実務家弁護士の法解釈のギモン

弁護士としての立場から法解釈のギモン,その他もろもろのことを書いていきます

判例は形式的表示説?(4)

2016-06-29 15:03:18 | 民事訴訟法
 そもそも、当事者確定の問題は、私には理解しにくい部分がある。なぜなら、果たして当事者を誰と見るべきかが具体的に問題となる場面は、常に一定程度訴訟が進行した後に発生する問題であり、場合によっては、訴訟が終了した後の既判力が及ぶ当事者の問題として現れると思われ、教科書を書く学者もそのことは当然の前提としているとは思うのだが、実際に教科書を読んだだけでは、そのあたりが必ずしもはっきりと伝わらないような気がしてならないからである。
 それとも、私の教科書の読み方が甘いのだろうか。

 いずれにしても、実務では、訴え提起時(裁判所の目から見れば、訴状の受理時)は当事者が明確か否か(すなわち特定性)だけが問題になるだけだと思われ、そこで特定された当事者が誰かは、とりあえずは形式的な処理をするしかないと思われるのである。

 つまり、実務を行っている者の感覚として、訴え提起当時は当事者欄に原告・被告と記載された者を一応の当事者として扱わざるを得ないと思われ、例え実質的表示説と言ってみても、訴状を受理した裁判所が、訴状の当事者欄のみならず、請求の趣旨・原因を眺めたところで、この訴状における実質的当事者は形式的に当事者欄に記載された原告や被告とは異なると判断できることなど、まず皆無だと思われる。
 もし裁判所が当事者欄の表示と実質的当事者に食い違いがあることを見破ったならば、そもそも当事者の表示について補正命令がなされるはずである。
 なので、訴状の記載の当事者について、形式的に表示されている当事者と請求の趣旨や原因も踏まえて考慮した実質的な当事者が食い違っていることを認識したまま訴訟が進行するという事態は、実務上はまず想定し得ない。
 ところが、訴訟が一定程度進行したところで、何らかの当事者の食い違いが判明し、そこではじめて、では本当の当事者は誰なのかが問題となる、というのが常だと思うのである。

判例は形式的表示説?(3)

2016-06-22 11:34:19 | 民事訴訟法
 しかし、本当にそうだろうか。実務をしている私の目からは、昭和48年の判例は全く別の理解をしているように映って見える。

 つまり、昭和48年判例の事案は、実は訴え提起当初から被告は新会社なのである。私にはそう見える。なぜなら、訴え提起時の「N」という商号の会社は新会社しか存在しないし、「N」という会社の代表権を証明する、法務局が発行する資格証明書も、新会社のそれを発行しているはずだからである。
 もちろん、原告の意図としては、旧会社を訴えたつもりだったかもしれないのだが、図らずも新会社を訴えていたことになる。しかも、現に明け渡しを求めている物件を占有しているのが新会社であったとすれば、実は新会社を被告とすることで事足りている、というより、新会社こそを被告とする必要のある事案だったのである。

 これを、当事者確定の問題として理論的に説明するならば、単純に昭和48年判例は形式的表示説を前提にしていたということである。あるいは仮に実質的表示説を前提としても、訴状では現に占有している者に対して明け渡しを求めていて、その現に占有している新会社を被告としていた、ということにはならないだろうか。

判例は形式的表示説?(2)

2016-06-15 11:03:57 | 民事訴訟法
 当事者確定の問題に絡んだ判例として、よく昭和48年の判例が引用される。簡単に事案を説明すれば、賃料不払いを理由に契約を解除したとして、賃借人であったというNという会社を相手に明け渡しを求めて訴えを提起した事案であるが、実は、契約解除された後訴え提起時までに、N社(旧会社)は商号をすでに別の商号に変えていて、あらたにNという商号の別会社(新会社)を設立していた事案であって、新会社の商号、代表者、本店所在地等は、すべて旧会社と同じだったという。このような状態で「N」という会社を被告として訴えを提起した事案である。

 さて、この事案で、被告は旧会社か新会社か?
 最高裁の結論は、新会社が被告であることを前提に、実体法上の法人格否認の法理を背景として原告勝訴判決を是認している。

 ところが、学者がこの判例の事案を整理すると、一般に訴え提起時の被告は旧会社と考えざるを得ないと理解しているようである。なぜなら、意思説を採れば、旧会社を被告とする意思であったといえるし、行動説を採れば、被告側はあたかも旧会社の代表者であるかの如くに行動していたからであり、実質的表示説を採れば、請求の趣旨、原因まで考慮して考えると、原告が明け渡しを求めている当該物件を賃借し賃料不払いをした会社であり、その当時の「N」という商号社であった旧会社こそ被告であると理解できるからである。
 通常の学者の理解では、どの説を採っても訴え提起時の被告は旧会社で、旧会社を相手取って訴えを提起したにもかかわらず、最高裁は意識的にかあるいは無意識的にか、上告審の判決においては新会社を被告として判決をしたと考えるらしいのである。

判例は形式的表示説?(1)

2016-06-08 10:15:56 | 民事訴訟法
 民事訴訟の当事者が誰であるかを決める理論を、当事者の確定という。
 通常は訴状に原告と表示され、あるいは被告と表示された者が訴訟当事者であることは論を待たないが、氏名冒用訴訟や当事者(特に被告)が死亡していたような事案の場合に問題となりやすく、被告たる法人がどの法人かといったことでも問題となる場合があり得る。

 この当事者確定の問題について、意思説、行動説、表示説などがあり、その他の有力説として規範分類説などもある。教科書レベルの話では、判例は意思設や行動説を採っていると説明され、表示説、それも訴状の当事者欄の記載のみならず、請求の趣旨、原因も含めた訴状全体の記載から当事者を確定すべきという実質的表示説が通説的な見解と解説されているだろうか。

訴訟上の和解の既判力(6)

2016-06-01 10:14:49 | 民事訴訟法
 もう一つ、別の側面から考えられる批判として、結局のところ、和解の効力についての意思表示の瑕疵を理由とする争いを認める以上、実質的に制限的既判力説と変わらないのであって、それを言葉巧みに言い換えているに過ぎないという批判である。
 しかし、私は和解の効力問題ではなく、和解の成立問題として捉えているのであり、言葉だけの問題ではなく、次元が異なると思っている。仮に言葉を言い換えているに過ぎないとしても、それにより理解しやすくなるのであれば、言葉を言い換えた方が望ましい。そして、私は、本来存在するか存在しないかのいずれかでしかないはずの既判力について、和解の場合はその効力があったりなかったりするような制限的な既判力と説明するよりも、「有効な意思の合致」を「和解成立要件」として捉えて和解意思に瑕疵があれば和解不成立、瑕疵がなければ和解は有効に成立し、完全な既判力が生じるという説明の方が理解しやすいと思っている。
 もちろん、請求の認諾、放棄も全く同様であろう。

 以上が私の考えなのであるが、和解の既判力の有無についてやや混乱気味の議論に対し、一石を投じることができているであろうか。