実務家弁護士の法解釈のギモン

弁護士としての立場から法解釈のギモン,その他もろもろのことを書いていきます

債権法改正-債務不履行に基づく損害賠償(1)

2013-04-30 14:05:53 | 時事
 先般、親しくさせて頂いている民法学者から聞いたのだが、債権法改正の中間試案に関して、債務不履行に基づく損害賠償請求に関する部分の解説がおかしいというのである。要は、損害賠償の免責事由として、「債務者の責めに帰することのできない事由」というのが規定されているのだが、その解説が、リスクの引受責任を意味すると解説しているというのである。
 そこで、中間試案の概要の該当部分を見ると、確かに、『同条後段の「責めに帰すべき事由」という文言を維持して,債務不履行の原因につき債務者がそのリスクを負担すべきだったと評価できるか否かによって免責の可否を判断する旨を示すものとしている。』という解説になっている。ちなみに、『同条後段』とは、現行民法415条後段を意味している。
 さらに補足説明を見ると、「債務者の責めに帰することのできない事由」との文言に対する修飾語として、「契約の趣旨に照らして」という枕詞を入れることにより、帰責性とは別の判断を求める趣旨を盛り込んでいることがにおわされているのである。

 そもそも、現行民法の解釈として、「債務者の責めに帰すべき事由」、すなわち帰責性とは、債務者の故意・過失と言われてきており、ただ、債務不履行に基づく損害賠償における帰責性とは、信義則上これと同視しうる事由も含まれると解釈され、その内容として履行補助者の故意・過失が言われている。この「帰責性」は、現行民法上、415条後段、すなわち履行不能の場合にのみ規定されているが、履行遅滞その他の債務不履行の場合でも同様であるとされていたのである。

 この「債務者の責めに帰すべき事由」という概念を維持しつつ、その枕詞に「契約の趣旨に照らして」という文言を賦課することによって、違う意味に解釈しようとさせているのである。

債権法改正-意思能力(3)

2013-04-25 14:58:59 | 時事
 また、過保護というのは、必ずしも本人の保護になるとは限らない。
 例えば、郊外に住んでいる高齢者が、駅近くに引っ越すために郊外の自宅を売却しようとする場合に、これと取引しようとする相手方としては、後になって意思能力の欠缺を理由に自宅の売却行為の無効を主張されることを恐れて、はじめから契約しないという事態が起こらないとも限らない。
 こうなってしまうと、自宅の売却そのものがスムーズに進まない。

 別の問題としては、例えば、何かの契約を締結して(例えば不動産購入契約)、金銭支払債務を負ったとする。その金銭支払債務を担保するために物的担保を提供したような場合、売買契約は理解できるが、担保提供契約は理解できないといったようなことが起こりえないのだろうか。法律行為ごとに意思能力を判断するとなると、このような問題も生じそうである。しかし、担保があるからこそ契約をしているのに、その担保提供契約のみ無効とされたのでは、取引の相手方にとってはあまりにも不意打ちである。

 中間試案での意思能力の規定は、おそらく消費者被害のようなものを想定しているのだろうと、私は勝手に想像しているが、正直なところ、実務家としては改正によって何がどう変わるのか、もっと具体的な事例を示した上で解説してくれないと、あまりイメージがわかず、かえって懸念の方が先に立つ。
 また、消費者被害のようなものを想定しているのだとすれば、民法典に規定するよりは、消費者契約法の問題として捉えた方がよさそうな気がしないではない。
 これまでの解釈どおり、事理弁識能力で意思能力を判断するのでは、だめなのだろうか。

債権法改正-意思能力(2)

2013-04-23 10:03:19 | 時事
 消費者被害のような事案を考慮すると、このような方向性が分からないではないのだが、ただ、見方を変えると、これは取引の安全を犠牲にすることを意味することになりはしないだろうか。

 一つの問題は、例えば、日常生活は何の問題もなく過ごしている高齢者と、やや複雑な契約をしようとする場合(例えば規制の多い不動産の取引など)、その法律行為に関する限りでは、その意味は理解できなかったとして、後になってから無効の主張をされてしまうことも十分にあり得そうな気がする。
 ここで問題なのは、法律行為のときに、その法律行為の意味を理解していたかどうかを、どちらがどうやって立証するかという、実践的な問題なのである。裁判における事実認定は、決して真実を反映するとは限らない。極端な場合、実は法律行為の意味は理解しているのだが、後になってからやっぱり取引をやめておいた方がよかったと思った場合に、法律行為の意味を理解できなかったのだと強弁し出すということもあり得るだろうということなのである。この場合に、取引の相手方として真実を立証できるとは限らない。
 極端な問題を取り上げていると言われればそのとおりなのだが、しかし、決してあり得ない事例ではないと思う。

 これを今までどおり、「事理弁識能力」と考えれば、個別の法律行為の判断力ではなく、一般的な判断力の有無で判断すればよいであろうから、取引の相手方とすれば、交渉相手の判断力の有無について認識しやすいだろうと思われる。

債権法改正-意思能力(1)

2013-04-18 16:59:38 | 時事
 債権法改正の中間試案では、意思能力について定義し、その効力について規定することが示されている。

 現在の民法典では、意思能力に関する規定はなく、解釈上意思能力のない者の法律行為は無効と解釈されている。現行法上明文の規定のない意思能力の問題について、明文規定を設けようということであろう。

 ただ、伝統的に意思能力とは「事理弁識能力」をいうと解釈されてきていたのではないかと思う。要は「事理弁識能力」を欠くことが常の状況にあれば、後見開始の要件に該当することになるが、これに合わせた解釈をしてきたと思うのである。つまり、「事理弁識能力」がなければ意思能力がない状態であり、それが常の状況であれば、成年後見開始の要件に該当するのである。

 ところが、中間試案の本文の案は、法律行為のときに、その法律行為をすることの意味を理解する能力を有していない場合を意思能力のない者としている。この試案は、ある法律行為をしようとするときに、当該その法律行為の意味を理解できるかどうかが問題とされるような定義の仕方となっている。要は、極端には法律行為ごとに個別に意思能力の有無を判断すべしということになってきそうなのである。
 実際、中間試案の解説では、意思能力の有無は画一的に定まるものではなく、当事者の行った法律行為の性質、難易等に関する考慮をも加味した上で判断されるという考え方が有力であり、本文の「その法律行為(をすることの意味)」という文言は、このような考え方に従うことを表しているという。そして、従来の裁判例においても、意思能力の有無の判断に当たっては当該法律行為の性質が考慮されてきたとの指摘があるというのである。
 実務家としての私の感覚としても、実際の裁判における意思能力の有無の判断では、その法律行為の性質や事柄の重大性が考慮されているような気がしないではないのも確かである。

債権法改正-授権

2013-04-11 14:34:52 | 時事
 債権法改正の中間試案について、思いつくままに意見を書いてみたい。

 中間試案の中身に、授権、あるいは処分権授与という、これまでの民法典にはない新しい概念が登場している。どのような中身かを直感的に言うと、自己(A)の財産の処分を他人(B)に委託することであるが、これを代理という形(A代理人B名義)ではなく、その他人が自己の名義(B名義)で処分することである。
 時々、代理人が顕名をしないまま代理人名義で代理行為をする場合があり、この場合は解釈上その効果は本人に帰属するという解釈が採られる場合がある。しかし、授権の場合はそうではなく、債権債務関係はあくまでもBに帰属し、本人であるAには帰属しない。ただし、Aの財産の処分という所有権移転の効果は直接に発生するというのである。
 この、「授権」に関することは、民法典には規定はないものの、実は民法総則の教科書的な本には一定程度の記述のある教科書も存在する。代理とよく似ているから、代理のところに「授権」という項目で記述されているのである。これを条文化しようという試みであろう。

 ところで、「授権」とよく似た仕組みは、「問屋」(といや)という形で商法上存在している。商法551条によれば、問屋とは、自己の名をもって他人のために物品の販売または買い入れをなすことを業とする者である。典型的な問屋営業として、よく証券会社が挙げられる。顧客の委託に基づいて、証券会社が自己の名前で株式の売買を証券取引所に注文を出すのである。この場合、株式の売買は顧客の委託に基づいて行われるが、売買契約は証券会社に帰属する。
 もし、「授権」という概念を民法上規定するとすれば、この「問屋」と「授権」とはどのような関係になるのだろうか。同じだとすれば、「問屋」は民法上の「授権」に対する商法上の特別規定ということになるだろうか。
 また、「問屋」の規定からフィードバックして考えた場合に、「授権」というのは、処分授権だけではなく、いわば取得授権のような自己が財産を取得することを他人に委託するのも、一種の「授権」と考えることもできそうであるが、中間試案では、「処分」のことだけについて条文化が想定されているようである。この点はどうなのであろうか。

 以上、授権についての思いつくままの感想である。