父の日記やノートやアルバムなど、全て燃えるゴミとして出した。母が亡くなり、母の物などを整理していた父が、バラバラになっていた写真を丹念にアルバムに貼り直していたことを覚えている。父が亡くなった後、段ボールに詰めてどんなに引っ越しても持って来たが、実際に吟味してみれば要らないものばかりだった。結局、その人が亡くなれば、その人の持ち物も意味がなくなるのだ。
私もそろそろ自分の物を整理し、燃えるゴミで出そうと思うのにまだまだ出来ていない。先日の朝、用があって喫茶店に入った。朝の喫茶店はかなり混み合っている。客の殆どが高齢者だから、「年金喫茶」と呼称されるのも分かる。ひとりの老人が店に入ってくるとウエイトレスは知り合いなのか、「11時でモーニングの締め切りだから、もうそろそろ来る頃だと思ってたわ」と客を案内していた。
「いつものでいい?」と客に訊ねる。男は小さく頷くだけでしゃべらない。ウエイトレスは「今日は暖かいから、ゲートボールによかったわね」と一方的に話しかけている。なかなか優しい女性だ。年寄りにとっては、たとえ仕事であってもこんな風に声をかけてくれる女性がいるのは嬉しい。そんなウエイトレスの気遣いが客を呼ぶのかも知れない。高齢のふたりの女性客にも「今日のランチはね」とメニューの紹介をしていた。
そのふたり連れは盛んにダンナの話をしていた。「私がさあ、スーパーで30円も安く買えたと話しているのに、『それで』とか『だから』とか言うのよ。そんな風に言われたら、話せないってことが全然分からないのよ」。「まだ話し相手になってくれるからいいわよ。ウチのなんか、『だからお前はダメなんだ』と決めつけるのよ。あんまりだったから腹が立って、『だったら、何もかも全部ご自分でやったら』と言い返してやったら、大喧嘩になっちゃって」と話していた。
喫茶店のウエイトレスのような「思いやり」とか「心くばり」は無理なのだろうか。それともあの優しいウエイトレスも家ではダンナにガミガミと言っているのだろうか。どんな人も生きている間は意味があっても、死んでしまえば存在すら忘れられる。そんな当たり前のことなのに、人はなぜか拘って生きているようだ。
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