85歳の日本の女性が、アフリカのタンザニアで学校を建てる活動をしている。少しボケが来た(?)ダンナを家に置いたままでは出かけられないからと、今回はダンナも連れてタンザニアまで行って来た。歳を重ねると女性は元気で活き活きとしているのに、どうも男性は60歳までの職場が厳しかったのか、元気が無い。この女性は奈良高女(奈良女子大)出の才女のようで、若い時は「サヨク」だったという。どんな風に時代を生きてきたのか、何を求め、何を考えてきたのか、ぜひお話が聞いてみたい。
16歳の女の子が同級生の女の子を殺して山中に捨てたという。殺してしまった罪よりも、これからの不安を語っているという。殺すに至った原因も、悪口を言ったというような、よく分からないほど些細なことのようだ。しかも、殺された女の子と初めて会ったという少女までが犯行に加わっていたり、残虐行為の現場にいる。なんとも思慮の無い子どもたちか。感情が無くなっているのか、それとも弱い者を傷める時の感情の昂ぶりに流されているのか。最近、こういう若者が増えてきていないか。
子どもの頃、年寄りは嫌いだった。威張っていて、理不尽なことを言い、権力を持っていた。年寄りがいなければいいとさえ思った。少なくとも自分は、横暴で支配的な年寄りにはならないと思ってやってきた。けれども今、70歳が目の前に迫る年寄りになると、果たして自分は若者との差のない老人になっているかと不安になる。子どもの目から見れば、若者の立場から見れば、私が子どもの頃に感じた老人と変わらないのではないだろうか。いつの時代も、子どもや若者と老人は相容れないものがある。それは超えることの出来ない世代の違いというものだ。
1960年の若者たちは社会を変えられると思っていた。1970年の若者は身体ごとぶつかって社会を変えようと思っていた。ところが社会はどんどん勝手に発展していった。科学は人の英知を超えて進歩した。人間はこの発展と進歩に振り回されている。今、年寄りになってみて、社会は世界は、人が創り出していくが、人はどのように生きても、その生きた道筋は、そんなに変わらないと思う。友だちが言っていた。「明日はどうなっているか分からない。だから、今日を目いっぱい生きる」と。