前回ブログまで述べたことからして,債権者が任意の時点を捉えて損害額の基準時としてよく,裁判所はこれに拘束されるという多元説は,判例分析としも,現行法の損害賠償法の考え方としても,おそらく間違っていると思う。おそらく,損害額算定の基準時が争われた場合は,裁判所はどちらの主張がよりベターか(当事者の主張,立証内容によっては,ベストの判断が出来ない可能性がある)について判断するはずで,決して債権者側のいいなりになっているだけとは思えない。そして,値上がり益の賠償について,一応民法416条で処理するというのが現行法における判例の一般論だとすれば,予見可能性を求めるのは,具体的事案における妥当な解決として,一定程度機能しているように思うのである。
多元説が単に任意の時点を捉えてよいというのであれば,予見可能性を求めずに任意の時点を選択できるという理解かと思うが,そのような理解をしてしまった原因は,おそらく判例分析が正確ではないからである。上記のように予見可能性があることに争いがなければ,予見可能性が必要か否かが判旨には現れてこない可能性があるのである。損害賠償の判例分析においては,そのことを忘れてはいけないと思う。
つまりは,損害賠償の範囲や額に関する判例は,常に「当事者の主張,立証を前提とすれば」という枕詞をつけて分析せざるを得ないと思うのである。そのため,この分野の判例分析は,当事者の主張,立証内容を踏まえた上での分析でないと,おそらくそれほど意味がない判例分析となってしまうのである。
学者から怒られることをいとわずにあえて言えば,損害賠償の範囲の問題は,最も机上の空論になりやすいところだということである。実務家から言わせれば,判例の存否及びその内容の紹介以上には,学者の判例分析やそれに基づく理論建てが実務的に最も役に立たない分野であろう。
債権法改正の議論においても,損害賠償の範囲の問題については,学者は実務家の意見を十分に尊重した上で立法化すべき部分だと思う。
言い過ぎだろうか。
多元説が単に任意の時点を捉えてよいというのであれば,予見可能性を求めずに任意の時点を選択できるという理解かと思うが,そのような理解をしてしまった原因は,おそらく判例分析が正確ではないからである。上記のように予見可能性があることに争いがなければ,予見可能性が必要か否かが判旨には現れてこない可能性があるのである。損害賠償の判例分析においては,そのことを忘れてはいけないと思う。
つまりは,損害賠償の範囲や額に関する判例は,常に「当事者の主張,立証を前提とすれば」という枕詞をつけて分析せざるを得ないと思うのである。そのため,この分野の判例分析は,当事者の主張,立証内容を踏まえた上での分析でないと,おそらくそれほど意味がない判例分析となってしまうのである。
学者から怒られることをいとわずにあえて言えば,損害賠償の範囲の問題は,最も机上の空論になりやすいところだということである。実務家から言わせれば,判例の存否及びその内容の紹介以上には,学者の判例分析やそれに基づく理論建てが実務的に最も役に立たない分野であろう。
債権法改正の議論においても,損害賠償の範囲の問題については,学者は実務家の意見を十分に尊重した上で立法化すべき部分だと思う。
言い過ぎだろうか。
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