北風が激しく吹き付けている。時々、風に乗って雪が舞っている。今日は寒さが厳しい。昨日のカミさんの実家での「新年の集い」で、70歳になる義理の妹が、「いい人生だったと思う」と言った。いろんなことがあったから、不満というか、悔いといか、不幸せを呪うような言葉が出てくるのかと思ったから意外だった。今が幸せなら、それでよい。
ふと、人は何のために生きるのだろうと思った。そしてすぐ、何かのためではなく、「生きるために生きる」しかない気がした。新成人にインタビューで「何になりたいですか?」と聞くが、果たして20歳の時、私は明確な目標を持っていただろうか。大学も入れるところで、好きなことが出来ればよかった。大学を出て、どうするというイメージもなかった。高校の教師は自分に合っていたが、続けていればアーチストか教師かで迷っただろう。
若い人で明確な目標を持っている人が羨ましい。同時に、そんな目標を持つことが出来るのかという疑念を持ってしまう。「流されて」生きて来た。生きた「その場所」で、必死になって、自分の価値を求めて来た。「この世に、必要でない人はいない」。実際、そう思う。生きていることは、必要とされているからと勝手に信じている。でなければ、人生は惨めなものになってしまう。
E.M.フォースターの『モーリス』を読み終えた。長女のダンナは自称「モーリス」で通している。「モーリス」の由縁を聞いても、ハッキリしない。音楽好きなので音楽家の名前かなと思ったが、そんな人は見当たらない。そんな時に書店でこの文庫を見つけ、早速読んでみた。結論から言えば、同性愛の物語だった。
20世紀初頭、イギリスでは同性愛は法律で禁じられた犯罪であった。男が男に恋することと、男が女に恋することに、違いが無いことまで、私には分からないが、少年から青年となり、社会人となっていく過程での葛藤は理解できる。私もまた友だちと、「理性とは欲望を隠すために生まれたもの」などと議論した。「人生の意味は、自分の価値を見出すこと」などとも言い合った。
今晩はお世話になった人の通夜が行われる。知らない人ばかりの葬儀に参列しても意味がない。皆互いに、参列していることを確認することが葬儀の意義なら、大勢がいる通夜に行くしかない。
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