友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「アルジャーノンに花束を」を観て

2008年07月16日 23時30分46秒 | Weblog
 誰がこんなドラマを考えたのだろう。脚色も演出もよく出来ていて、なかなかいい芝居だったけれど、私は誰がこの作品を作ったのかに興味を持った。友人から聞くところでは、既にこのドラマはテレビで放映されたそうだが、残念ながら私は見ていないので、テレビ作品についてはわからない。私が魅入られたのはドラマの主題といっていいと思う。

 今日の名演は、劇団昴による『アルジャーノンに花束を』だった。アルジャーノンは実験用のネズミの名前だ。主人公チャーリー・ゴードンは生まれつきの障害で、8歳くらいの知能しかない32歳の若者だ。脳科学の研究家が、脳を発達させる酵素を発見し(?)、ネズミのアルジャーノンの次に人体実験をしたのが主人公という設定だ。チャーリーは手術のおかげで次第に天才へと生まれ変わっていく。

 チャーリーは頭がよくなったおかげで、自分を考える。みんなが自分をどのように見ていたのかを考える。父と母が白痴の自分の育て方で対立し分かれてしまったこと、妹の苦しみ、引き取って働かせてくれたパン屋で一緒に働いている仲間たちがどのように自分を見ているのか、知能が高くなるにつれ、今まで気がつかなかったものが見えてくる。白痴を無くすことが出来ると研究をしている教授たちも名声や保身の虜であることがわかってくる。

 ネズミのアルジャーノンと一時姿をくらますが、アルジャーノンの異変から自分自身の未来を予測し、実験が不成功であったことを公表する。天才から再び白痴に戻り、昔の仲間たちに暖かく迎えられる。チャーリーは普通の人になっていく過程で、自分を引き立て手術に導いてくれた女教師に恋心を抱くが、もう一人のチャーリーはこれを許さない。女教師もチャーリーを愛するようになるのに、再び白痴のチャーリーに戻っていくと、彼から離れていく。彼女は普通のチャーリーに恋され、そして恋したのだから当然の結末なのかもしれない。全く違う人格に恋することは不可能だろう。人が恋するのは目の前にいる恋する相手の全てであって、それ以外の何者でもないはずだ。

 チャーリーは再び白痴に戻るが幸せそうだ。と言うことは、人の幸せを作者はこのように結論付けたかったのだろうか。私はそうではない気がしている。人は確かに知能が高くなることで幸せをつかむことが出来るのかと言えば、ノーであろう。じゃー逆は真なりかと言えば、それもノーだ。無理やり知能を高めることはない。人は神が与えた自然に従うべきだと私は思っている。現実の人間、手を加える必要もない。あるがままを受け入れるのが一番だと思う。

 チャーリーは人生は迷路だと言い、ここから抜け出そうとした。人が生きるということは迷路の中を右往左往することに似ているかもしれない。それでいいじゃないか、それが人間なのだから。私はそう思う。愛し合ったり、憎みあったり、悲しんだり、喜んだり、そのうちに終わりが必ず来る。結論はそのときでいい。出せなければそれもまたいい。
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