押入れの奥の段ボール箱にいろんなものが入っていた。中学3年から高校3年にかけて書いた詩や手紙や原稿の下書きがあった。原稿用紙5枚の『黒吐(コクハク)』は高校2年のもので、青年期の苦悩が如実に描かれている。文芸部の機関紙の原稿だが、朱色のペン文字で先生の感想が書いてある。確か、「自己満足な文章で、掲載する意味がない」とボツになった。
私は小学校の高学年からキリスト教に興味を持ち、中学生になってルーテル教会に通うようになった。教会が行ったサマーキャンプにひとりで出かける熱心な生徒だった。キリスト教の原点は原罪にあり、人々は生まれながらに罪人である。高1の私はガンで入院中の母に、「病気は神様からの恵みだよ」と告げるほどの信者になっていた。牧師も私に「牧師になりなさい」と勧めた。
私が牧師になれなかったのは、自分の罪が大きいと思い込んだことだ。私は中学から好きな女の子がいたのに、高校生になって別な女生徒をもいいなと思うようになった。それだけでなく、年上の女性の官能に憧れていた。今なら当然なことと理解できるが、その頃は罪の意識で破滅しそうだった。自分の罪について他人に話すことは出来ない。それが『黒吐』だったから、先生はなぜこんな文章を書くのかと思われただろう。
「一体俺は何なのか」ではじまり、最後も「一体俺は何をすればいいのだろう。俺の前途にあるものは。俺が最後に至り着くところは。俺は‥‥。俺は‥。」で終わっている。苦悩は「俺はまともじゃない。まともじゃないことに誇りを持っていて、社会的な落伍者にしていっている」と続き、だから「勉強する気にならないのだ」と結びつける。大学に行くことがどんな意味があるのかと問い、「俺はつまらない男、価値のない男かも知れない。それでもいいじゃないか」と再び開き直る。
確かに先生が、「一生懸命逃避しようとしている。自己の運命を賛美し、この試練を大手をひろげて受け入れる勇気を出すのだ。君の栄光のために」と朱色で書いてくださった通りだったが、当時は何も分からなかった。それにしても55年も経っているのに、少しも成長していない。
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