友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

高校野球を観戦しながら思うこと

2009年03月27日 18時05分31秒 | Weblog
 孫娘と二人でお昼を食べて、そのまま高校野球をテレビで観ていた。「ねえ、野球は誰が考えたの?」と言う。誰が考えたものなのか、私は知らない。「野球とかサッカーとかラグビーのような集団のスポーツは、遊びの中から生まれてきたんじゃないかな。やっているうちに段々とルールが決まり、今のようになったんだろうね」。自信はないけれど、多分そんなものだろう。

 陸上競技とか水泳競技のように古代からあったスポーツは、自分の体力や技術で競うことができる。集団の競技はいつから生まれたのだろう。選手一人ひとりの能力も大事だが、チームワークとそのための技術と戦術がより勝敗を決めることになる。かつて高齢者の間でゲートボールが盛んに行なわれたが、いつの間にか下火になった。その理由を尋ねると、「高齢者は集団プレーができない」ということだった。

 ゲートボールはチームワークを必要とする。自らを犠牲にしなくてはならない時があるのにそれを嫌がったり、負けたりすると他の人のせいにしたり、監督の指示を無視したり、内輪もめが絶えない。これでは競技にならないし、やっていても面白くない。だから個人技のグランドゴルフが主流になっていったという。高齢者はチームプレーができないのか、なるほどと私は合点してしまった。

 いつも人に気を遣って生きてきて、自由の身になったと思ったのに、今更また人に気兼ねできるのかと思ってしまうのかもしれない。いやそんなことはない。高齢者だって、野球やラグビーのチームがあると反論もあるだろう。けれどもそういうチームはずっーと長い間、プレーを共にしてきている。還暦を過ぎてから、ご近所の皆さんでやりましょうというには、自己犠牲を強いらず、他人を非難したりせず、無理なくできるルールのものの方が向いているのだろう。

 集団競技となると人はどうしてもエキサイトしてしまう。今日の高校野球を見ていても、1点差の9回のウラ2アウトで走者が2・3塁となると、勝っている方を応援していれば絶対に押さえよと思うし、負けている方を応援していればここで一発大逆転せよと期待する。集団競技は勝敗を求めるから、どちらかが勝ちどちらかが負ける。精一杯にプレーできればそれでよしとすべきだと私は思うが、どうしてあんなに非難の応酬になるのだろう。

 あのWBCの試合でも、日本の選手はダブルプレーを阻止するためにセカンドの選手に体当たりしている。本人も「意識してやった」と言っていたし、解説も「ガッツのあるプレーで勝利を引き込んだ」と賞賛していたが、私は少しもフェアなプレーと思えない。集団競技にはこうしたプレーがよく見られる。それをチームのためによくやったと言うが、私は嫌いだ。私の精神が軟弱なのだと思うけれど、とても受け入れられないプレーだ。
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