私は写真や絵の額がちょっと斜めになっていても気になる方なのに、数字になると関心がない。血圧が150を超えたとか、室の湿度が25%を切ったとか、数字にとても敏感な人がいるが、学校の成績とか順位なども余り気にしたことがない。地域新聞を作っていた時も、広告集めに必死だったが、具合よく割り付けが出来ればそれ以上数字を上げようと思わなかった。
多分、数字に縛られてしまうことが怖かったのだろう。自ら進んで自分の健康状態を数字で把握しようとするより、どこかが悪ければ必ず何か信号が出ると思っている。何も進んで病気を探すことはない。そうした点で私はすこぶる感覚的な人間のようだ。それにこの歳だから、いつか必ずこの世を去ることになる。それまで、精いっぱい生きられればいい。
先日、エレバーターで小学校の懇談会から帰って来た若いお母さんと一緒だった。懇談会で担任から「もうすぐ中学校だから、もう少し勉強させなさいと言われてしまった」とお母さんは恐縮していた。小学校の懇談会は学校や家庭での生活や悩みなどが中心なのかと思っていたからビックリした。勉強させるって、「学習塾に行きなさい」ということなのだろうか。
以前は学校の空き教室を学童保育に充てていたけれど、今、それでは追い付かなくて校庭の一角に学童保育の建物を造っている。それだけ多くの母親が働いているということだ。正に安倍首相の言う「一億総活躍社会」に向かっている。加えて、閉じられた世界だった学校も、地域の人たちが花壇の整理や学習の補習を担うようになってきた。学校にいろんな人が入ることを私はよいことだと思う。
ただ、数字ばかりにとらわれずに、子どもたちがのんびりと生きていられる社会にしてあげたい。中学でのことよりも、「勉強するってこんなに楽しいのか」と子どもたちが思えるような指導をして欲しい。子どもだけでなく、人はいつも、知らないことを知る喜びを持っているのに、数字が重圧になっている。この苦しみから逃れることは出来ないだろうか。
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