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2017.10.29 栗おこわの差し入れと、Kさんのこと。

 

仲良しの元女板前のKさんが、近く迄来たのでと栗おこわの差し入れをしてくれました。
ごま塩迄作って、添えてあります。栗を剥くのも大変だった様です。
大根の煮物も作ってくれています。紅葉の人参の美しいこと。
彼女も、チタン鍋の愛用者です。 

 

美味しく頂きました。

 

翌日は頂き物の残りと、大好きな水茄子の皮のきんぴらを添えました。(大好物)
水茄子の実の方は、あっさりとドレッシングで和えました。(酢と醤油とオイル)
お澄ましの実は、ヒラタケと茗荷。幸せな夕餉です。
 



栗おこわを持って来てくれたKさんは、長年の苦労が祟って、6〜7年前に大腸癌の大手術をし、
更にその数年後に胃癌で胃の5分の4を取りました。 
その後、普通に食べられる様になり(これが早くてびっくり)、弱っていた脚も回復して、
血圧は高いものの私達の仲間に加わりランチに行ったりしていましたが、最近血圧が更に悪化し
それ以外に腎臓が悪くなり、あまり出歩けなくなりました。

度々電話して様子を聞いていましたが、ある時とても明るい良い声で電話に出て来ました。
(声で健康状態が分かりますね。)

私が喜ぶと、その理由を教えてくれました。 
彼女は薬を7種類ぐらい飲んでいたが 、その中の注意書きを読むと、驚くことが書いてあった。
副作用として、「動悸」「立ちくらみ」「めまい」「ふらつき」「食欲不振」「はきけ」「かゆみ」
「ほてり」「のぼせ」「むくみ」「ショック」 「呼吸困難」・・・などなどが起こるので注意と。
飲んでいるどの袋にも、ほぼ同様の怖いことが書いてあったそうです。
そんな薬を7種類も飲んでいたのか?と彼女はショックを受け、医者にこれを1つにして下さいと
頼んだら、これを飲んでいるから貴女は生きているのだと言われた。
彼女は、「死んでも良いから、1つにして下さい。」と言って、1つにして貰ったとのこと。

私が電話したのは、丁度その直後だったのです。
なんと良い声! くぐもった声ではなくてとても澄んでいたのです。

しかし、今日会って聞いてみると、又少しふらふらするので、バイクには怖くて乗っていないと。
(84才で後ろに荷台付きの三輪大型バイク、それに乗れていただけでもすごいけど。)
彼女は、そんな状態でも、自分のこと以外に廻りの人の食事も気を配っておられる。
そのマンションは、震災復興住宅なので、震災で怪我をした車いすの人や、年配の人が多いので、
彼女はどうせ一緒だからと多めに作っては、 近所の人に配って上げることが多い。
私迄ご相伴にあずかるなんて!申し訳ない。
何処も悪くなくても、出来合いを買って来る人が多い時代なのに。
本当に、有難く頂きました。 

 

※ そんなに体調のすぐれない彼女から招待を受けた(私の友人達迄)日のブログをリンクします。
感動ですよ。^^ 彼女は嫌々ではなく、喜んで誘ってくれているのですから。

2016.12.05 豪華な「お好み焼きご招待」

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2017.10.28 リリー荘物語(その3、「リリーって百合のことやったん?」の巻)


いつもの仲良し3人組でランチに行きました。
彼女達2人は、元の職場の同僚で、2人とも私より20才程年下です。
我が家(リリー荘)で、麻雀会をする前日でしたので、美味しいイタリアンを食べながら、
「明日、我が家で麻雀会をするのよ。実はね、我が家の名前(雀荘の)は、リリー荘って言うんよ。」
と言ってから、リリー荘と名付けられた経緯を話しました。
そして「その時に「みずえ’s カフェ」を開くのよ。楽しみやわ。皆びっくりすると思うわ。」と
私は得意になって言いました。 

すると2人は口を揃えて、「なぜ「みずえ’s カフェ」にするの?「リリー's カフェ」にしたら?」
と言いました。
「あ、そうやね。 「リリー's カフェ」ね。せっかくリリー荘なんやからね。」と私も納得! 
すると、Bちゃんが「私、楕円形の板を持ってるから、それにトールペイントでカフェのプレートを
作って上げる。」と言ってくれました。

「すごい!すごい!作って!作って!」と私は大はしゃぎ!「玄関のドアの中に飾るね。」と言うと、
「玄関の外に飾ってよ〜。」 と大人しい彼女が珍しく言いました。(もちろん、来客の時のみ使用)
まさに信じられない展開です。私はルンルンになりました。 

 


翌日はリリー荘での麻雀会なので、思い付いて白い百合を買っ帰りました。今後はこうしよう。
帰宅後、麻雀会の準備をしながら、買って来た百合の花を写メしてBちゃんに送信しました。
『「明日取りあえず「りりー's  カフェ」を開店します。看板待ってるからねー。』と。

返事が来ました。 すると、びっくり! 
「リリーって、ゆりのことなん?」
「え〜?」・・知らなかったんだ。 

私はもう一人の仲間ヤーちゃんへ電話し、2人で大笑い。彼女のここが可愛いんよねと、同感。
ヤーちゃんはBちゃんより1才年下ですが、彼女は大の読書家なので大変な物知りです。

ひとしきり笑ってから、Bちゃんに電話しました。
「リリーって百合やと知らなかったん?」「看板プレートを描いてくれると言ってくれたけど、一体何の
花を描いてくれるつもりやったん?」又笑い転げる私! (ごめんなさい。)
「うん。でも「リリーの桃の缶詰」に百合の絵が描いてあったと思うんで、そうかなと思った。」と。
「え〜?リリーの桃の缶詰の絵〜?」・・・ゲラな私は、もう一度笑い転げました。 
(後日スーパーに確認に行きましたら、今は百合の花は描かれていませんでした。昔は確かにありましたが。 )

このBチャんは、とても美人で穏やかで擦れていなくて人柄が最高です。
職場の男性全員が彼女のファンでした。もちろん女性も。 60才近い今も全く変わらず無垢なのには驚きます。
 

彼女は、名誉挽回を図ろうと思ったのか、「私のトールペイントの作品を見てくれる?写真送って良い?」
と送って来ました。確かに力作です。沢山ありますがその中の一部をUPします。
彼女は、粘土造花も先生から免許皆伝と言われ、すでに教えていますし、ビーズ手芸も長年やっていて達人、
習字も近所の人に請われて小学生に教えに行っているとか。教えるの楽しいよ、と言っています。
そんなに能力的には凄い人なのに、性格が昼行灯ちゃんなのが、とても良いです。 

抱腹絶倒とは、このことでした。本当に楽しい仲間です。

この3人組のことを、「ミツバチ会」と命名しました。
はじめ、三つ葉会と付けたら、え〜?と言っていましたが、それなら「ミツバチ会」はどう?と言ったら、
それイイ!と俄然喜んでいました。 私は、命名の名人です。^^
 


 

なお、以前のことですが、私の脚の話から「塞翁が馬」の話になり、Bちゃんが知らなかったので説明しました。
(=悪いことが起こったと思っても、後になったらそれが良いことだったという中国の故事=)
するとBちゃんが、「ふ〜ん、でも◯◯さんは(私のこと)、そのおじいさんと何処で知り合ったん?」と聞く
ので、私は仰天したことがあります。^^  そんなBちゃんです。

2013.01.29 「塞翁が馬」で有難い展開2つ(その2、面白話)

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2017.10.22 リリー荘物語(その2、Eさんとの感動の再会)

明石大橋が出来上がる頃でした。
まず、橋が開通した時点で、希望者に解放し大勢で歩いて渡ることが行われました。
私は家が遠いのと足が痛いので考えもしませんでしたが、地元である舞子の友人は歩きました。
その友人が「先日橋を歩いたよ。その時、Eさんに会ったわよ。」 と言いました。
「Eさん?だったら、私の話にならなかったの?私が元気か聞かなかったの?」と思いました。 
私は、ショックを受けました。

次に、いよいよ完成して自動車道として解放する前に、最後にもう一度人が通れる日が設けられました。
その時も友人は言いました。「今度もやっぱりEさんと会ったわ。不思議やね、会う時は会うもんやね。」

私は落ち込みました。Eさんは私を懐かしくないのだ。このショックは大きくて、辛いものでした。
きっと、私は何か嫌なことを彼女にしたに違いない。それならば、今からでも謝らなければならない。
(実は後で聞いたところによると、舞子の友人は、私とEさんが仲良しだったとは知らなかったので、
私のことは言わなかった。すれ違っただけなので、挨拶だけだったと。) 

私は絶え切れず、昔の住所録を持ち出して来て、勇気を出して彼女に電話しました。 彼女が結婚した後
いつの間にか、連絡が途絶えてしまっていたのです。
すると、電話に出て来た彼女は大喜びしました。
彼女は子宮筋腫の手術をした直後で、あまりの苦しみの中で「これを乗り越えたら、◯◯さん(私のこと)
に電話しよう。それを楽しみに頑張ろう。」と苦痛に耐えていたと言うのです。
そう願っていたら当の本人から電話があったので、以心伝心こんな偶然があるのかしら?と思ったと。

私も、安堵しました。私は悪いことはしていなかった。思い切って電話して良かった。

そして、彼女は手術の苦しみが癒えた後すぐ我が家へ来てくれました。明石から東灘は病後には遠いでしょうに。
駅へ迎えに行く約束でしたのに、一刻も早く会いたかったからと、彼女は早目に自分で探してやって来ました。 
高校時代に一度来たことがあったので、何となく分かったそうです。 
と言っても、大震災の後、まるで別の町へ来たかの様な錯覚を覚える程、廻りは様変りしていましたのに。 

35年振りの再会でした。
彼女は、「いつも、悲しいことがあるとあなたの家の裏山に登って思い出していたのよ。一番会いたい人は 
いつも貴女だった。」と言いました。その時、私は母への感謝が込み上げました。
あの戦後の何もない貧しい時代なのに、 私が友人を連れて来ると母はとても喜んでくれました。
両親とも私の友人達を優しいまなざしで見てくれていた。それを思い出すと感謝で一杯になるのです。 
 


 

なお、17年前の自分のホームページから、関連分を下に添付します。

 

ホームページの中に「みずえのひとりごと」という、エッセイの様な日記の様なものを書こうと
思っていましたが表題のイラストがどうしても出来なくて悩んでいたのです。
しかし、彼女との再会の嬉しさで一気にアイデアが固まって、その日の内に描き上げたのが、
上のイラストです。嬉しさに踊っています。

「みずえのひとりごと」→ http://www.mizue-kobo.jp/40-hitorigoto-top/000hitorigoto.html


  

「みずえのひとりごと」のイラストを彼女用に「会えてよかった」に変えました。
泣きそうな心の震えは何週間も続き、父母への感謝が込み上げる日々でした。 

 

 

彼女が、こんなにもお花好きであることとは知らなかった。
お庭の花をおしゃれに束ねるセンスは、抜群であると思った。
彼女は、この白い花はお母さんにお供えしてねと言った。 
お母さんに優しくしてもらったと、何度も言った。 

 

 

都会で戦渦に会い焼け出された人達(その人達の為に近所に何百軒という大きな市営住宅群があった)や、
我が家の様な引揚者の家族が、何も無かった神戸の片田舎の漁村に、戦後都会の文化を持ち込んで
くれたのだと彼女は言った。子供心に本当に驚いたものだそうである。
我が家は特に文化的な家ではなかったけれど 、少しは違うものがあったのかも知れない。

 

 

私は定年退職後一時期シャンソンを習っていて、先生にこの時の感動を話した。
父や母への感謝で心が震えっぱなしの日々で、その日も感謝の涙にむせびながら
家へ帰ったことを思い出す。
何とナーバスになっていた日々であったことか?


(私は子供の頃キリスト教会の幼稚園に行っていたせいか、親に感謝するタイプで、
何かあると「お父さんお母さんありがとう。」と心の中で感謝する。もちろん神様にも。
人に良くして貰った時、偶然良いことがあった時その他いつでも。脚が痛くても関係ない、
病気でも全然関係ない。いやそんな中にむしろ感謝することが沢山ある。
思わず心に浮かぶ言葉、それはいつも「お父さんお母さんありがとう。」です。
兄嫁が最近言いました。「そうだったの?教会の幼稚園だったのね?それで分かったわ。
何故貴女が神様神様と言うのかが。いつも不思議だったのよ。」と。
私は別にクリスチャンでもなんでもありませんし、あまり意識していませんでしたが、
「三つ子の魂百迄」かも知れませんね。
それにしても、兄嫁は結婚後50年以上も経ってから、小姑の謎を解明した訳ですね。^^)
 

※  なお、その頃、脚が激痛の中で隣町のシャンソンの先生のところへ通うのに苦労しました。
  まだ、震災後全壊した町の復興が出来ておらず、道はでこぼこして危険でした。
  両膝がまるで大きな提灯の様に膨らんでいて全く曲がらない私は、何かにつまずいたら
  勢い余って一気に顔面から地面に激突します。一瞬です。アッと言う間もありません。
  お土産のケーキの箱を持って転んだ私は、ケーキが見事にぺちゃんこになったことばかり
  気にしていましたが、砂利で擦りむいた顔で到着した私を見た人達はよくぞそれで済んだ
  ものだと驚いていました。
  後で私も気が付きました。砂利だったから良かったけど、固いものに当たっていたら、
  何かの角に激突していたら、釘でも出ていたら、もし目でも突いていたらイラストを描く
  どころではないところでした。ぞっとする様なことが沢山あった日々でした。

  

「みずえのひとりごと」から、この再会の日のページをリンクします。
http://www.mizue-kobo.jp/41-2000-11-hitorigoto/00011hitorigoto.html 
 


  

 

そして、恥ずかしながら、私の執念の固まりの自分のホームページ「みずえ's ほのぼのハウス」を
リンクします。
私は、どうしてもホームページは自分の家と言う概念を持ちたく、そこへ行く「往路」、そして
そこから帰る「帰路」というイメージで作りたかったのです。 
http://www.mizue-kobo.jp/index.html
 

ひつこい様ですが、もちろんまだその頃は、ホームページって何?という時代です。 
今では、それらを楽に作れるブログと言う形式のものが出来たので、こんな苦労は昔話になりました。
ネットショップも死にそうになって作りましたけれど、いずれは楽々と作れる様になるでしょうね。

第一、昔は険しい山にわらじと杖で登るしかなかったけれど、今はケーブルカーやロープウエーで
足も傷めず楽々と登れます。
すべてがめまぐるしく進歩する、どんどん便利になる、有難い時代の到来です。 



◎ なお、第1話と第2話は少し重たい内容でしたが、次回の第3話は抱腹絶倒のお話です。
実は、それを早くお話ししたくて、うずうずしていました。
どうぞお楽しみにお待ち下さいませ。 

 

 
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2017.10.15 リリー荘物語(その1、「リリー荘」の名付け親、そしてこの20年の私の歩み)

      

今回は、「リリー荘」の名付け親に付いて書きたいと思いますが、まず、私と麻雀との出会いから書きます。
いろいろな思いが蘇りどんどん長文になってしまい、恥ずかしくて逡巡しましたが、勇気を出してUPします。

さて、麻雀については、小学校の同級生達が私が定年になったら一緒に麻雀を始めようと50代から待ってくれていた
ことは前に書きました。

しかし、その間に大きな出来事がありました。阪神大震災が発生しました。私はその時香港旅行中で命が助かりました。
何と言う幸運!大の旅行嫌いな私がその日に限って、日本に居なかったことは亡き母の導きだったと今も信じています。
阪神大震災で家が全壊した私に、思いがけなく多くの元職場関係の方々がボランティアとして現れ、献身的な協力により、
1年半後、家の再建が叶って神戸に戻ることが出来たこと、彼等の姿から多くを学びました。私はその感謝の思いから
今度は自分が何か役に立たねばならないと決心し、定年の1年前に職場を辞めました。
避難生活の苦しい1年半の間に、ある雑誌でパソコンのマッキントッシュを知りました。その時、もしも生きて神戸に
戻ることが出来たらマッキントッシュを買おう。そして命がけで新しい人生を切り開き、何か社会に役立つことを
したいと固く固く決心し、それを目標に苦しい復興の日々を頑張りました。

神戸へ戻ってから念願のマッキントッシュを買いました。パソコンに初めて出会った衝撃は私にとって強烈でした。
こんなものがあったのか?パソコンは自分さえ努力さえすれば何でもありの世界だと思いました。これで私は恩返し
が出来る。そう思った私は逸る気持ちを抑えきれず、神戸再出発と同時に定年の1年前に職場を辞めました。
(パソコンはまだ職場に1台あるだけで、それをワープロとして使っていたのが私だけでした。パソコンは無知でした。)
初めて握ったマウスで首を攣らせながら、毎日明け方迄マッキントッシュと文字通り格闘する生活を始めました。
私にとって退職は自分に出来る何かを探す旅への出発だったと言うのが正解です。毎日時間が足りませんでした。

麻雀どころではないけれど、約束なのでそうも行かないと思い、1年間待たせた後ようやく麻雀を開始しました。
私は、そのたった1年間で歩けない程に足を傷めていました。その頃は近所の医者も大病院でも、どこも悪くない
と言われ、では何故こんなに歩けない程激痛なのかと聞いても、さあと言われる始末で(現在では筋肉は使わない
と衰えることは常識ですが)、私はもう諦めてパソコンとの格闘を続けました。
私は、食材を自分で用意し朝昼晩の食事はきちんと作っていたので、自分が病気になる筈はないと信じていたので、
何が起こったのか理解出来ませんでした。
私の膝は元々震災復興の瓦礫撤去作業で傷め正座は出来ない状態でした。そこへ退職後1年間の座りきりの生活で、
ついに膝だけでなく足首にも来てしまい、足首に来たらもう終わりだと言われていました。

そんな激痛の中でも全く自分に容赦ない過酷な日々を過ごし、自分でホームページを作る為に奮闘していました。
その頃は法人がようやくホームページを作り始めた時代で、「ソネット」のサポート部門も法人部にありました。
「個人のホームページを、たった1人で作ろうとしている人が居る。しかも女性だ。」と評判になり、大変親切に
サポートして頂きました。受付は深夜11時迄でしたが、私には延長してくれました。そして個人でここ迄大規模な
ホームページは世界中の何処にもないと言って励まして貰い、ようやくUPに漕ぎ着けた日の喜びは忘れません。
「ソネットさんには足を向けて寝られない。」と言うのが私の口癖でした。
私はその世界に全く無知なので、そんな大それた挑戦をしたのかも知れません。当時目が悪かったのでネットも
見ることができなかったのです。
知人のプロが私の案を「インターネットを知らない人の案だ」と言いましたが、別にいいじゃない自分のホーム
ページなんだからと心で反論し、頑として諦めませんでした。無知の怖さでしょうか?
でもそんな無謀こそ、いかにも私らしいと言わざるを得ません。


そのホームページに載せるイラストを描くべく私は、イラスレーターで絵を描き始めていました。
その頃は、マックの先生でさえもパソコンでは漫画しか掛けないと思っておられたので、写生画に挑戦した
オバサンの私は、専門家に驚かれ注目の的(?)でした。これはどうやって描くのかと聞かれました。
プリーズばかりする発展途上のパソコン、老眼なのに暗く粗く小さな画面と格闘して微細な点描の絵を描く毎日、
酷い頭痛に悩まされ、ついに目を傷めて手術もしました。胃痛と湿疹は日常茶飯事でした。
パソコンなら何でもありの世界だと信じていた私は、出来ないとは考えず、ただ自分の努力が足りないだけだと
思っていたので、試行錯誤の明け暮れで気が付いたら朝日が射していることもよくありました。

絵など描けないと思っていた私が、コンピューターグラフィックを描き、廻りの強い勧めでまさかの「作品展」
を開催。50日間休み無しの開催で650名の来客があり新聞にも載りました。めまぐるしい人生の回転でした。

それでも、私は激しい焦りから眠れませんでした。友人が私の悩みを聞くので打ち明けました。
「この手法は誰も知らない私が開発したものだといくら思っても、老眼と格闘してやっと描いている私、
若くて目が良くて体力もある人達がやれば、すぐ追い越されてしまう。だから寝てはいられない。」と。
すると彼女が言いました。「まさか、こんな苦しい作業を若い人がすると思うの?絶対しないよ間違いなく。」
その言葉に救われました。
そうでしょうね。ここまで自分を追い込む必要はない筈。若い人は違う別の道を見付けるでしょう。
私はたまたまここに辿り着いてしまっただけ。他を知らないだけ…。少し眠れる様になりました。
最近になってパソコンのプロが言いました。「あの時代にあれをやり出したのは凄かった。今ならもっと楽に
あれ以上のことが出来たでしょうね。」と。
当時のパソコンの性能を思えば、プロペラ機での飛行とジェット機の飛行とを比べる様な隔世の感がありますね。



麻雀も始めた以上は遠路はるばる参加し、時には我が家も解放し食事も作ったり、麻雀以外でも毎年10組程の
食事招待をし(粗食、家庭料理のみ)、毎年お正月はおせち接待をしました。
お世話になった方々に一生おせちご招待をするんだと心に決めていました。

一方で、人の為ならどんな無理もしたい私でしたが、遠出をすると帰宅後泥の様な眠りを身体が要求しました。
その深い眠りの中で一種の臭いを感じました。足が激痛の時独特の臭い。あ、やはり酷いのだと分かりました。
脚の炎症から発生する何か(毒素?)が身体中を巡っていると思いました。
その泥の様な眠りから目覚めるのはいつも夜の静寂の中で、雨戸を閉める時隣家の夕餉の団欒の音が聞こえて
きて、どちらかと言うと感謝に溢れて生活していた私も、以前読んだ詩の一節を思い出し寂しさに襲われました。
「夜更け(夜半だった?)に目覚めることこそ悲しけれ」……誰の詩だったでしょうか?深く共感したものです。
目覚めてから晩ご飯を作り(割合きちんとした)食べてから、又明け方迄「トライトライトライ」の毎日でした。
今考えれば、この頃の生活を一言で言えば、まさに「トライ!トライ!トライ!」以外には無い様に思います。

その内にストレスからか両手の激痛が始まり、手が肩から上に上がらなくなり服の脱ぎ着も困難になりました。
両手両足の激痛で起き上がるだけに25分かかる様になりました。(ベッドではなかった)
でも、嬉しいことには手首より先は使えたのです。包丁は持てる布巾が絞れる。助かった!私はツイている!
人はほとんどそれを知りませんでしたし、私はそれで気持ちが萎えることはなく、まだまだ感謝が足りない、
もっとお役に立ちたいと思っていました。そんな明け暮れでした。
震災で命を助けられた運命へ、そしてあの様に長期間の献身的なサポートで家の再建を果たして貰った方々への
感謝の思いから発したとは言え、今から考えれば、まさに狂気の様な日々だったと思います。
良く言えば、ひたむき、悪く言えば頭がおかしい、当時はほんとにテンションが異常でした。

苛酷な毎日だったとは思いますが、私はこの様な苦労は過去に何回かあり(震災の復興の時など、神戸で家を
全壊した私が地震の被害がほとんどなかった大阪の職場で働きながら土日に神戸で復興作業をしていた日々
のことは、人に理解して欲しいと言う方が無理なのです。反対なら私だってわからなかったかも知れません)、
私は子供の頃から、神様が用意された試練は後の苦労を乗り超える為に必要だから準備されたものだと思って
いるところがあり、それを乗り越えて来たのでそれらがまさにこの時の頑張りに役立ったと納得していました。

ただ、私はおしゃべりのくせに自分の状況を言わない傾向があり、震災の時など特に「どうして〜?口がある
でしょうに」と友人に言われたことがあります。窮状を訴えないこの性格が、自分を生き難くしている様です。

震災時の避難生活中の日記が10冊程あります。得難い献身的なボランティアの方々への心からの感謝が綴られて
います。家族がいる人でさえ再建を果たせなかった方々もありましたのに家族のいない私が、しかも勤めている
私が家を再建出来るなんて誰が思ったでしょう。そして避難場所であった寮の皆さんの温かい配慮は生きる勇気
になりました。一方で余りにも苛酷な日々と苦しい不安を書いています。でももう読むことはないでしょう。
 

さて、無理を承知で参加した麻雀は楽しくて、全員夢中になりました。
メンバーの内の1人を除き、麻雀を知らなかった私達3人は麻雀教室に通い基礎を習ってから皆で合流しました。 

その頃です。同じく小学校中学校時代の親友Eさんと感激の再会をしたのです。
その彼女との再会には、二人にとって感動の物語があるのです。
そして彼女を麻雀に誘い合流しました。
何故延々とその頃のことを書いたかと言いますと、その狂気の様な日々の中で彼女と再会したこと。
そのことを、思い出さないではおられなかったからです。

そのEさんが「リリー荘」の名付け親なのです。

ある時、メンバーの家で麻雀をしていた時、私がダントツのトップになりました。
その頃私は「甲南山手」に住んでいて、その日胸に白い百合の花の模様のあるセーターを着ていました。
すると、彼女は突然、「甲南リリーさん、バンザーイ!」と叫んだのです。

その日以来、私の麻雀名(そんなのある?)は「甲南リリー」となり、我が家は「リリー荘」になりました。
これが、リリー荘の名前の謂れです。^^



「リリー荘の名付け親」という、たったこれだけのことを言うのに、余計なことを沢山書いて済みません。
次から次へ湧いて来て長文になりました。お許し下さい。

しかし、これだけ書き連ねても当時の狂気の生活の半分も言い得ておりません。(イヤハヤ!^^!)
 
数年前に狂気から目覚めて、 努力して足も治し、パソコンへの過度な期待は無謀な夢だったと悟りました。
麻雀に何年振りかで参加した時、私がスイスイと歩いて来たので「え〜?本当に◯◯さんなの?足なんて
治るものなの?」と仰天されました。最悪の時はゴミ出しまで人にやって貰っていた私が復活したのです。
私自身の感激たるやいかに! お察し下さいませ!!
 

我が家をリリー荘と名付けられた17年ほど前のことに思いを馳せて、今しみじみしております。

次回は、彼女との感動の出会いに付いて書きたいと思います。
もしよろしければ、次回もお付き合い下さいませ。 
 


(追記)

震災後再建した家に10年間住んだ後に西宮へ転居しました。そこでもう1つ大きな山が待っていました。
高額な家賃の重圧に悩み一念発起「ネットショップ」を目指しました。ネットショップの構築は300万
が相場。素人には絶対無理とのこと。それでもまたもや絶壁をよじ上る思いで、自分で立ち上げました。
何も分からない素人が一人で途方に暮れながらの格闘でした。プロから見たら欠点の多いショップかも
知れませんが、私の全力を投入しました。お陰さまでショップは今年開店10周年を迎えました。

定年後約20年、力のすべてを投入した結果、ようやく心の平安に辿り着きました。仕事の成果は当初の
目標にはほど遠いものですが、得たものがどんなに多かったかを実感します。感謝の思いしかありません。
言い過ぎかもしれませんが、遣り切ったと言う気持ちはこのことでしょうか?それ故の平安でしょうか?
78才にして、ようやく自分の老後に辿り着いた心境です。初めて得たこの平安が長く続きます様に。

 

 
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2017.10.08 我が家(リリー荘)で麻雀会

 

明日、我が家で麻雀会をするという日の様子です。
前日から机や椅子を準備し、点棒も数えて揃え、すぐ始められる様に用意しておきました。

 

何よりの大きな出来事は、テーブルクロスを新調したことです。
今迄の透明マットは、35年程使っているので傷んでいて汚くて、拭いても拭いても
汚いので、毎年お正月には替えたいと思って探していたのです。
思い切って変えました。明るくなりました。
 

 

楽しく遊んでいるところです。
私の成績は、最初は良かったのですが、途中で何故か少牌になってしまっていて、それから
付きが落ちてしまいましたが、結局なんとか2位に留まりました。 

 

    

昼食の時間です。それぞれお弁当を持って来たり、買って来たりです。

皆さん、 <リリー‘s cafe>のエスプレッソコーヒーを喜んでくれました。
機器を買ったことは言っておらず、サプライズでした。

その後、茶道の大家の友人が、お抹茶を点ててくれました。
これも、とても美味しくてお代わりしました。

5時頃終了し、その後1時間程おしゃべりに花を咲かせてから解散しました。
本当に楽しく笑いが溢れた1日でした。
一人が洗面所から戻って来て、「今日は私良い顔してるわ。楽しいからやね。」
と言っていました。それを聞いて嬉しく思いました。

 

 

今日から、「みずえ's cafe」 は、「りりー's cafe」に改名しました。

これについては、ちょっと説明が必要ですね。
<嬉しい出来事>と<抱腹絶倒の話>がいくつもあるのです。
次々素晴しい展開になり、展開が余りにも早い上に、それにからんで笑い転げる
話がいくつも発生するので、ブログが全く追いつかないのが悩みです。
でも、頑張って書かなければ、益々書くことが膨らんで収拾がつかなくなるので
頑張ります。^^
どうか、お楽しみに。 

 

 

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2017.10.04 中秋の名月


 

数日前から、これを飾っています。
我が家の可愛いうさぎです。杵を衝いています。可愛いおだんごができました。
私が大好きなお月見のセットです。

 

    

百貨店で買って来た月見団子です。
このお皿も、うさぎとセットになっています。
月の模様が描かれています。 

 

    

モロゾフで、お月見用のプリンが売られていました。
ここのプリンが食べたかったので買いましたが、これ、どう見ても目玉焼き、
月と見るのは無理がありますね。
ホワイトチョコレートに少量のチョコレートで薄く色を付けたものを、
雲に見立てて掛けるなどしたらどうかな?このままでは、残念!
しかもフルーツ味。プリンが食べたかったので、がっかりでした。  

 

我が家のステージのうさぎ達です。
何枚撮っても、ハレーションを起こしてうまく写りませんでした。
スマホが悪いのか、私の腕が悪いのか?……、え、後者?^^;;

りんどうとおみなえしを飾りました。
ネットによれば、おみなえしの白色のものは、おとこえしと言うとか…。 
と言うことは、これは「おとこえし」ですね。 

 

今日、序でがあったので、又月見団子を買って来ました。撮り直しです。
なだしんの月見団子、6個で400円(だったかな?)。安い!これが美味しい!
なだしんのお菓子は、家で母親が作ってくれていた時代の優しい味ですね。

テレビを付けた状態で写真を撮ると、テレビの明かりが手伝ってくれることが
わかりました。綺麗に写っています。
後ろの画像は邪魔になるけれど。

 

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2017.10.01 水茄子の皮のきんぴらが美味しい。

 

水茄子を買って来ました。
皮をむいてサラダにしましたが、ふと先日、水茄子の皮のきんぴらがどうとか、
どこかで読んだことを思い出しました。
それであわてて、捨てかけていた皮を洗って、斜め線切りにして炒めました。
醤油と酒と鷹の爪で味付けして、白ごまを掛けました。

美味しい〜! こんなに美味しいとは思いませんでした。
私は、大根の皮のきんぴらが大好物ですが、こちらも大好き!大発見です!
大根の皮のきんぴらの方が香りは良いですが、茄子の皮の方が味は濃いです。 
さすが、ポリフェノールの固まりですもの、美味しいに決まっていますよね。
普通、捨てられる皮でこんなに喜ぶとは、さすが「粗食研究家」でしょう?^^

水茄子の中身の方は、フレンチドレッシングでサラダにしました。
フレンチドレッシングは、酢、塩、オリーブオイル、胡椒、少量の醤油で、
いつも、その都度作ります。
私は茗荷が大好きなので、いつもサラダに加えます。
茗荷は、味噌汁の薬味にも、お吸い物にもよく使います。
たっぷりの若布と茗荷のお吸い物は大好物、これがあると癒されます。

あと一皿は、焼き野菜と牛肉のソティーです。塩で食べます。
なお、焼き野菜でも茗荷の4つ割を焼きます。これがとても美味しいのです。
これを教えて上げたら必ず喜ばれます。この美味しさは意外だったと。

この頃は、友人のご主人手作りの梅酒を冷水で割って美味しく頂いています。
 

 

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