実務家弁護士の法解釈のギモン

弁護士としての立場から法解釈のギモン,その他もろもろのことを書いていきます

判例は形式的表示説?(7)

2016-07-25 13:13:32 | 民事訴訟法
 古い判例は、当事者確定の問題について、意思説または行動説だといわれているようであるが、最初に紹介した昭和48年判例は、実は表示説、それも訴え提起時は形式的表示に従って処理しており、そこでの一応の被告は新会社である。そして、問題が発覚した後も新会社をそのまま被告として判決しても、紛争解決の上からも問題ないから、最高裁は最後まで新会社を被告として扱ったのである。これが私の見方である。
 そうだとすると、現在の判例は(形式的か実質的かはともかく)表示説を採っていると言えないだろうか。

 また、古い判例を私はちゃんと分析したわけではないのだが、意思説や行動説を採ったといわれる古い判例も、もしかしたら私のように考える実質的表示説で説明ができるということはないのだろうか。

判例は形式的表示説?(6)

2016-07-19 10:09:00 | 民事訴訟法
 あえていえば、当事者確定の問題は、実質的表示説といっても、訴え提起当初は、当事者が誰なのかは確たる人物と判断しないまま、形式的に原告や被告と表示された者を含めた、その周辺人物のうちの誰かという形で漠然とした当事者像の中でスタートせざるを得ず、ただ、通常は形式的に表示された当事者がそのまま真の当事者であることが圧倒的大多数であるし、形式的表示に従って訴訟を進行させるしか進行のしようがない。そのため、スタート時点では形式的な表示に従うが、その形式的表示で当事者が「確定」されるわけではなく、「一応」の当事者であり、真の当事者として有力な候補者の一人でしかない。このようなスタート状態における当事者の形式的な取り扱いを、行為規範といってもいいのかもしれない。
 しかし、一定程度訴訟が進行した後、いざ当事者確定の問題が生じた場合は、当事者候補たるその周辺人物の中から紛争解決にふさわしい者は誰なのか、その者が実質的に訴状に当事者として表示されていたといえるか否か、その者に対する手続保障は満たされていると言えるか否か、といったことを考慮しながら、最終的に誰が当事者であったかを判断せざるを得ない、ということではないのだろうか。そして、紛争解決にふさわしい人物が、実質的に訴状に当事者として表示されていると判断でき、手続保障も満たされているならば、その者が実は当初から当事者だったのだと評価できることになる。これを評価規範といってもいいのかもしれない。

 ただし、私の理解では、スタート時点の当事者が、事後評価の上での真の当事者に「入れ替わる」のではなく、遡って当初から実質的当事者が真の当事者だったといえる状況がなければならないと思っており、事後評価としての真の当事者として評価可能な範囲が、訴状の実質的記載という枠でくくられるというイメージを持っている。この枠に収まらなければ、事後評価上の真の当事者が当初から当事者として扱われていたと評価することは不可能だからである。
 そうだとすると、当事者確定の問題として典型的に問題とされる氏名冒用訴訟では、冒用者が訴状に当事者として実質的に記載されていると言えるかというと、おそらくそのようには言えないのが通常であろう。従って、私の理解ではやはり訴状に当事者として記載された被冒用者が当事者だといわざるを得ないだろうと思っている。被冒用者にとって不都合は大きいが、被冒用者の救済は別に考えるべきだろう。

判例は形式的表示説?(5)

2016-07-08 10:27:58 | 民事訴訟法
 以上のように考えて見ると、これから訴訟を進行させる上で誰を当事者とすべきかという行為規範と、一定程度訴訟が進行した後に遡って当該訴訟の真の当事者は誰だったかという評価規範を分けて考えるという規範分類説のいうことにも、意味があるようにも思うのである。
 ただ、規範分類説を唱えている学者の考え方は、例えば氏名冒用訴訟における評価規範としては冒用者を当事者と見て冒用者と相手方との間で判決主文の効力を生じさせるなど、あまりにもドラスティックに見える。そのため、なかなか実務では取り入れにくいのであろう。

 しかし、実質的表示説も、結局のところは、訴訟進行中や判決確定後に当事者確定の問題が生じた時に、これまで進行してきた訴訟状態を踏まえた上でもう一回訴状を見直して、実は真の当事者は形式的に当事者と記載されたものではなく請求の趣旨、原因も踏まえた場合には別人と理解することも可能な訴状であって、そのような人物を当初から訴訟当事者だったとみなして扱うことが、これまでの訴訟進行状態(特に手続保障の観点)からして妥当か否かということを考え、妥当であれば、当初からその別人を訴訟当事者だったと扱ってしまうという、事後評価を行うことを当然の前提にしているのではないだろうか。