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2019.07.31 I さん宅ご招待、<彼女の「滑り症」と私の「脊柱管狭窄症」そしてご招待のこと。>

(7月23日)

朝、Iさんから電話があり、今日の昼食か夕食、どちらかお食事いかが?と。
彼女は、元職場の同僚だったが、40年振りに再会した時は画家になっていた。
しかも、登山家で、超多忙なので、いつもお誘いは突然が多い。 

私は、今日は午前中は仕事をしたいので、午後の方にして貰う。
お宅は坂道の上なので、この暑さで大汗をかきたくないので、今回始めてタク
シーで行く。あっと言う間に着いた。な〜んだ近かったんだ。
 

これ、ビールに合うのよと、最初に、出て来たのがオレンジピール。
毎年、大量の夏みかんを買って来て、作るそうだ。
甘すぎず、 その美味しかったこと。美しさにも見とれた。
これを細かく切ったものを混ぜて焼くバウンドケーキが美味しいと、そんな
話になった。私も大好き。

 

優しい味のスープ。
彼女は、特上級の昆布を使っていて、最近では、洋風の料理も昆布でお出汁を
取ることが多いとのこと。
昆布好きなことが、2人の共通点。話が盛り上がる。
彼女は、大きな極上品の真昆布の包みから何枚かの昆布を抜き出して包んで、
お土産に呉れた。 

 

小鯵と野菜のマリネー。
マリネーの美味しいこと。 私はマリネーが大好き。

 

トマトとベーコンとチーズと野菜類をオーブンで焼いたもの。
 

優しい味で美味しかったこと。お替わりをした。
ベーコンを、大きな丸のまま買うとのことなので、そのベーコンからして違う
のだろうと思った。
左上の小皿は、新生姜の佃煮。忙しいのに、こまめに作るんだな〜と感心した。 

あと、コーヒー大好きの彼女の美味しいコーヒーと、お持たせのプリンで、
ひとときおしゃべりした。
 



<彼女の「滑り症」と私の「脊柱管狭窄症」、そしてご招待のこと。>

彼女は、翌朝の始発で登山に出発するので、食事の時間も2時間程度しかないこと
は知っていたので、早目に失礼しなければならない。

彼女は、登山仲間と、毎月1回1週間の縦走をしている。
70代後半でも、若い頃からの山仲間が健在と言うのは、素晴しいことだと思う。
彼女は近年滑り症になり(背が6センチ縮んだ)、唯一女性の彼女は急な山は登らず、
男性3人が降りて来るのを、麓の温泉に浸かって待っているのだと言う。
痛みもある。それでも行きたいのだから、余程山が好きなのだと思う。
それにしても、私などは旅慣れないこともあり、旅行前の慌ただしい時に人を食事に
招待するなど考えられない。気持ち的に手一杯だと思う。彼女には感心する。
彼女は、会いたいと思ったら、すぐ実行するのだとか。
今日会いたい人は、本当に会いたい人。明日でもいい人は、どうでもいい人だとか。
 

私が3月に「脊柱管狭窄症」に罹ったことは彼女には言っていたが、「それが6月に
治ったのよ。」と言ったら、彼女はびっくりして「 『脊柱管狭窄症』は治る訳ない。
あれは、絶対に治らないのよ。」と言った。
「だって、治ったんだもん。もう、何所も痛くなくて全く以前のままよ。」と私が
言ったものだから、彼女の驚くこと驚くこと。 
毎朝のストレッチのことを言うと、教えて欲しいとのことだった。
この日は、そんな時間はなかったので帰って来た。
 

彼女には、いつもご招待ばかり頂いて、こちらは自宅へ食事に御呼びしないので、それを
謝ると 「いいのよ。あなたは今迄に充分人を招待して来たから …。」 と言ってくれた。
え〜?感動!
私は、阪神大震災の一年半後、避難先から神戸に帰ることが出来たお礼に、せめてと思って、
無我夢中で私に出来る粗食の接待を10年以上続けたのは確かだけど、自己満足だったかも
知れない。
コンピューターで新しい道を模索した苦難の時期と重なったので、事実限界を超えていた。
しかも何よりも、手足の激痛の中での行動だったので、今から思えば、想像を絶していた。
手はストレスからだと思う。激痛で肩より上へ上がらず着替えにも難儀した。右手が特に酷かった。
でも何故か包丁が使えて、布巾が絞れた。この2つだけが出来た。こんなことってあるのか?
驚喜した。この2つができたら料理が出来る。神様が残して下さった。有り難うございます。
私はツイテイルと感謝が込み上げた。忘れられない出来事であった。足の痛い私は、買い出し
だけで足が激痛となるが、洗い場に寄りかかりながら、それでも毎年おせち招待をし、普段は
粗末でも心のこもった料理を作り、皆さんに食べて貰うことが出来た。今も思い出となっている。

もう、足も手も治ったが、今では体力的に出来なくなった。
でも、そんな風に思ってくれていたの? 有難い言葉だった。 

それにしても、何故そんなことを彼女は知っているのか?
彼女と再会したのは、その後、今の住所に転居してからだったのに。 

 


 

※ あ、今思い出した。
お互いに20代の頃、私は彼女を我が家にご招待したことがあったのだ。
そうか、 そのことを彼女は言っているのだ。忘れていた。
あ〜、嬉しい。^^

そのことは、いつかここへ書いておきたいと思う。とても楽しい話なので。

 

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2019.07.28 親友のばらさんの命日(満三年目)

(7月21日)

7月21日は、元職場の友人で50年来の付き合いだったのばらさんが亡くなって、
三年目の命日だった。(四回忌とは言わない。もうお祝いなのだとか。) 

50年前、のばらさんとさくらさんと私の三人は、元職場の窓口で並んで座っていた。
この三人が仲良くなり、毎日毎日、仕事が終わってから甘いものなど食べに行き、
おしゃべりして必ず一緒に帰った。2人は、私よりも8才年下と、9才年下だった。
喫茶店で充分しゃべっているはずなのに、又、別れ際に改札でおしゃべりが続いて
なかなか別れない。 これには、笑ってしまうこともあった。
のばらさんは超おとなしく、さくらさんも口が重い方。私は、おしゃべりの方。
でも、この時だけは3人共良くしゃべった。いや、しゃべらなくても良い関係だった
かも知れない。

その内に、のばらさんも、さくらさんも結婚して、ご主人が東京転勤となり東京へ。
しばらくして、さくらさんが帰阪して2人で会っていたが、その内に駅が隣同士の
2人がJRの階段で電撃的に再会したと、さくらさんから大騒ぎで連絡があった。 
その後、又三人での付き合いが始まった。

のばらさんは、以前の通り格別に優しい人で、人のお世話と車の運転が大好きだった
ので、私達は、彼女の運転で色んなところへ行き、本当に幸せな日々を過ごした。
西宮のおそば屋さんで、当時の職場の先輩男性に会った時(名乗ってくれたので分かった)、
「あんた達、まだ付き合ってるの?」と驚愕していた。 

それからしばらくして阪神大震災で我が家が全壊し、自宅復興に多くの友人達にどれだけ
お世話になったことか。
おとなしいのばらさんは、目立たないところで真剣に「副司令官の役目」をしてくれた。
1年半の避難生活中に、私はもし生きて神戸に戻れたら(無理かも知れないと思っていた)、
その頃めきめきと姿をもたげて来たパソコンにて、第二の人生を得て、多くの方にご恩返し
をしようと一大決心をして、一年半後ようやく神戸に戻った後、マッキントッシュを手に入れ、
始めて握るマウスに突き動かされ、定年1年前に退職し、新しい道を模索する生活に突入した。


始めの10年間はコンピューターグラフィックへの道を模索した。偶然作品展開催にも至った。
この間、この一番大人しい彼女が、どんなに徹底的に励まし続けてくれたことか?
彼女はボランティアで介護の仕事をしていて、帰宅は毎夜11時15分だったが、それから電話
で話そうと言ってくれて、嫌がることは只の一度も無かった。
そんな多忙の中、私のことを全面的にバックアップしてくれた。
遅い帰宅に、私が「喜んでおられるでしょう?」と言うと、「え?誰が?」と言う。
「相手の方がよ。」 と言うと、「え〜?喜んでいるのは私よ。」とサラリと言う。
(この話を、一回忌の時に披露させて貰ったら、優しい3人の娘さんが感激していた。)

その後、車椅子の人をワゴン車で、病院や美容院に連れて行く仕事をしていた。
細い細い身体で、力自慢だった。
その間に、ガラケイで私のホームページ、掲示板、ネットショップ、ブログすべてを毎日、つぶさ
に見てくれた。まるで、自分の仕事の様に。
詳しいことは解らないと言うけれど、しかし彼女の「良いやんか!」がどれだけ力になったことか?
それで、「ストン」と憑き物が落ちて、納得して、先へどんどん進めた。
朝の遅い私に、朝11時過ぎ「おはよう。オーチャン、起きてる?」ときれいな声で電話をくれた。
一日中座り過ぎで、脚が駄目になった時、彼女は仕事の無い日は連日車でやって来て私の脚に
なってくれた。
神戸から今の家に転居する時は、引越迄の2ケ月間毎日車で来てくれて、手伝ってくれた。 

手探りの苦しい時期から、励まし続けてくれて、何かを成し遂げる度に、心から誉めてくれた。
彼女程の誉め上手を、私は知らない。
まるで歩き始めた幼子が、「あんよは上手!」と優しく手を打って誘導されて、キャッキャッと笑い
ながらよちよちと大地を一歩ずつ歩き出す様子、まさにあの風景を思い胸がキュンとしたものだった。 
さすがに孫が6人も居る人だと思った(その後8人となった。) 
こう言う人と巡り会える人は、世の中に何人居るだろうか?
私はツイテイル! 毎日毎日そう思っていた。
(本当は、これの百倍書いても足りない程の出来事があるが、際限がないので筆を擱きたい。) 

大切な人を失うと3年間は辛いと聞いたことがある。しかし、悲しみと喪失感は募るばかり。
今では、「彼女は人間ではなかったんだ、やっぱり観音様だったんだ」と思っている。

ご主人と三人のお嬢さん達に、私達の生きている限り、お邪魔でも今後共命日の墓参に参加
させて頂けないかとお聞きすると、快く応諾してもらえた。私とさくらさんは、ホッとした。 
 

 

「樹木葬」の墓前で。

 



懐かしい思い出話をしながら、お食事を頂く。
娘さん達、お孫さん達、皆さん優しく穏やかで、さすがのばらさんの
ご家族だなとつくづく思った。 



<彼女を失った「魔の半年間」の出来事>
3年前彼女が入院した後、私は6/28に道のブロックに足を引っかけて転倒し、眼鏡が割れて
ガラスの破片が3本頬に突き刺さり、救急車で運ばれて縫って貰う事故があった。
(こんな時、何はともあれ連絡する筈ののばらさんが、真っ先に駆け付けて横にいてくれる
筈ののばらさんさんが居なかった。彼女は胆石の除去手術で入院していた。その後別の重篤な
病気が発見された。)
続いて11/3に夜道の電線に躓いて転倒して眼鏡を割り、翌年1/5に駅のホームで人が正面
衝突して来て眼鏡を割り、私は6ケ月の間に3回事故に会った。
そして、その半年間に、のばらさんを始め、特別に親しい友人を3人失った。

この話をすると、「一体、そんなことってあるの?」と人は驚愕する。
しかし、事実そういうことがあった。 3年前のことだった。 魔の半年間だった。
いつか、書いておきたいと思いつつ、まだ書けないでいる。 

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2019.07.25 7月の麻雀会、この日の朝珍しい人に会う。

(7月12日のこと)

7月の麻雀会は、7月7日生まれで、ご自宅の名を「かささぎ荘」と名付けている
友人宅で。
七夕の日に、一年に一度だけカササギの渡せる橋を渡って織り姫と牽牛が 会うと言う。
7月が彼女のお宅の順番になって良かった。小学校同級生の仲間。

 

手作りの紫蘇ジュース。とても美味しかった。
いつも、美味しい何かを作ってくれている。

 

お弁当タイム。
かささぎさんが、美味しいおつゆを作ってくれた。
私のお弁当は、ご飯を詰め過ぎていて(1合の6分目程入れた)食べられなかった。
可愛いお弁当箱を買わないといけない。タッパーに詰めると、いくらなんでも多すぎる。 

 

始めは、私が大きく勝っていたが、その内に初心者のNさんが勝ち続け、次にはEさんが
大勝して行き、私はどんどん点棒が減り続け、今回はダメかなと思っていた。 

最後に近くなり、私が親になったので、ここで盛り返さないとチャンスは無いと思って
がんばると、当たるわ、当たるわ!
たとえ1000点ずつでも連勝して取り返そうと思っていたが、何の、何の、満貫、ハネ満、
倍満と連勝して行き、結局1位となった。
今回は一人勝ちではなかったが、ダントツの1位となった。最後にリキを入れて良かった。^^

 

帰宅時のJR舞子駅から、淡路島をみたところ。
「雨が降る日は淡路島が近くに見えるのよ。」 とEさんが教えてくれた。
それにしても、私達が子供の頃の景色と、舞子は大きく変貌した。 
もちろん、舞子大橋が出来るとは、思いもしていなかった。 

 

<帰宅して夕食>

作り置いた、夕飯用のお弁当を食べながら、ビールで乾杯。
楽しい1日だった。 

 


<この日、朝行きがけに、駅のホームで珍しい人に会った。>

駅のホームに登ると、何だか知った様な人が居る。多分人違いだろうと思っていると
向こうも、同じく目をそらさないどころか、身体全体をこちらへ向ける。
近付いて分かった。 摩耶さんの小学校からの親友のHさんだった。
(もう一人、摩耶さんの元職場の友人と摩耶さんと私の四人は、年に数回会っている。
命名上手な(?)私が「わさび会」と名付けた。 )

Hさんは、長年お兄さんの介護を続けていたが、しばらく前にお兄さんが亡くなった。
そのお兄さんの娘さん(=彼女の姪御さん)が素晴しく良く出来た人で、西宮から住吉迄、
欠かさず食事を届けてくれた。月水金など決められた日には、たとえ雨が降ろうと嵐が
来ようと関係なく自転車でカッパと長靴で。今日は良いからといくら言っても必ず。
                             
その素晴しい姪御さんが、以前におばあさんの為に建てていた家が空いているので、
そこへ住まないか?と、言って来てくれたそうだ。
そこが、この駅から北へ10分。と言うことは、我が家から10分のところだったので、
きっと、すぐ私とひょっこり会うだろうと思っていた由。 今朝が、そのひょっこりだった。
摩耶さんに連絡すると既に知っていて、近く、四人で彼女の転居祝いをすることになった。

麻雀会で、今日は珍しいことがあったのよ〜と言うと、どういうことかと聞くので、これを
言うと「あなたはネ〜!そうしてどんどんお友達が増えるのよね。私なんか、少ない上に、
どんどん消えて行くわー。」と言っていた。 

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2019.07.25 麻雀会の前日、そしてヒラメの骨の唐揚げに満足。

(7月11日のこと)(遅れ遅れになっています。)
 

翌日(7/12)は、麻雀会の日なので、お弁当の準備をする。
 

チタン鍋で、ご飯を炊く。
チタン鍋で炊いたご飯は、翌日でも固くならないので、前日に準備出来て助かる。

 

チタン鍋は、薄焼き卵が得意。
(但し、厚焼きや、かき玉は、慣れた鍋でないと難しい。)

 

<三色弁当完成>

麻雀会に持って行く分と、帰宅後、自宅で食べる分の2つを作っておく。
そうすると、帰宅後作らなくていいので楽だし、楽しみが待っていることになる。 
グッドアイデア!

 

<魚屋で、ヒラメの骨の唐揚げが売っていたので夕食にする。> 

(夕食)

刺身(ヒラマサ)、ヒラメの骨の唐揚げ(ねぎ、生姜、二杯酢)、
ゆば豆腐、はりはり漬け(自家製)、ご飯、 ビール(100円の小缶)

「ヒラメの骨の唐揚げ」を見つけた時の、私の喜び様。
第一、私はこういうものが好きだし、たった100円だという。
しかも、美味しかった! 
粗食研究家としては、最高の出会いだった。 

 

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2019.07.23 ビーズのネックレスのことで急遽会う、そして可愛いツバメの赤ちゃん。

(7月3日)

スワロスキーのネックレスの長さ確認のことで、一度会える?と
Bちゃんから連絡があり、それならもう一人にも声をかけて、又々
ミツバチ会で、急遽梅田で会う。 

 

少し上等なお寿司屋さんの前を通った時、普段は高い店は敬遠するけれど、
一度ここのランチにしてみる?ということになった。

ランチなので、安い代わりににぎりの個数も少ないし、大きさも小さい気がする
が、やはり高級店、とても美味しかった。 やっぱり美味しいねと皆納得。
でも、正直お腹一杯にならなかった。
その分、次の喫茶店でホットケーキを1個注文して、3分割して食べた。汗;;

 

     

それから、喫茶店に入って、ビーズを広げ、アーでもないコーでもないが始まった。
(もちろん、店員さんの了解を得て、沢山空き席がある時のみ。お客の入り具合を
見ていて、お店に迷惑を掛けない様に気をつける。)

私は、若い頃から蒐集していた天然石のネックレスを幾つも持参して、見て貰った。
それらに上手にスワロスキーを加えて、如何に今に生かすかを相談した。
2人ともセンスが良いので、相談のし甲斐がある。

写真を撮り忘れたな〜と思っていると、帰宅後、上の写真が送られて来た。
私が糸替えを頼んでいるネックレスの出来上がりと、愛犬ビスの写真。可愛い!^^

 

     

そして、これは彼女が数日前、比叡山への旅行の時に出会った可愛い5羽の
ツバメの赤ちゃん。かっわいい〜!^^
通りすがりの普通の民家でのことらしい。
これは、ベストショット! グッドジョブ! 素晴しいな!(^0^)

 

 

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2019.07.21 「いきいき体操」開始。

(7月3日)=第1回目

私達のマンションには、親睦会の様なものが無いので、集まる会を作っては
どうかということになり、西宮市のいきいき体操が導入されることになった。

 

65才以上の人を対象に、西宮市の健康作り支援センターの職員を始め、
理学療法士、看護士などの方々が、最初の数回は指導に来てくれる。
大変親切に教えてもらって、楽しい第1回目となった。
 

マンションの集会所(4階部分)の横に美しい庭園があって、癒される。

 

(7月10日)=第2回目

2回目が終わってから、少しお話ししましょうと言うことになり、
自己紹介的な時間となった。
エレベーターで会ったことはあるけれど、お名前などは知らない方、
顔を合わせたことも無い方、いろいろだったから、これは良かった。

一人の女性が言われた。「私は今年の初詣で「大吉」を引いたのよ。
こんなことは始めて。すると、やっぱりいろいろと良いことが
あったのよ。この会もそうでしょ?」と…。 え〜?何と可愛い!
この集まりが「大吉」の証し?

私は、1ケ月に1度の開催かと思っていて、まあそのくらいだったら
参加してもいいかなと思っていたので、毎週と聞いて困惑していた。
そんな暇は無いんだけどなと。 

でも、「こんな可愛いことを言う方が居るんだ。私もひねくれたこと
を言わずに、今後、喜ん参加させて頂こう。」と思った。
それに、 体操だったら1ケ月に1度では足りないだろう。1週間に
1回は当然必要だと思う、とてもありがたいことだようやく気が付いた。 

 

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2019.07.19 元アナウンサーの辛坊治郎さんの講演を聞きに、そしてピザを食べに行く。

(7月6日)

いつも、なにかとお世話になっていて、4〜5年前には私の服の「断捨離」を手伝って
下さったMさんから電話があり、講演を聞きに行きませんかと誘われた。
彼女の隣家の方が、元アナウンサーで人気キャスターの辛坊治郎さんの講演の抽選が
当たったけれど、急に行けなくなったので、よかったらどうぞとのことだった由。
2枚あるので、私を誘って下さった。
有難く行かせて頂くことにしたが、その帰りに、阪神西宮駅のフードコートのピザを
食べて頂きたく、お誘いした。 

辛坊さんは、さすがにお話が素晴しく上手だった。
以前のボートでの世界一周の遭難事故のことにも、触れられた。
全盲だったその時の同行者ヒロさんが、あの事故の後、再び世界一周を計画されて
今度は辛坊さんは行けなかったけれども、別の方と組んで計画成功されたと聞いて、
驚いた。
この方が自信を失ってしまい、後の人生を虚しく過ごされているのではないかと、
ずっと気になっていた。
でも、もう一度世界一周を目指されるとは、思いもしていなかった。
凄い方がいるものだと感動した。

 

講演後、駅のフードコートのピザを食べに行く。
これは、マルゲリータ。水牛のチーズを使ったマルゲリータが一番好き。

 

 

次に、クワトロ・フォルマッジ(4種のチーズのピザ)。
この2つの美味しいこと。 

 

食後にカフェラテ、とティラミス。
ティラミスの美味しいこと。

Mさんも、美味しいと大変喜ばれた。 
私は日頃お世話になり続けているので、少しでもお礼がしたかったけれど、私に全部は
出させて下さらなかった。 

 

(別れて、帰宅後のテレビです。明日は七夕とて、貴船神社の境内が短冊で映えています。)
 

この日は、七夕の前日だったので、Mさんに、今年は布のタペストリー(織物でなく染色
だけど)を飾った話をすると、「それはいいですね。それに、手書きの短冊を飾ると良い
ですよ。」と言われた話、そして、翌日その様にしたら、何と大成功だった話、は既に
ここに書きました。 ^^

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2019.07.18 ミツバチ会でおしゃれな串揚げ

 (7月2日)

ヤーちゃんが、有名ホテルの串揚げの半額提供(?)を見付けて来た。
彼女は、格安のものをうまく見付けるので、驚くばかり。
しかも、高級ホテルでおしゃれだし、信じられない。

 

    

サービスドリンクは、3人共梅酒の炭酸割りにした。
これが美味しかった。
 

真ん中のバゲットの薄切りの上に、揚げた串が1本ずつ乗せられて行く。
なるほど、アイデアである。串の数は、8本だった。 

 

最後のお茶漬けは、「もし良かったら+400円で、和牛に変更出来ます」と。
変更してもらった。すると、その美味しかったこと!感動だった。
紙の様に薄い牛肉1枚なのに、こんなに美味しいとは? びっくりした!
 
 

場所を変えて、喫茶店へ。
喫茶店行きでは、いつも揉める。

ヤーちゃんは、いつも家で美味しいコーヒーを飲んでいるので、他所では
高いコーヒー代はもったいない、フードコートの様なところで充分と言う。
Bチャンは、 静かな品の良い喫茶店で、格別美味しいコーヒーが飲みたい。
私は、昔あれほど喫茶店でコーヒーを飲む人だったのに、家でエスプレッソ
を飲む様になってからは、喫茶店へ行かなくなった。
買い物に出掛けても、まっすぐ帰る様になった。

ところが、3人で会った時は、ゆっくり出来るところで美味しいコーヒーを
飲む方に賛成。 だから、1:2で喫茶店の勝ち。
甘いものも1つ取って、皆で食べる。これで長時間居る。

スワロスキーのビーズネックレスのことで、相談出来て良かった。
Bチャンは、こういう手仕事が得意中の得意で、なんでもやってくれる。
有難い人である。 
 

 

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2019.07.16 <追記>脊柱管狭窄症が治った理由と思われるものが、もう1つあった。

今年の3月に多忙で無理をして、始めて発症した「脊柱管狭窄症」が、3ヵ月後に
完治したことを、昨日のブログに載せたところだが、その後、治った理由はもう1つ
あるのではないか?と気が付いたので、ここへ<追記>したい。 

それは、「脊柱管狭窄症」が発症した当初は腰や脚が痛くて、毎朝やっていた自己流の
ストレッチ体操を止めた。痛くて、やれる筈が無いと1ケ月程止めていた。
(痛いんだモン! やれないだモン! しかたないんだモン! そう思って、やらな
くても良い理由が出来たので、内心ほくほく喜んでいた。楽だな〜!)
しかし、折角習慣になっている体操を止めたらいけないのではないか? 痛くてもやる
べきではないかと思い始め、発症後1ケ月目に自己流ストレッチを再開することにした。

元々私の体操は、以前膝を傷めて歩けず外出出来なかった時に、ベッドの上で朝昼晩と
3回やっていた。その頃は、10分程度の体操だったと思う。
立ってする体操は体重が掛かるので膝が痛くて無理なので、ベッドの上での体操だった。

その後、整形外科で習った体操やテレビ番組で勧める体操など、自分に必要と思うものが、
次々に増えて行き、今では30分近く掛かる体操となってしまった。
今は膝が治ったので、外出出来るので、体操は朝1回だけしている。
体操をやり出してから、既に10数年以上経っている。 
これほど続けているのは大したものだと、スポーツの専門家の女性に言われたことがある。

そう言う訳で、この自己流体操を背柱管狭窄症発症後1ケ月目に再開した。
まだ、腰や脚が痛い状態だったけれど、再開しなければ、もっと衰えると思ったので
再開した。

その後、少しずつ痛みが減り、でもまだ違和感が残る日が続いていたが、体操開始後2ケ月、
発症後3ヶ月目、ある日ふと気が付けば、発症前と同じく全く痛まない状態になっていた。

せっかく続けていた体操を、あのまま痛いからと止めていたら、もし完治したとしてもずっと
後になっていたのではないだろうか?
そう思えてならないので、ここへそのことを<追記>したい。

(※ 廻りの人達は、皆さんいずれも、「脊柱狭窄症って治るものなの?」 と驚かれる。
私の脚が治った時も、「脚って治るものなの?」 とお化けを見る様な目で驚かれたことを思い
出す。脚を治した時は、体操だけでなく、根気の要る歩き練習が必要だった。数年を要した。) 

 

                

7/1朝、  整形外科へ行く前に、万両の赤い実を取り除いた。
本来なら(山の中にあれば)、冬の間に小鳥の餌になっていたであろうこの真っ赤な実は、
それを食べた小鳥が糞として排出し、種をまき散らしてくれるので、新たな命へと繋がる
ものなのに、高層マンションのベランダで 、しかも鳩除けネットの中にガードされて、
役目を果たせない。

実がまだ美しいので、ついこのまま置いていたが、上に可憐な花が咲くにおよんで、心配に
なってきて、ようやくこの日、赤い実を鋏で切り落とした。ありがとうと言いながら。
遅すぎたかな? どうか、新しい可憐な花達に栄養が行き届きます様に。 

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2019.07.15 足の裏が激痛で整形外科へ、でも異常なし。脊柱管狭窄症が治ったことを先生に報告する。

(6月30日)
右足裏の指の根元(肉球のところ)が、激痛となった。
数年前に、一日中歩いた後で痛くなったことがある。
歩く時地面に指が付いていない足指を「浮き指」と言うらしいが、 私の右足は
その傾向があると言われたことがあるので、多分その為だろうと思っていた。
最近痛みが時々出る様になったので、足指の体操などして、治す努力をしていた。
しかし、それなのに、今回は1日歩いた訳ではなく、出先へ行くだけで痛くなった
ので、急速に悪化した訳でショックが大きい。
20才年下の友人のヤーちゃんが、土踏まずに軟骨が2つ出て来て、いずれ歩けなく
なるので歩けるうちに遊ぶのだと言っていて、それを心配していた私の方が大変な
ことになってしまった。
 

(7月1日)
もう、この痛みには耐えられない。あわてて整形外科に行った。
しかし、レントゲンを撮って貰うと、全く何の異常もないとのことだった。
余りの痛さに、大変な病名を言われるものと観念していたので、逆に驚く。
先生は、「靴屋さんで靴の中敷きを工夫してくれますよ。」
「もし、改善されなかったら、専門の業者を紹介しますから、又来て下さい。」
とのことだった。
助かった。信じられない痛さで、歩くのも辛かったから。
履き慣れていない巾の狭い靴を履いたのが、いけなかったと思う。

 




足のレントゲンの時、骨密度も測りますかと聞かれたのでお願いした。
骨密度は、3月に脊柱管狭窄症になって撮って貰った時と変わらなかった。
腰は、同年輩の130%、大腿骨は、長年膝を悪くしてあまり動けなかったので
少し低く、それでも同年輩の107%あり、自慢して良い値だと言われた。

 



足のレントゲンと骨密度のレントゲンと両方撮ってもらったことが気になり、
お聞きすると、このぐらいの放射線は大丈夫、特に大人は大丈夫とのこと。
でも「念の為、海藻を摂っておいた方がいいですか?」と聞くと、それは良い
ことですねとのことだった。
それで、夕食に生若布たっぷりのおつゆを作った。

 

<脊柱管狭窄症が治ったことを、先生に報告する。>

脊柱管狭窄症が、すっかり治ったことを先生と看護婦さんにご報告する。
「そうですか。」と軽く言われたが、おそらく驚いておられるのではないかと思う。
私も、3カ月で治るとは思っていなかった。(3月に発症して、6月に完治。)

 

帰りに、バスの終点迄乗り、駅のフードコートのピザ、マルゲリータを食べに行く。
食後にエスプレッソとティラミスも食べる。ティラミスの美味しかったこと!
仲良くなった女性従業員に、私とイタリアンとの長い歴史(?)を物語る。 ^^;;
ほとんどの人が、イタリアンって何?、ピザって何? の時代から、私は知っている。v^^v

 

他にも用事があったので、Bチャンに電話する。
「足が大変なことになって、半分泣きながら整形外科に行ったら、全く異常なし、
靴の問題だったこと。 そして、脊柱管狭窄症が、3カ月で完治したこと。」を言うと
Bちゃんが、「え〜? 何でそんなことがあるの?特別な身体なの?」 と驚く!驚く!

私は、親が年寄りだったので、子供の頃から真剣に家事手伝いをしていて、力仕事には
自信があり、20才頃には、駅迄10分の距離を50キロの大人を背負って歩けると思って
いて、一度、それを試してみたいものだと思っていた。(イヤハヤ変わってる!)
それが、スポーツとは無縁だった私の骨組みを作ってくれたのではないかなと思っている。
〜と、そ〜んなことを伝えたのだった。 ^^;;

 

 

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2019.07.13 開店12周年となりました。


     

お陰さまで、当チタンオンラインショップは、7月11日をもちまして、

開店12周年を迎えることが出来ました。

皆様のご愛顧に心より御礼申し上げます。

 

          

          チタンオンラインショップ

           (HORIE商品専門店)

             ※  1400点のチタン商品を取り揃えて、お待ちしております。
 



私は、Facebookの個人用サイトと、「Facebookページ」というビジネス用サイトを

持っておりますが、その「Facebookページ」に、上記のご挨拶を入れようと思いましたが、

仕様が替わっていて、今まで通りには投稿出来ません。

何か、沢山設定の入力をしなければならない様なので、そうしましたが使えません。

私の理解力が不足しているらしく先へ進めない。

何とか変更に追い着いて行かねばと思っています。

 

(※ 本日7/19、ようやく投稿出来ました。失礼致しました。)

 

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2019.07.09 「七夕様」用のファイルボックス

 

 

七夕のタペストリーにに手書きの短冊を追加したことを、私は友人達に自慢すること!自慢すること!
すると、彼女達に「どうして、こんな短冊を持っていたの?」と、聞かれた。

それで、「昔から七夕様用のファイルボックスがあるのよ。そこに短冊があるから」、と説明。
(この箱、もう要らないと思って捨てないで良かった。ホッ! )

あ、そうだ!
「だったら、ブログにその写真を載せて置こう」ということで、ゴミ箱に捨てていた写真を取り出してUP。
いやはや、忙しいこと。なかなか先へ進めない。

どうでも良いことで、騒ぎ過ぎ?! 
やらねばならないこと(ショップの更新、修正、手紙の返事)がどんどん遅れているではないか?
反省つつ。

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2019.07.07 七夕笹飾りのタペストリーに、手書きの短冊を留める。

今日は、七夕の日なので、7月7日が誕生日の小学校以来の親友にメッセージ
を送った。今月は、彼女の家で麻雀の予定なので、もうすぐ会うけれど。
「お誕生日おめでとうございます。ところで今日は「乾しいたけの日」であり、
「そうめんの日」でもあるみたいよ。」と。(これは、今日知った。)

昨日、近所のMさんに、ある有名人の講演に誘って貰った。
今朝、そのお礼の電話をした時、七夕の笹飾りを、今年から布のタペストリー
(タペストリーは本当は織物のことだけど、これは染色)にしたことを伝えると、
「それは良いですね。 その笹の絵に、自分で幾つか短冊を書いて、ピンで留める
と良いですよ。」とアイデアを貰った。
彼女は、いつもアイデアがすごい。

 

 (使用前)

 (使用後)

素直な私は、折角だから一度やってみようかと思って、短冊を書いて止めてみた。
ごちゃごちゃして、何も付けない方が良いかもしれないと思ったが、まあ、自分で
何もしないより、この方が気持ちが表れているかも知れない。天の父母は喜ぶかも
知れないと、思うことにした。 

ちょっと恥ずかしいけれど、まあいいか?
いつまでも、幼稚な性格は変わらない。(汗;;) 

①お星様
②お父様お母様
③おまもり下さい。 
④お金持ちになれます様に! 

短冊は、この4つにした。特に④が恥ずかしい。
今迄は、恥ずかしい短冊は目立たない様に、笹の葉の中に結んでいた。
しかし、今回はそうはいかない。
それで、光って字が目立たないだろうと思い、わざわざ金色の短冊に書いて見た。
但し、この④だけは、今迄にお聞き入れ頂いたためしがない。 
でも、お金持ちでなくても、安泰に生かせて頂いているのに、私は本当に厚かましい。
願わくば!です。お星様!^^

でも、よく見ると、手書き短冊を追加した笹飾りは、なんと素晴しいのではないか?
明るい気持ちになる。これは大ヒットだと思った。 予想外だった。

 

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2019.07.06 最近、居酒屋で美味しかったもの。

1カ月に、一度か二度、居酒屋へ行く。
大抵食欲が無い時に行く。 

 

この日は、ビールを飲んだ。大抵は、冷酒(甘口)を小さなグラスで飲む。
この居酒屋では、最近「突き出し」が出る様になった。
…と言うことは、その分、少しお勘定が増えるはずで、実質値上げじゃないの?
と思っていたが、ちょっとしゃれた食材の組み合わせだったりして、意外に参考
になる時がある。 

 

この日の「突き出し」は、いくらと海ほうずきと豆腐の和え物。
これは、家で買い揃える食材ではないので、ここだけの楽しみに。
今年は、いくらが豊漁だとか。
 

これは、別の日で6月のこと。
「ずいきといくらのジェリー掛け」 
これが、とっても美味しかった。 
ジェリー掛けは、優しい味だった。私も挑戦してみたいと思う。


ずいきは、大好きだったが、最近料理していない。
以前は、八百屋の奥さんが茹でて皮を剥いたずいきを、綺麗な水に
漬けて売っていた。そうして買うものだと思っていた。
最近、百貨店でずいきを見たが、大きな太くて長い軸のまま、しかも
何本か束ねて売っていて、それを自分で茹でて皮を剝くと一体何人分
になるだろうという量だったりする。
昔の八百屋さんは、本当に親切だった。
料理の仕方迄教えてくれたものだった。
私は、八百屋の奥さんと仲良しだった。 

その八百屋さんも、私が神戸から転居した後で、閉店してしまった。

 

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2019.07.05 今年から、七夕飾りが変わりました。(令和から変更)

母は生前、私が幾つになっても、毎年七夕が近付くと、随分早くから笹と折り紙を
買って来て机の上に揃えて、「さあ作りなさい、さあ作りなさい」と言った。
グズでノロマの私は、 勤めから帰って来てもグズグズしていて、母を苛つかせた。

母が亡くなって30年以上経つが、私は毎年七夕の飾りを母の遺言であるかの様に
作っている。一度も作らなかった年はない。
母が亡くなっても、グズは直らず、七夕の日に滑り込みセーフが普通だった。
何故か、毎年七夕か七夕前夜には、必ず雨が降っていた様に思う。不思議だった。

神戸の一軒家に住んでいた時、笹飾りをしているのは我が家だけだった様に思う。
今はマンションなので、他所のお宅の様子は分からないが、多分我が家だけかも。

歳を取るとだんだん面倒になって来て、ガラス製の笹が無いものかしらと探している
と(私はガラス好き)、数年前に見付けた。 
しかし、ガラスの葉は繊細すぎて、割れて欠けたりして、又小さすぎてピンセットが
必要だったりして、困っていた。



先日、京都嵐山に行ったとき、おしゃれなお土産屋さんで、布のタペストリーの様な
ものを見付けたので、買って来た。 
 


う〜ん!なかなか良い。
今年から、これを飾ることにした。 偶然だけど、令和からの変更となった。

あ〜! 楽になったこと。^^

 


 

<なお、自分の記録の為に、過去ログをUPします。> 
 

2018.07.07 七夕様、ガラスの笹飾り

2017.07.07 お陰さまで開店10周年となりました。

2017.07.05 今年の七夕様

2016.07.07 ガラスの七夕笹飾り

2015.07.07 友人達と会食、七夕の日

2015.06.30 今年からガラスの七夕笹飾り

2014.07.04 今年の七夕笹飾り

2013.07.17 今年の七夕は特別でした。妹が参加しました。

2012.07.07 忙中閑話、今日は七夕です。

2011.08.06 旧暦の七夕と虹

2010.07.08 七夕様

2009.07.07 七夕飾り

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