友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

違和感ばかり残る

2010年04月18日 20時41分05秒 | Weblog
 選挙にかかわった人はおそらく少ないだろう。今回、応援する側に回って、応援することの難しさというかしんどさというか、並みの神経では務まらないなと感じた。おそらく私が候補者に心底惚れ込んでいたならばまた別の苦しみであっただろう。私の応援の動機そのものが、私を応援してくれた高齢の女性への義理を返すという不純なものであったことが、私の苦痛の最大の要因なのだろう。

 「政策を考えてくれるだけでいい」と言われて、余りにも正直に受け止めてしまった。実際に選挙の準備に取り掛かると、人が少なすぎる。私ともっとも気心が通じ合う71歳のふたりの男性に手助けをお願いした。私を仲間に入れた候補の応援者は、私の後援者の名簿なり、あるいは選挙運動を担ってくれる大勢の仲間が欲しかったかもしれない。候補者の後援会へ私自身は一人の名前も書かなかったことを不審に思っていることもわかっていた。

 私を引きずり込んだ高齢の女性から何度も「名簿を出して」と請われたけれど、私はもう選挙に出ないと決めた時、未練があってはならないと全ての名簿をシュレッダーにかけた。パソコンに残っていたものも全て消した。「せめて、何人か思い出して出かけていって欲しい」とも言われたけれど、本当に私のことを理解してくれていると思っている人たち以外には行く気になれなかった。

 候補者が勝利できるように、そのための政策やスローガンや戦術は考え実行してきたけれど、不特定多数の人々に働きかけることは出来ても、私の選挙を支えてくれた人たちに「私からお願いをする」ことには躊躇してしまった。皆さんが候補者の政策や人柄を判断し、投票してくださることを願い、私自身が一人ひとりにお願いして回ることを避けた。候補者ははじめ私と会派を組んでくれたけれど、保守を追い詰めていた最中に引きぬかれて鞍替えし、次の選挙では民主党で立候補するという離れ業したので、私にはそういう政治姿勢が理解できないからだ。

 さて、いよいよ明後日から選挙戦に突入するという段階になって、突然「プロの選挙屋」という集団がやってきて指揮を始めた。けれども私には彼らの選挙はこれまでの保守がやってきた選挙でしかないように思えた。数字の分析などやって見せてくれたけれど、それもさして珍しいものではなかった。「プロの選挙屋」という割には公職選挙法のことに精通していなかったし、政治活動と選挙運動の区別とその活動についても具体的な提案はなかった。あったのは、「最後は候補の連呼だけです」と、私がもっともダメだと思っている戦術を言われた。

 この人たちは一体何者なの。どうやら候補者とは親しい仲間のようだけれど、こんな違和感を持ったまま、平気な顔をしてまだニコニコしていなければならないのかと思うとやはりやりきれないな。
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