分かりませんが、神戸でかなりの地震が発生したのは確かな
様です。でも、こちらも、何の情報も入って来ておりませんので、把握しかねております。後は、ホテル
のテレビを見て確認して下さい。」とのことでした。
(日本国内でも、情報は把握できず、事態が判明し出したのは相当遅かったことを、後で聞きました。)

それを、Tさんに伝えましたら、「今日は、普通にみんなと同じ様に行動してな。気イ使わせたらいかん
から。」というので、それからは、何も無かった様に、香港島の美味しい店へ食べに行って、いろいろな
買物に延々と付き合って、夜遅くになってホテルに戻って来ました。
もう、明日は帰るという最後の日でしたので、遊び納めと言う感じの一日でした。

最初は気になっていた地震のことも、焦りはだんだん薄れて行き、と言うより、心配してもしょうがない、
帰ってみないと何も分からないんだから、と言う気持ちになり、ホテルに戻った時は、不思議なことに、
もうほとんど頭に無かった様に思います。

                              (その6へ続く)

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2010.02.20 阪神大震災の日、香港に居た私(その4)

(その4)
香港旅行は、1月13日(金)から18日(水)と決まりました。バーゲン時期に合わせて行くとのこと。
(1月13日は、祝日だった様に記憶しますが、何の祝日だったか、本当はどうだったか分かりません。
逆にネットで調べたら、16日(月)は振替休日だったとありますが、それは、その頃「成人の日」は
15日だったので、その振替だったのだなと思います。15年前の記憶は、薄れていくものですね。)

Tさんから電話があり、「ごめんな。普通はバーゲンに行くときは、金土日の3日で帰るもんやけど、
今回は、なんでか変則的な日程になってしまってん。その次の「月火水」も含めて合計6日やねん。
変わってるでしょ?大丈夫?休み取れる?」とのこと。

私は、休暇はたっぷりあるし、連続休暇も取っていなかったので、それを充てるので、大丈夫でした。
(それが、偶然というか、幸いというか、震災後のその週は、まるで復興作業を予測でもしていたかの様
に、全部有給休暇を取っていたのです。もちろん、復興そのものはその後延々1年以上掛かりましたが…。)

しかも、それどころではありません。
その変則的な日程が組まれていたお陰で私は命拾いをしたのです。
香港にバーゲンに行く時に通常組まれると言う「3連休旅行」であったならば、私は、旅行から帰った
ところへ、地震の直撃を受けた訳ですから。
今回だけ、何故か変則的な旅行日程を組んでくれた、Hana さんに感謝しても感謝しきれません。

そして、いよいよ、長年の念願叶って、私は香港へ行ったのです。
香港に到着早々、香港通のHanaさんの案内で、楽しいショッピングや、食べ歩きが始まりました。

到着してすぐ、私以外の全員(6人で行きましたので、5人が)、ひどい風邪を引き、ダウンしてホテル
で寝込んでしまいました。
何度も香港に来たことのある5人が風邪を引いてしまい、香港初めての私だけが元気なので、皆が気の
毒がりましたが、私は大丈夫よと言うしか無く、一人で香港の街を見物しました。
難しい路地に入って行く訳ではなく、大通りだけならば何とかなると思いました。
教えて貰ったペニンシュラホテルでは、有名なアフタヌーンティーを、一人で頂いたのも思い出です。

風邪の5人も、すぐ回復し、続いて、観光が始まりました。
さすが、Hanaさんの教えてくれるお店は、すごいなと思いました。
高級なお店と、地元の人で賑わう場末のお店と、両方連れて行って貰いました。

食べ物だけでなく、おしゃれの店にも、沢山行きました。
その中の1軒の店で、私は、あのスワロスキーの小物と出会ったのです。
他の仲間は、服やバッグを買っていて、私の買う小物などには、何の興味もなさそうでした。
スワロスキーの小物の種類は沢山ありましたが、随分悩んで買って来たのが、あの9点でした。
もっと欲しかったのですが、我慢しました。
今、見ていると、もっと買っておけば良かったなと思います。



『2010.02.12 スワロスキー達を、ご紹介します。」
『2010.02.10 やっと日の目を見たスワロスキー達」

                            (その5へ続く)
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2010.02.18 阪神大震災の日、香港に居た私(その3)

(その3)
それから、4年経った1994年11月のことです。(震災の前年の秋、震災2カ月前のことです。)

突然、Tさんから、電話が架かって来ました。
「あんた、まだ香港へ行く気イある?」
多分、私がいつもコロコロ変わる人なので、「え?何のこと?」などと言うかと思ったはずです。
でも、私は言いました。「うん。行く気あるよ。絶対行きたいよ。」と。

彼女は言いました。
「そう?…いや実はね、又香港に行こうかという案があるんよ。それであんたを思い出したんよ。」
私は、しめた!と思いました。
忘れられない程、以前に充分言っておいた結果が出たのです。
私は、必ずこの日が来ると思っていました。

喜んだ私は、すぐさま、その頃、自宅の近くにあったサティーに走りました。
サムソナイトを買う為にです。

サティー甲南山手店(今は閉店)は、その時丁度「開店3周年記念セール」をしていて、全店商品
3割引きだったのです。
しかも、サティーは、その当時、「誕生月1割引きサービス」をしていて、私は11月生まれなので、
その案内の葉書が来ていて、それを持って行けば更に1割引きとなるのです。
私は、4割引で、綺麗な紫色のサムソナイトを購入して帰って来ました。

さっそく、Tさんに電話しました。
「サムソナイト買って来たよ。」と。
彼女は、びっくりして、「あんた~、早過ぎるわ~。まだ、行こうかという案があると言うただけよ。
5月にシンガポールに行く話もあって、まだどっちにするか、全然決まってへんのに。」と言いました。

それは、百も承知なのです。充分、聞いていました。
ですから、こうしてあわてて既成事実を作ろうとした訳です。
私も大した知能犯ですね。

それから、数日してTさんから電話が架かって来ました。
「あんたが、サムソナイトまで買うてしもて、もう行く気になってるんで、香港行き本決まりにせな
しゃ~ないな~言うことになって、『香港行き』決まったよ。」

私は、やった~!と、思いました。

「しかし、サムソナイトなんて、香港で買うもんよ。向こうは安いのにー。行くときはカンブクロに
入れて行って、皆、向こうで買うて帰って来るんよ。」

「そうだとしても、私は先に買ってしまう必要があったのである」とは、私も言いませんでした。

                            (その4へ続く)
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2010.02.16 阪神大震災の日、香港に居た私(その2)

(その2)
旅行嫌いの私ですが、どうしても香港にだけは、行きたかったのです。
それも、中国に返還される前の香港に、行きたかったのです。
香港は中国に返還されることが決まっていて、その頃もう返還の6年程前になっていました。

私は、終戦前に中国の上海で生まれました。
敗戦で、幼い頃、日本に引き上げて来ましたので、記憶はおぼろげですが、そのおぼろげな
記憶に繋がる物が、何か見つかるかもしれないと思い、その昔の何か(主に味覚の方面)を
求めて香港に行って見たかったのです。

私は、共産圏に入る前の香港を見たかったのです。
何故なら、その頃、中国を旅した人達から、「もう二度と中国には行かない。」「お金を貰った
としても、中国にだけはもう行きたくない。」とか「物を買う時も売る方がけんか腰よ。なんで、
こんな嫌な思いをしないといけないのと思った。」等、中国旅行の悪評を散々聞いていました。
そんなことから、中国に返還されたら、香港の街の雰囲気や風物が別物になるのではないかと
危惧を感じていました。
とにかく、もし昔の中国の面影が残っているとしたら、今の香港しかないのではと思いました。

昔の中国と言っても、私が幼い頃過ごしたところは、日本人だけが住む、いわゆる日本疎開で、
沢山の住宅が大きな壁で囲われた場所で、中国人社会から隔離されていましたし、その入り口
には、雇われて、中国人の門番がいました。

ある日、子供達で遊んで居た時、奥の方のぴったり閉じられていた、大きな裏門の向こうから、
賑やかなピーヒャラという笛の音や、大きなドラや太鼓の音が聞こえて来たので、おそるおそる
裏門の方へ近づき、下の隙間から覗くと、晴れやかな衣装を纏った一団が行進していました。
多分結婚式かお祭りだったと思います。中国人社会を垣間見た、数少ない経験の1つです。

小学校は、日本人小学校で、疎開の門の眞向かいにあり、その小学校の門には、いつも数人の
背の高いインド人の門兵が立っていました。

中国の街に出るのは、家族みんなで、父に中華料理を食べに連れて行ってもらう時や、母の買い
物に付いて行って、甘い物屋(それも日本人経営)に入る時ぐらいで(でも、何度か大きな中国
の市場で、沢山の鶏や野菜類を見た記憶はあります。)、淡い記憶しかありませんし、ましてや、
香港の様な喧噪の街とは無縁の生活でした。

でも、何故か中国は懐かしい。
特に、その時の極上の中華料理の味や、ほかほかの豚饅頭(1度だけ、道ばたでおじいさんが
蒸かしていた、あつあつのものを買って貰いました。最高でした。)の美味しさは、私の味覚の
思い出の原点になっていて、ぜひ、今のうちに香港を訪ねて、はるか昔の中国の面影を求めたい
と願っていたのです。
上海から遠く離れているけど、行ったこともない香港だけど、行って見たいと私は熱望しました。

                         (その3に続きます。)
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2010.02.14 阪神大震災の日、香港に居た私(その1)

(その1)
私は、あの阪神大震災の日に、日本にはおらず、香港に居たのです。

それは、不思議な不思議なお話です。

もともとのきっかけは、阪神大震災の4年前、私の兄夫婦が、香港に旅行することになり、
「何処へ行ったら良いか、確か詳しい人が居るって言ってたけど、その人に教えて貰って
呉れない?」と頼まれたことから始まりました。

私の親友Tさんは、彼女の職場の仲間達と、ハワイや、東南アジアなどへの旅行三昧で、
いつも、Tさんからそんな話を聞いていて、私は、兄達にも、その話を伝えていたのです。
Tさんの仲間の一人に大変な旅行通の女性が居て、その人を中心に旅行していました。
香港には、もう10回も行ったとのことでした。(バーゲンと、食べ歩きです。)
Tさんに、「その彼女に香港の素敵なお店を教えて貰って欲しい」と頼みました。

そして、その旅行通の女性、Hanaさんが手描きで作ってくれた小冊子の「香港案内」が、
何とも素晴らしいものだったのです。彼女は、希代の(?)食通でもあるのです。
私は驚嘆して、この小冊子そのものは兄に渡すことはせず、コピーをとって、コピーの方を
兄に渡し、原本は私が大切に保管しました。
同時に、自分が香港へ行くときは、絶対にこのHanaさんと一緒に行きたいと思いました。

私はTさんへ頼みました。
「次に、香港に行く時は、絶対に私も連れて行ってね。」と…。
すると、彼女は「もう,行かへんわ。香港には10回も行ったんよ。それ以上行かへんわ。」

「でも、もし、又行くことがあったら、連れて行ってね。Hanaさんに頼んでおいてね。」
「もう行くことないって。10回も行ったんよ。それ以上行くわけ無いやん。」

私は、ここでひるんだらいけないと思いました。
「うん。分かった。でも、もし行くことがあったら…よ。その時はお願いね。」
「もう、行かへんって!、10回以上も,何しに行くの?」

「うん、分かった。分かったけど、でも、もしもよ。もしも行くことがあったらお願いね。」
そんな、押し問答がまだ続きました。

私は、彼女にひつこく擦り込みをしようとしたのでした。汗;;
(このぐらい言っておけば、大丈夫だろうと思えるところ迄。)
私には、絶対に覚えて置いて欲しいと言う、強固な思いがありました。

                         (その2に続きます。)
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2010.02.12 スワロスキー達をご紹介します。

私の愛蔵品、豆粒の様なスワロスキー達をご紹介します。



(1)
ワインセットです。
ワイングラスとデキャンタのセットです。



(2)
ティーセットです。
ティーカップとティーポットです。



(3)
コショウ入れです。一番小さいです。
豆粒ぐらいの大きさです。



(4)
ベルです。
食事の合図用でしょうか?



(5)
香水拭きです。



(6)
ハンドバックです。



(7)
毛糸の玉と、編み棒です。



(8)
楽器です。
ヴァイオリンです。



(9)
ギターです。



(10)
昨年末に、これらを洗った時に、写真に撮ってみました。
大きさが分かる様に、左に携帯電話を置いております。
それと比べて、いかに、小さいかがお分かりでしょうか?


これらは、全部、私が香港から買って来た物なのです。
あの阪神大震災の日、私は香港に居ました。
何故,旅行嫌いの私が、選りにも選って、震災の日に香港に居たのか?
その不思議ないきさつは、また、いずれ書かせて頂きたいと思います。

その時に、自分の為に買って来たお土産が、このスワロスキー達です。
震災後、1年半避難先に居て、友人達の献身的な協力により復興を果た
して神戸に戻りました。
家具も大破したので、買い替えましたが、飾り棚は買えませんでした。
いつの日か、飾り棚を買って飾りたいと思いつつ、スワロスキー達は
10年間箱に入れたまま置いていました。

この家に転居し、飾り棚がやってきたので、スワロスキーの小物達は、
ようやく箱から出されたのです。
前回の書き込みの表題の「やっと日の目を見たスワロスキー」とは、
そういう意味だったのです。

しかし、ほんとに光り物は,写真に撮り難いものですね。
しかも、極小サイズですし…。
ちょっと、苦労しました。^^
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2010.02.10 やっと日の目を見たスワロスキー達

何度も自慢しておりますが、まだ、飾り棚の話題です。
まだまだ言い足りない私です。
もう少し、お付き合い下さいませ。



(1)
これが、飾り棚の一番上の段の、スワロスキーを中心とした可愛い飾り物です
が、これらを載せている鏡張りの大きなトレイは、この飾り棚を手に入れた後
に、輸入雑貨の店で偶然見つけて、思い切って購入しました。

このトレイも、この飾り棚に合わせた様に、まるでジャストサイズであること
が嬉しくて、ドキドキしました。
トレイの縁にもスワロスキーが輝いています。まるでルイ王朝風(?)です。

実は、年末に全体を洗った時に、トレイの写真も撮りましたが、うまく写って
いませんでした。
光り物は、写真が難しいですね。
トレイは、いつか、上手に撮れた時に、お目にかけたいと思います。



(2)
スワロスキー達にズームして、もっと分かりやすい写真を、もう1枚。

これらは、震災の時にどうだったのか?
その時既に、これらは我が家にあったのか、無かったのか?
もったいぶる様で、ごめんなさい。

でも,私自身にとって、震災のことで、不思議でならないことが沢山あります。
その中の一つに、このことが当たるかも知れません。
少なくとも、それに深く関係しているのは確かです。
それを、いずれお話したいと思います。

次回は、これらのスワロスキーのミニミニサイズの飾り物の写真を、一つずつ
お目に掛けたいと思います。



なお、この飾り棚については、「2010.02.04 飾り棚を手に入れたいきさつ」
書かせて頂いております。
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2010.02.08 梅干しを日本酒に漬ける。


(1)
Mさんから、聞きました。
Mさんのばあやさんは、梅干しを取り分けて、日本酒に漬けていたそうです。
そうすると、梅干しの塩分が抜けて、食べやすくなるのです。
そして、漬けていた日本酒を、お料理に使っていたそうです。

なるほど、良い考えだなと、私も真似をしました。
容器は、チタンの丸形弁当箱です。(他店のものです。)
確かに梅干しの塩分が抜けて、今迄半分しかたべられなかったものが、1個まるごと、
食べることも出来ます。
でも、それより、もっと、びっくりしたことがあります。



(2)
これは、梅干しを漬けていた後の日本酒です。(料理に使って残り少なくなりました。)
私は、これを、いろいろな料理に使ってみたのです。
そして、その美味しいことに、驚きました。



(3)
私の大好きな大根の皮と茎のきんぴらです。
元々、大根の皮のきんぴらが一番の好物の私でしたが、この梅干しを日本酒に漬けた
つけ汁を入れると、いつもどころではない美味しさだったのです。
(丁度その時、友人から電話が架かってきましたので、開口一番「美味しい~!」と
叫んでしまいました。我が家の梅干しは、毎年彼女のご主人のお手製です。)

すじ肉とこんにゃくを煮ました。
スジコンも、私の好物ですが、久しぶりに作りました。
ここへ、この梅干しを漬けていた日本酒を入れました。
すると、これがまた、美味しいのなんのって…。抜群でした。



(4)
翌日は、残り物のスジコンに豆腐を入れました。美味でした。
チタン鍋で焼いた塩鯖も、美味でした。



(5)
別の日、「こんにゃくのおかか炒め」に、この梅干しを漬けた日本酒を使いました。
こんにゃくの厚さを半分に切り、三角に切って油で炒め、醤油と酒で味付けして、
鷹の爪の輪切りを入れ、最後におかかを手で揉みほぐしながら入れてからめます。

その時の酒に、梅干しを漬けていた日本酒を入れたところ、すばらしく美味しく
なりました。

梅干しを漬けていた日本酒を料理に使うことで、料理の味がひと味もふた味も良く
なると思いました。
ご参考までに。



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2010.02.06 ご飯炊きと鯛の煮付け


(1)
長らくチタン鍋の話題を書いておりません。
時々、載せないとだめよと、友人達にいわれておりましたのに、他の話題ばかり
になっていましたので、久しぶりの登場です。

このご飯の出来上がりは、素晴らしいですね。
お米が立っているという表現がぴったりです。
この穴を、確か蟹の穴というのですか?
蟹の穴は美しいですね。
良い匂いが漂っています。



(2)
混ぜると、ピカピカです。
美味しそう!



(3)
この頃、天然の鯛が豊漁とかで、驚くほどの安さで売られていますね。
それで、買って来ました。
煮付けに挑戦です。
私は、子供の頃から魚の煮付けは苦手です。魚の煮た臭いが嫌でした。
でも、チタン鍋で煮付けをすると、その嫌な臭いが無くて、とても美味しいと
友人達が絶賛するので、私も挑戦することにしました。

確かに、チタン鍋を使うと、美味しいと思いました。
これから、少しずつ煮魚好きになれそうです。

奥の鉢物は、壬生菜の煮浸しです。
水菜はよく食べますが、壬生菜は初めてかも知れません。
壬生菜は柔らかく、とても美味しく、おひたしなどに向いていると思いました。
これから、もっと使うつもりです。

他は、手作りのちりめん山椒と、同じく手作りの、出汁を取った後の昆布で作
った塩昆布です。この両方が、ほっぺたが落ちるぐらい美味しいのです。




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2010.02.04 飾り棚を手に入れたいきさつ

(1)
私は、今から4年前、住み慣れた一軒家から、今のマンションに転居しました。
その時、身辺の色々なものを整理し、多くのものを処分しましたが、同時に、私が長年
掛け続けて来た「保険類」の見直しをしました。
目的は、急遽、家賃生活に入ることになった為、支出を極力押さえる必要があったから
でした。

すると、がん保険には2件も入っているし(もちろん分かっていました)、他の保険も、
重複したものがあったので、この際、いくつかを解約することにしました。

自分の健康に不具合が発生すれば、兄弟に迷惑を掛けることになるので、迷惑を掛けな
い生き方が鉄則だと考えていた私は(食事に大変気をつけているのも、一つにはそれが
大きいです)、万一の為に保険には充分入っていましたが(がん保険はもちろん、三大
疾病保険などなど)、慎重すぎて掛け過ぎていたのでした。
(実は、この時、嬉しい発見もありました。又、いつか書かせて頂くかと思います。)

長期間掛けていた保険でしたので、解約金は、有難いことに纏まった金額でした。
ラッキーでした。私は、ツイテいました。
これらの金額を、突然に決まった引越しの費用と、家具代に充てられたのです。

私は、新居に移る為に、いくつかの家具の購入を望んでいました。
と言いますのは、引越に際し徹底的に身の廻りの物を処分した私でしたが、それでも
マンションは、一軒家と違って収納場所が極端に少ないので、今持っている家具だけ
では足りず、新たに家具を追加しないと納まりきれないと見たのです。

終の住処と定めて移って行くからには、最適にしたいという思いが強くありました。

丁度その時、近所の家具屋さんで、カリモクの食器棚(元々本箱らしいのですが私は
食器棚として最適だと思い一目で気に入りました)が、半額奉仕していたので欲しく
て悩んでいたのです。
素晴らしい作りでしたので、半額になっても普通の家具より高目でしたが、解約金を
この家具代に当てることができました。
以前の食器棚も、本来は本箱だったものを気に入って、食器棚にしていましたので、
それは本来の本箱に戻そうと思いました。

解約金が、次々振り込まれてきましたので、同じくカリモクの事務机と、椅子も買い
ました。それまでの事務机は、パソコン2台(現在の様な小型で軽量のパソコンでは
ありません)とプリンターの重みで、真ん中がたわんで下がって来ていましたので、
買い替え時だったのです。

台所の水屋も、その店で購入しました。
このサイズのものは、どこにもなかったのです。
ここで購入した真っ白の水屋は、新居の台所の、戸棚を置くために作られた凹みに、
まるで誂えたかの様に、ぴったりとジャストサイズで納まり、色も完全にうまく合っ
ていたので、我が家に来る友人達は、最初から、ここに作り付けられていたものと思
っている様です。


(2)
一方、私は、近所の別の格安販売の家具屋にも、足繁く通っていました。
ここは、とても良い家具が、信じられない安さで売られている店なのです。
元々の安物の品も沢山あるので、注意しなければなりません。

私は、ここで、寝室に置く、低いタンスを買いました。
結婚家具仕様との説明の通り、桐の引き出しの作りが、見事でした。
私は、これを、格安で購入しました。

もう一つ、電話台兼用の戸棚を格安で買いました。これも、便利なものでした。



(3)
そんな時です。私がその格安販売の家具屋で、この「飾り棚」を見つけたのは…。
これは、1点物で、98000円のところ、39800円になっていたのです。
私は、これを一目見て気に入りました。
98000円でも、高くない商品だと思いました。
これを、どうしても欲しいと思いましたが、でも、何度も考えて悩んでいました。
なかなか、決心が付きませんでした。
特に今回は家具をいくつも買った後ですし、これ以上は贅沢と言うものかもしれない。
しかも、肝心の引越費用を残しておかなくてはらないのです。

(姉の浪費癖を心配した妹から、強い牽制が続いて、もうこれ以上勇気がなかったと
言うのが、一番大きかったかも知れません。(汗;;) ましてや、飾り棚ですもの。
贅沢品です。無くてはならないものではありません。こんな時堂々と買えますか?)

それからは、毎日、ドキドキしながら売り場に見に行っては、まだ売れていないこと
を確認する日々でした。
1点しかないので、売れてしまったら、泣かなければなりません。
結構、身体に悪かったかも知れません。


(4)
その頃,引越整理も目鼻がついて、後は引越しの日を待つばかりとなっていました。

そんな時のことです。
友人のFさんから、電話がありました。
私が、いよいよ引越し直前になったことを知った彼女は、明るい声で言いました。
「さ~、オーちゃん、何でも言って!」と…。
私が「え?」と言うと、「お祝いよ。お祝い。何が欲しい?何でも言って。」とのこと。

私は、「ありがとう。でも、いくらぐらいのものかしら?1万円ぐらい?」と聞くと、
「いえいえ、もっともっと!」「では、2万ぐらい?」「ん?もっと。その倍でも良いよ。」
とのことでした。

私は、この飾り棚を思い出しました。
そこで、どうしても欲しい飾り棚があり、39800円であることを言いますと、彼女は
「分かった。それが良いわ。それにしょう。」と言ってくれました。
翌日、郵便で現金封筒が到着し、そこに熨斗袋に入ったお祝い金が入っていました。

私は、それを持って、一目散に、この飾り棚を買いに行ったのです。
これが、この「飾り棚」が、我が家へやって来たいきさつです。




そして、この飾り棚が、まるで誂えたかの様に、私の望む寸法であったことは、既に
お話した通りです。(「2010.01.31 迎春用品を片付ける」)

こんな出会いは、めったにあるものではないと思います。
この飾り棚は、我が家に来るべくしてあったのかも知れないと思う程です。
これを手に入れる迄の素敵ないきさつを思い出して、Fさんに感謝の日々なのです。




すみません。最後の「飾り棚」のことを言う為に、余りにも「マエフリ」が長くなって。
でも、その「マエフリ」が無ければ、伝わらないと思ったものですから。
あ~、ブログも結構、汗をかくものですね。冷や汗と言うか、恥汗(?)と言うか…。

読んで下さった皆様に、深謝致します。



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2010.02.02 飾り棚の中

ごめんなさい。
今日の写真は、本人だけの好みで、他の方には何の面白みも無いかも知れません。汗;;
ま、言うなれば、自分の記録です。お許し下さい。



(1)
まず、一番上の段です。
楕円形のガラス張りの大きなプレートの上に、大切なものを並べております。
豆粒の様に小さなスワロスキーのティーセットや、ワインセットなど、ミニセット
好きな私らしいものが、沢山あります。
スワロスキーの輝きを保つ為に、一年に一度、年末に、これらを全部洗います。
(なお、これらの大半は、私が震災の前から持っていた物です。なのにそれが何故、
無事に無傷で今ここにあるのか?それは、又、いずれお話したいと思います。)



(2)
2段目には、ミニのおひな様達や、ミニの酒器やとっくりなどが並んでいます。
3段目には、切り子など、ガラス製品が多いです。



(3)
2.3.4段目の俯瞰です。



(4)
全体の中身です。
こうして見てみると、沢山ギューギューに並べ過ぎですね。センス悪いですね。
反省しました。



(5)
扉を閉めたところです。
迎春用品を片付けて、ほっとして、しみじみしています。

次回は、この飾り棚との運命の出会い(?)を、お話したいと思います。

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