「今年は古事記の編纂から1300年になる」と長老が言う。私が「戦前に教育を受けた皆さんたちは、学校で古事記を勉強したのですか」とたずねると、「学校では古事記は教えないよ。日本書紀だね」と言ってニヤリと笑う。「日本の神話という子ども向けの本ではなくて、原本を読むとおもしろいよ。もっとも原本は存在せず、その写本だけどね」と言う。私は古事記を読んだ記憶はないけれど、それでも神様の名前、たとえばアマテラスオオミカミ、その弟のスサノオノミコト、イザナギノミコトとイザナミノミコト、神様ではないけれど因幡の白兎やヤマトタケルとその物語などは覚えている。
「それで、日本列島を造ったのは?」と言うから、「イザナギノミコトとイザナミノミコトで、天から頂いた矛でどろどろとしたものをかき回し、その矛の先から滴り落ちたものが日本列島になったのでしたか」と答える。「それでどうした?」とさらに問われる。「イザナギノミコトとイザナミノミコトが地上に降りられ、家を構えられた」。「それで?」「子どもをつくられた」。「その時の会話が面白いが、知っているか?」「いや、正確には」。「日本では女の方が積極的だった」と長老が笑う。そんなやり取りがあったことを思い出した。
イザナギノミコトがイザナミノミコトに「あなたの身体はどうなっている」と問い、それに答えて「私の身体は、成り成りて成り合わぬところがひとつある」と言う。イザナギノミコトは「私の身体は、成り成りて成り余れるところがひとつある。私の成り余れるところをもって、あなたの成り合わぬところをさし塞ぎて、国を生もうと思うが、どうだろう?」と言うと、イザナミノミコトは「それはいい」と答えた。余っているところと足りないところを合体させようというセックスの提案だけれど、実にあっけらかんとしている。
イザナギノミコトとイザナミのミコトは兄と妹だという。漢字では「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」と書く。「イザナ」は誘うの語源で、「ギ」は男を「ミ」は女を表しているというのは本居宣長の説だ。漢字の「岐」はやまの意味があるというから、「成り余れるところ」と一致すると思うし、「美」は肥えた羊で、うつくしいとかよいという意味である。近親相姦については世界中であった。チンパンジーの研究家が、サルの世界でも起きるので、群れを作り出て行く習慣があるのは近親相姦を避けるためだと述べていた。
「日本は昔から性に関してはおおらかだったのだ」と長老は言う。古事記の男女はもちろんだけれど、その後の平安時代から、儒教が広がった江戸時代でも、日本人は性について難しいことは言わなかったようだ。奈良時代の歌垣という儀式は男女が集まって歌を歌って踊りを踊っているうちにふたりずつ消えていくというし、盆踊りは出会いの場であった。祭りは性を解放していたのだ。また、夜這いと言う習慣もあった。父親が誰なのか分からない子が生まれていいのかと今なら問題になるけれど、昔は村全体の子どもとして育てられた。なるべく血縁でない者との交わりを求めていたのだろうか。
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