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2012.09.29 90代の元職場の上司のこと(第1話)

90代のボーイフレンドです。
…といっても、元私が勤めていた職場のお偉さんです。
多分90代のなかばかと思いますが、今でも、世界中を飛び回っておられます。
45年前に、大連に日本語学校を設立され、その卒業生と校長先生が日本を訪ねて
来られるので神戸迄会いに行くので、帰りにそちらへ寄ると言うお電話でした。
お電話はしょっちゅう頂くのですが、お会いするのは10年振りぐらいになります。

今回、お電話を頂いたとき、私はこのところの多忙で、思う様にならない日々に
パニック状態になっていて、どうしてるの?と聞いて頂いたのを良いことに、
一気にそんなこんなをぶちまけてしまいました。
仕事が軌道に乗っていないのに他のことにかまけてしまい、目的に到達出来ない
焦りで追い込まれて頭がパンク状態になり、血液が行かないのか頭皮がムズムズと
痒い感じになって、一気に白髪になりそうな気持ち悪さで落ち込んでいたのです。

ご年配の方に、こんな悩みをお聞かせしてしんどい思いをさせたと思い、申し訳
なく謝ると、いや全然かまわないよ、もっと言っても大丈夫だよと、キャパシテ
ィーの広いことに私は驚きました。
私には、悩んだ時に相談出来る友人が幾人かいますが、その人達に対すると同じ
様に甘えてしまったのです。お陰で、大分落ち着きました。

「ところで、あんたはもう還暦を過ぎたんかいな。」「いえ、それどころかもう
古希を過ぎました。」「え~?もうそんなになるんかいね。それは、やり過ぎ
じゃが。」(山口弁?)とのこと。

それでは、1度会おうと言うことになり、お会いしたのでした。
お昼を食べて、お茶をしていると、もう一人の友人が駆けつけてくれました。
3人で、盛り上がりました。

この90代の男性は、戦前学校を出て就職した後で、招集されて、零下40度の
満州で兵隊の任務に付き、その後、日本の兵学校へ行く様命令が出て、一人だけ
日本に帰り勉学することになりましたが、結局そのときの戦友240余名はフィ
リッピンに向かう途中で、船が米機に撃沈され全滅したそうです。
ここでも、20才前後の青年達の壮絶な戦死がありました。もちろん、先の戦争
では若い人々だけでなく年輩になってから招集された方々も悲惨でした。
いたるところで悲惨な戦死がありました。戦争は何と残酷なものでしょうか。
そして、たった一人この男性は生き残ったそうです。
そんなこともあって、生涯何かを人の為にされるご生活でした。
とても親切な方というのが、職場の部下達の評判でもありました。

今日は、3人で楽しい語らいとなりました。
友人が、どうしてそんなに健康で活躍できるのかとお聞きしますと、カキクケコ
ですよとのこと。カキクケコとは…、
カ…感動する
キ…興味を持つ
ク…工夫する
ケ…元気で居る(気分的にも、肉体的にも)
コ…恋心を忘れないこと(好奇心、死ぬまで)
…だそうです。

又、日々次の様なこともされています。
♦毎朝、真剣(木刀ではなく)を100回振る。
♦よく歩く。
♦食べ物は、自分で作ったいろいろな野菜類を蒸して食べる。
(採れたてのものは、格別美味しいのでそのままで食べる。塩も何も要らない。)
♦梅干しも梅酒も、自分の庭の梅の木2本から採った実で、自分で漬ける。
(私も以前、何度か梅干しと梅酒を頂いたことがあります。)

この日、帰宅されてから書類をまとめて、翌日又、高槻市から神戸迄、再びあの
大連から来た方々に会いに行かれるそうです。お元気なこと!!
又、この10月から12月にかけて20数回、頼まれてある市の小学校・中学校の
児童にお話をしに行かれます。これは、この20数年間続けておられますが、
報酬は全く受け取らず、すべて寄付されているそうです。

この方のお元気は、自給自足の新鮮なお食事と、そして日々の生き方、心の持ち方
にあるとつくづく思いました。

___________________________________________________________

(追記)

※ 大切なことを書き忘れておりました。

この方は、日本に帰って士官学校を卒業し、岩国で120名の兵を束ねて鉄道警備隊
の仕事をしておられましたが、
その時、廣島に原爆が落ちました。
すぐさま12名の兵を連れて、廣島へ向かい、そのまま救助に当られました。
黒い雨に濡れながら…。

いまでも、放射能の影響が身体のあちこちに出て来るそうです。
海草類は、摂取できません。
その様な、ハンデを抱えておられるのに、ここまで長寿で頑張って来られたのは、
ご本人の努力が大変大きいと思います。

(次回、これについて書きます。)

 

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2012.09.21 「戦争と平和展」が開催されています。(←これは間違いでした。申し訳ありません。)

先日、「2012.09.08 嬉しいご意見(予科練少年兵の墓について)
にてご紹介しましたY.Y様から、次の様なメールがありました。

⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘

   <お知らせ>
8月2日~9月30日
淡路市北淡歴史民俗資料館
9時~17時
淡路市浅野南240
0799-82-2177
にて「戦争と平和展」が開催されております。
是非 御覧になられては如何でしょうか?
後世に語り継いで頂きたいと願っております。

⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘


上記のお知らせを頂きました。
このY.Y様は、このお彼岸に鎧崎桜ヶ丘の予科練少年兵の墓地へおはぎを持って
お参りされるそうです。「2012.08.17 67年目の終戦記念日に思うこと。
遠く愛知県からお参りして頂くことを、頭が下がる思いでお聞きしました。

この時、同時に上の「戦争と平和展」もご覧になるはずと思います。
お近くの方で、お時間のある方はご覧頂ければと思います。


【追伸】  
          【至急・ご連絡します。】

只今、Y.Yさまから下記の通り連絡がありましたので、至急お知ら申し上げます。

新聞にて案内されておりましたが、実際に行って見ると戦争と平和のタイトルの資料が
展示されておりませんでした。
それで、調べたところ、新聞社に貰った記事のコピーの日付けが薄れていて読み間違い
しており、2011年のものでした。大変 申し訳ありません。

もし ご覧になられて行かれた方にはなんとお詫びしていいのか…。
本当にすみません。
 

とのメールが、只今現地からありました。
皆さんに、よろしくお伝え下さいとの事ですので、お伝え申し上げます。
 
私からも、お詫び申し上げます。 (ブログ管理者より)
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2012.09.19 7月のチタン鍋料理(その2)

遅れておりますが、7月のチタン鍋料理(その2)です。

 


(1)
ステーキ 糸こんにゃく炒め添え、カプレーゼ(トマト モッツラレラ オリーブオイル)、
きゅうりの中華風漬け物、ゆでかぼちゃ、もずく酢の物です。

※ 「きゅうりの中華風漬け物」は、以前住んでいた神戸の家の近くの中華料理店で、卓上に
容器に入れて出ていたもので、美味しいので(しかもタダなので)取り合いになって、すぐ
無くなっていました。それを、家で作る様になりました。
茶色でカリカリした漬け物は、多分さっと茹でているのではないかと思って、やってみました
ら、その通りに出来ました。歯触りがよく、とても美味しいです。
(きゅうりを数センチに切り、4つ割りにして、さっと茹でて、熱いまま鷹の爪の輪切りを
効かせた、あるいは豆板醤などを入れた中華風の合わせ酢に漬ける。好みで生姜の千切りや
ゴマ油を加える。)



(2)
目玉焼き(揚げちりめん乗せ)、ゆでかぼちゃ(岩塩添え)、青菜のごま和え、もずくの
酢の物です。

※ チタン鍋は、卵料理は苦手です。卵料理だけは、慣れが必要です。
(但し、薄焼き卵は、初心者でも抜群に上手に出来ますのでお試し下さい。=もちろん弱火)
私のチタン鍋は、長年使い慣れているので、目玉焼きも大丈夫です。


目玉焼きをした後のフライパンの汚れです。
目玉焼きの場合は少量の水を入れて蓋をしますので、その水蒸気がある為、鍋には全く
くっつきません。



(3)
剣先イカのげそと絹さやと生椎茸の炒め物、川津海老、もずく酢の物です。

※ 私は剣先イカの刺身も好物ですが、ゲソが大好きです。スーパーで剣先のゲソを見付け
たら、すぐ買います。イカの白さには、何と行っても絹さやの緑です。そして生しいたけと
3つを炒めるのが私の定番です。美味しい上に倹約料理でしょう?^^



(4)
大好物のゆばとうふ、ウインナーのソテー、トマトとブロッコリーのサラダ、かぼちゃの
スープ(カレー味)、カブと人参のマリネーです。

※ カブと人参をマリネーにしました。
私の場合、マリネーでも昆布を一切れ入れます。
マリネーの場合は、白ワインビネガーを使ったり、穀物酢や米酢でも作ります。
食べる時、黒胡椒を掛けます。
食卓に酢の物があると、本当に爽やかですね。

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2012.09.13 7月のチタン鍋料理(その1)

大変UPが遅れておりますが、チタン鍋料理の7月分(その1)です。
代り映えしませんが、いつもの私の好物たちです。


(1)
麻婆豆腐、茹でかぼちゃ岩塩添え、トマトのサラダ、もずくの酢の物です。

※ 最近、私は茹でかぼちゃを主食にしています。



(2)
ミニステーキ 茹でジャガイモとブロッコリー添え、蕪の煮物、トマトと
ベビーリーフのサラダ、もずくの酢の物。



(3)
芦屋のお肉屋さんのコロッケ、ゆばどうふ、もずくの酢の物、かぼちゃの
スープ、そして、蕪の酢の物です。

※ 先日食べた和食屋さんのランチで、「蕪の酢の物」にびっくりしました。
お酢の物では自信があった私でしたが、これには脱帽しました。
その時教えて貰った方法で作りました。するとやっぱり美味しい。感激でした。
私はずっと穀物酢を使っていましたが、教えてもらったとおり「米酢」に変え
ました。
米酢は少しきついので、チタン鍋に入れて(いつもの様に昆布を入れて昆布酢
にします)沸騰させる直前まで暖めてから瓶に戻しておきます。
酢の気がやわらいで、きりっとしたまろやかさになります。
(※ 酢の物については、いつか項を改めて書きたいと思います。) 




(4)
川津海老は、小さい物はとても安いので助かります。(これで200円台)
ゆばどうふ、茹でかぼちゃ、大根の皮のきんぴら(大好物)、もずくの酢の物、
蕪の酢の物です。好物ずくしです。

 


(5)
レタス、トマト、きゅうり、ウインナのサラダ。
枝豆とちりめん山椒、もずくの酢の物、かぼちゃのスープです。

※ 茹でかぼちゃを岩塩で数日食べた後、3~4日経って残った物を煮崩して
スープにするのが、楽しみです。
チタン鍋でかぼちゃを茹でて、残りをチタン鍋のまま冷蔵庫へ保存し、
最後に残った2~3切れに水を加えて煮溶かし、マギーキューブ1個と牛乳と
黒コショーで味付けします。
それだけなのに、お店のランチのスープよりも感激するほどです。
使うのは、最初から最後迄、たったひとつのチタン鍋だけです。


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2012.09.09 敬老の日にいかがですか?二重タンブラー「朱鷺(トキ)」新発売!


純チタン二重タンブラー
 朱鷺(トキ) が新登場です。

変わらない美しさを保つチタン素材のタンブラーに、
越後平野を優雅に舞う朱鷺(トキ)を配しました。 
豊かな自然への祈りを込めた特別なタンブラーです。

              ■ビールは、豊かな泡立ちでより美味しく   
              ■日本酒は、熱燗もヒヤも格別の味です。
              ■二重構造で適温が長持ちします。 

(【小】は容量270cc ¥10.500  【ミニ】は容量170cc ¥8.400 )

■クリーミーな泡立ち
秘密は微細な凹凸処理です。


■内側まで美しい朱鷺色
こだわりのチタンカラーです。


■軽く錆びないチタン製
安心の表面処理を採用しています。



こだわりのフチです。

■二重構造で適温を保つ
ホットもアイスも楽しめます。

◎ 敬老の日の贈り物に、最適だと思います。ぜひご検討下さいませ。



では、純チタン二重タンブラー「朱鷺(トキ)」を、ご覧下さい。↓

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2012.09.08 嬉しいご意見(予科練少年兵の墓について)

先日、このブログで、「2012.08.17 67年目の終戦記念日に思うこと。」を書かせて
頂きました。

その記事に、Y様からコメントを頂きました。
せっかくの有難いご意見ですのに、コメント欄は目に留まり難い上に、スレッドが下に
なって行きますので、ご了承を得て、こちらへUPさせて頂きます。

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(1)
私の親が戦前から宝塚に住んでおり、隣が予科練の方々の宿泊をされていた旅館で
当時 親と叔母と二歳児の所に遊びに来られたとの話を幼い頃に聞いた記憶がありました。
しかし、悲惨な出来事だけに あまり多くは語りませんでした。
当時の事を取材を要請されても拒否をされていたようです。

私は子供頃を色々と思い出す中で 予科練の事が気になってネットを見ると余りにも酷い
ことでショックを受けて 前々日に阿那賀の墓地と春日寺に伺いました。
墓石に刻まれたのを見ると最年少で11歳と刻まれたのを見ると……
改めて嘆かわしい想いを致しました。(ブログ編者注:最年少は14才で兄も14才でした。)

来年の8月2日の命日には春日寺を御参りしたいと思っております。
追記
春日寺に伺った際に本堂にて爽やかな風を受けました。
また、お墓にても軽く優しい微風を感じましたね。

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<ご両親が戦前から宝塚に住んでおられ、隣が予科練の方々の宿泊されていた旅館であった>
とのこと。
何と言う偶然でしょうか?驚きました。
当時は宝塚歌劇団の建物の壁も黒く塗られて、予科練兵の宿舎となっていたと言う話を聞いた
ことがあります。毎夜、幼い少年達の泣き声が聞こえたと廻りの住民達が言っていました。

<私は子供頃を色々と思い出す中で 予科練の事が気になってネットを見ると余りにも
酷いことでショックを受けて 前々日に阿那賀の墓地と春日寺に伺いました。>
阿那賀の墓地と春日寺にお参りに行って下さったとのこと。何と有難いことでしょう?
さっそく、兄にこのことを連絡致しました。大変感謝しておりました。

<来年の8月2日の命日には春日寺を御参りしたいと思っております。>
Y様に伝わったことで、私がブログで書かせて頂いた甲斐がありました。
とても嬉しく思います。

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(2)
親が宿泊先の隣に住んでいた縁で 少年達から親への手紙を託されて監視の目が厳しい中で
親元に届けて 戦後に手紙を届けたご両親から亡くなられた事情を知ったと聞いておりました。
私もあなた様と同様に宝塚海軍予科練の少年達の事を後世に伝えたい思いは強いです。

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<少年達から親への手紙を託されて監視の目が厳しい中で親元に届けて…>
ご両親のご親切に、どんなに少年達が感謝したか、想像に余りありますね。

思い切って、ブログにこのことを書いて良かったと思っています。嬉しいご意見を頂き
感謝に堪えません。
なお、予科練の続きをあと2~3話書きたいと思っておりますが、多忙で果たせずにおります。
でも、どうしても伝えたいことですので、時間を見てUPしたいと思っております。
Y様、そして皆様、これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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2012.09.05 チタン二重タンブラー<白樺>に大型(350cc)を追加しました。

二重タンブラー チタン白樺は、今迄小型(ライト)のみお取り扱いしておりましたが、
今回大型(350cc)の方を追加しました。
ライト(270cc)より、少し容量の多いタンブラーが欲しいと思っておられた方!
どうぞ、ご検討下さいませ。

チタン二重タンブラープレミアム <白樺>は、
          ■ビールは、豊かな泡立ちでより美味しく   
          ■焼酎は、ホットもアイスも楽しめます。
          ■二重構造で適温が長持ちします。 


では、 ↓ 純チタン製二重タンブラープレミアム <白樺>の全商品をご覧下さいませ。

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2012.09.02 NHK「世界ふれあい街歩き 上海四川北路編」スクリーンショットと今昔の思い(その5)

街歩きのスクリーンショットが、どんどん遅れておりまして済みません。
では、続けます。今回は相当長くなっておりますので、そのお積もりでお願いします。



(5-1)
<昔の写真を見せましょうか>

ここは、以前板張りの広いベランダでした。
今は、息子さんの部屋となっております。 

 


(5-2)
<実は 昔ここに済んでいた日本人が>

息子さんの机の引き出しから、アルバムを取り出しました。
昨年(2011年7月)に、兄妹3名でこの生家を訪ねました。
その時、歓迎して頂いたお礼と記念にアルバムを作り、お届けしたものです。



(5−3)
<この場所を見付けて 訪ねて来たことがあるんです。>

私と妹は、この家で生まれましたが、兄は中国の漢口(ハンカオ)で生まれました。
私と妹が生まれる前に一家は上海へ移り、兄が2~3歳頃もう一度転居してここへ来ました。
上海での以前の家ではすぐ近くに魯迅が住んでいて、親しくしていたと父母に聞いたことが
あります。魯迅の家のアマが、料理(粥)を持って来てくれたことがあったそうです。



(5-4)
<これは その人が(帰国してから)届けてくれた写真集です>


(5-5)
私が作ったアルバムです。

このファイルは、このアルバムの為に痛む足を引きずってさんざん探し廻って、ようやく
見付けた自慢の品です。(※その後、奇跡的に私の足は治りました。)
アルバムを入れているファイルボックスは、私が持っていた物でこれも大の気に入りです。
材料費が大変高く付きました。
そして、何よりも初めての挑戦でしたので、毎日が格闘で、体力を使い気力を使ったので、
酷い湿疹に悩まされました。
しかし、始めはその原因が分からず、余りにもひどい湿疹にあらゆる対策を講じましたが
治らず、プロに頼んで寝具などを高熱処理してもらったのですが、全く効果無く、最後に、
絨毯のダニかと思い器具を購入し設置しましたが、何も見付けられませんでした。
アルバムの手法を身につけたことで喜んだ私は、他にも廻りの何かの会などのアルバムを
作って上げたりと多忙を極めましたので、湿疹は酷くなるばかりで治らず、 新年にホッと
した折に突然湿疹が消えたのを発見した時は驚きました. 

このアルバムを見たパソコンメンテナンス業者が、「これは40万貰えますよ。」と言って
くれましたが、私は「50万貰っても、もう作りません。」と 言ってしまいました。
そのぐらい大変な作業だったと思っています。

 

(5-6)
この旗も、私が描きました。
中国の旗がどんな旗か調べて描きました。
旗をクロスさせる時は、敬意を表して相手方の旗を手前にするそうで、ということは
相手方の旗が、裏返しになるのですね。始めて知りました。
その双方の旗が風にはためいている様を表現するのに、結構苦労しました。

又、戦前の麦拿里(マグノリ)として載せている上の2枚の古い写真は、実は同じマグノリ内
でも、我が家が住んでいた家の裏側に建っていた家の写真で、ネットで見付けて使わせて貰い
ました。
実は私達の住んでいた方は、前庭が付いていましたが、その当時の全体像の写真はネットでも
今のところ見当たりません。
我が家は引き揚げて来ているので、昔の写真は殆どありませんが、何と言う幸運でしょうか、
つい先日、父の写したらしい貴重な写真が1枚見つかりました。
大切な思い出の青銅の唐草模様の門扉と塀が写されていました。姉と二人の兄の幼姿と共に。
私は驚き感動しました。いずれお目に掛けたいと思います。

(5-7)
<彼らは2011年ここを66年ぶりに訪ねて来て>

66年振りに訪ねた生家の玄関で、Oさん一家と、私達一同で写真を撮りました。


(5-8)
<また写真を撮ったんですよ>

これは、私と妹が生まれる前(多分この家に我が家が転居して来た時)の写真です。
父、母、姉、長兄が故人となりました。
手前の次兄(おそらく3才頃)だけが生存しており、この兄は、何回も上海を訪れていて、
昨年私と妹を上海へ連れて行ってくれたのでした。

今回生家をどうしても訪問したかった理由は、この家が取り壊し間際と聞いたからです。
兄は、この家に何度も訪れていましたが、昨年初めてこの家の主の王さんと会いました。
その時、この家の取り壊しが近いと聞き、それ迄に妹達を連れて来たいと伝えていました。
以前から、私と妹をここへ連れて来たいと兄は思っていたのです。更に妹がどうしても行き
たいと言ったので、旅行は本決まりとなり、私達兄妹3名は上海を訪れたのです。
でも、その後取り壊しはなくなり、家は文化財として残されることになったそうです。
嬉しく思いました。
でも、もし、家が残されることを先に知っていたら、この旅行は無かったかもしれないし、
王さん一家に記念のアルバムをお作りしようとは思わなかった筈ですので(王さんにとって
も思い出になるのだからと思い作成した)、このアルバムは出来ていなかったことでしょう。
後で知ったことは本当に良かったと思っています。)


(5-9)
<私は できるだけのことをしてあげたいと思いました>

その3歳の兄が、すでに80歳となりました。
私は、父母の写真と同じ場所で写真を撮りたいと思い、それをこの旅行の目的にしていました
ので、私達兄妹で、この同じ階段で写真を撮ることができて本望です。

本当に、昨年Oさん一家は最高の歓迎を下さいました。温かい心遣いに深く感謝しております。 

 



※ なお、今回このOさんの奥さんにテレビカメラが行き着いた経緯をお知らせします。
このアルバムを、Oさんのお宅へ届けてくれた女性(上海在住日本人)からのメールをコピー
します。

_________________________________________________

撮影のいきさつをお伺いしたところ、中央電視台がNHKに協力取材したもので、中国人4人の
撮影隊が四川北路を撮影、取材していたそうです。
その道中、Oさんの近所の方が最初取材を受けたそうですが、やはりOさん奥さんが適任という
ことで取材班が王さん宅に行ったそうです。
たぶんOさん宅はもと日本人住宅であり、その中でも大きな改装もなくきれいに保存されており、
また日本のOshimaさんと交流があるということ、Oさん奥さんが元教師できちんとした標準語
を話されること(この近辺であの年代では上海語しか話さないことが多く、大変めずらしいこと
です)
私が考えてみても、Oさん奥さん以外に適任者はないと思います。
テレビ局にもいろいろあって商業目的のものや娯楽番組などが多いですが、奥さんは彼ら取材班
が国営放送の人であることをちゃんと確認されたそうです。

_________________________________________________

…と言うことらしいです。
NHK街歩きでは、自然さを大切にしているため、ほとんど作為的なことはしないのだそうで、
Oさん宅へ行き着いたことも、やはり自然の流れと言えると思います。

なお、アルバムを届けてくれた女性(日本人上海在住)のお母さんとそのご友人が今年の6月に
上海を旅行されて、その折彼女と一緒にOさん宅を訪ね、大変歓迎していただいたそうです。
本当に、Oさんご一家は素晴らしい方々ですね。

Oさんの父上(故人、大学教授)は、戦後すぐあの家を買われ、最初は建物全体をOさん一家で
使っていたそうですが、今は各部屋を貸しておられて、現在8軒で住んでおられます。
それで、残念ながら、私達は見たかったお部屋の全部は見ることが出来ませんでした。

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