先日、一宮市へ井戸掘りに出かけた時、満開の萩を見た。暑い暑いと思っていたが、秋は静かに進行している。お彼岸には必ず花が咲くヒガンバナも、今年は暑さのために遅くなっていると言われているが、見渡せばあちこちで咲いている。我が家の鉢植えの日日草はすっかり背が伸びて、根元の葉は黄色くなってきているから、やがて限界に達するのだろう。サルビアは咲き終わった花を何度か切ったので、10月末までは咲き続けると思う。未だに貰い手のないナンキンハゼはもう葉の色が一部赤くなってきた。
そういえば、心なしか虫の音が弱くなってきたように感じる。今は余り見かけなくなったけれど、土手にアザミが咲いていた。アザミは高地の花なのだろうか。そう思ってしまうのは、『アザミの歌』の出だしが、「山には山の 愁いあり」で始まるからだ。しかし口ずさんでみると、その次の歌詞は、「海には海の 悲しみや」とあるから、どうやら切ない気持ちを表しているということなのだろう。作者は野のアザミに恋人のことを思ったのだろうか。
最近の『短歌』に、恋の歌はどんなものがあるかと探してみるが、社会批評や自然描写はよく見かけるけれど、恋を歌ったものはないようだ。いつだったか、20年くらい前だったか、北海道の19歳の女性が作った短歌集を読んだ。なかなかいいなと思ったのに、その本は人に貸してあげたまま戻ってこないので、どういう書名で誰だったのか、わからないのが気になって仕方ない。私には俵万智さんの『サラダ記念日』と同じくらい衝撃的だったのになあー。
角川の『短歌』10月号は、「口語歌のすべて」が特集されていたので買ってみたけれど、やはり恋の歌は俵万智さんくらいしかない。私は俵さんの歌は好きで、読めばなぜか、ニンマリしてしまう。ただ彼女の歌は明るくて肯定的で、人の底のドロドロしたところがない。恋や愛を短歌で表すことが出来にくい時代になってしまったのか、題材としては扱いにくいのか、どうしてなのだろうと思いながらいろいろ短歌を見ていたら、こんな歌が目に留まった。
「なつかしき あだ名でわれは 呼ばれつつ レモンサワーで しゆわしゆわと酔う」
「いま少し 飲みたかりしが 友はもう 向こうの岸まで さしかかりたり」
「亡き母に 似て来し素顔に 眉を引き 近・乱・老の めがね馴染ます」
「あれこれを 味はひ尽しし 来し方か 賞味期限の 過ぎしを捨てむ」
「抱きしめて 白き乳房に かぶりつき 稚児のごとに われ頬張れり」
若い人は短歌など作らないのだろう。どの歌も年寄りくさい。