小学校や中学校で、運動会や体育大会を4月に行なうところもある。9月は暑すぎて子どもたちが大変すぎることと、新学期早々にこうした全体の行事を行なえば、クラスのまとまりが早くから生まれると考えてのことだ。しかし、実際に行なってみると、クラスの誰もがよく分からないのでかえってまとまらないと言う意見もある。
確かに練習風景を見ていると、9月の運動会や体育大会はきつい。高校はなるべく勉強時間を確保したいので、9月中に体育大会も文化祭もやってしまうところが多いようだ。私たちの頃は運動会や体育大会は10月半ばではなかっただろうか。この辺では一時期、運動会は平日に行なわれていたが、それでは子どもの姿を写真やビデオに撮れないというので、この頃は土曜日か日曜日に行なわれるようになり、地域の祭りのような役割になってきた。
私の友だちの日教組嫌いは、「競争をさせないのはけしからん」とか「順位をつけないのは意味がない」とか、盛んに非難するけれど、実際の運動会では徒競走は相変わらず行なわれているし、騎馬戦や組体操なども続いている。1位、2位、3位の順位は付けられ、勝ち組と負け組に分けられる。力を合わせれば勝つことが出来るし、まとまらなければ負けてしまう。それを学ぶことの意義は大きいと私も思っている。
肝心なことは、走るのが速い人もいるし遅い人もいる、運動神経がよい子もいるし鈍い子もいる。それらはみんな個性であって、それが優劣ではないことを脳裏に叩き込むことだ。みんなそれぞれに違いがあり、それぞれ価値を持っている、それをお互いに活かしていける社会をつくること、子どもたちがそう考えるように教育していくことが大人の務めだ。そのためには大人もキチンと、人と人の違いを認め、助け合うことだろう。
「力が正義」という社会には人の優しさが感じられない。弱者はどうやって生きていけばいいのかと絶望的になる。先日、地下鉄に乗った時、若者がすぐに席を譲ってくれた。仲間のふたりが礼を言うと、「いいえ、皆さんの権利ですよ」と言い、「もし、譲らないようなヤツがいたら、ドケと叱ってやってもかまいません」と付け加える。なかなか過激なアンちゃんである。驚いたひとりが「そんなこと言って、ブッサと刺されたらかなわん」とつぶやくと、「みんなが助けます」と真剣になって言う。
若者の好意はありがたいとは思うけれど、年寄りたちが皆、座るのは権利だと主張するような社会をよい社会だとは思えない。年寄りや目上の人に対して、何も考えず自然に席を譲ることの出来る社会の方が気持ちよい。年寄りも座るのが権利だとばかりに、わざと若者の前に立ってジロジロ見るような行為は卑劣だと思うような社会であって欲しい。他の人のことに心配りが出来る社会なら、助け合うことに何の躊躇もないだろう。力を誇示することのない社会でありたい。