「うわ~まだ石段続くんだ~」と、300段余りの石段を経て、さらにその先に続く200段ほどの急な石段の「豊国廟」。
伏見城で63歳で亡くなった秀吉が「自分の遺体は、京都の西を向く「阿弥陀ヶ峯」に葬るように」との遺言で、墓所となった「豊国廟」。以前から、そこには長い石段があると聞いていたミモロですが、目の前の急な石段にちょっと足がすくみます。
京都には、長い石段の場所がいくつもあります。例えば、一乗寺にある真言宗修験道の「狸谷山不動院」は250段、そして今年参拝した桃山の「明治天皇陵」は、230段、いずれも結構キツイと感じる段数ですが…ここは、なんとその倍の563段ともいわれます。
圧倒的な迫力では「明治天皇陵」には敵わないものの「さすが秀吉さま、京都で一番キツイ石段…」とミモロが思う場所に…。
まるで天まで続くで、すでに300段以上を上がって来た足には、かなりこたえるもの。
しかも足を休める踊り場もなく、手すりもありません。「ここで転んだら死んじゃうかも…」と、絶対に後ろを振り返らず、ただひたすら足元を見て、慎重に…。
「あ、キノコ生えてる~」「バッタもいるよ~」と、あくまでのんきなミモロ。
後ろ見てはダメよ…。先を見上げず、ただ前の石段だけを見て、一歩一歩…まさに無になれる時間です。
「やった~!フ~」ついに最上段に至りました。
(ミモロはマスクをしたままですが、私はマスクなしで…呼吸が乱れ、汗がにじみます)
「やっと着いた~」と、現れた大きな五輪塔。「ここが秀吉さまのお墓なんだ~」としばし乱れた息を整えつつ、見上げます。
この五輪塔は、実は、明治30年に建てられたもの。実は、秀吉の死後、その遺言から阿弥陀ヶ峯に造られた壮大な墓所「豊国社」は、豊臣家滅亡とともに、徳川家康の命令で、取り壊され、明治になって再興されたもの。
そもそもこの場所は、秀吉が西方浄土を思い、蘇りを祈願したものだとか。それを徹底的に破壊し、豊臣家の再興を阻止した家康。同じ敷地内にあった豊臣家ゆかりの寺院は、かつて秀吉が焼き討ちをした真言宗の根来寺の僧侶を迎え、現在「智積院」に…。京都に残る秀吉の栄華を駆逐することこそ、徳川家には欠かせないことだったのです。
江戸幕府の長きにわたり、徳川家は、京都の多くの神社仏閣の修復や建設に多額の資金を投入して貢献。でも、なぜか京都の人気は依然、秀吉に…。京都の町を整備し、また茶会などさまざまなイベントで、町衆を楽しませた秀吉。遠く江戸城に暮らし、管理だけして、徳川家のお金を出せば…という姿勢に京都に住まう人々は、公家も町衆も快く思っていなかったのではないかと思われます。
遠く伏見城や大坂城に思いを馳せるように聳える五輪塔。
秀吉にとって、京都は、最もゆかりが深い町なのではないでしょうか。
「わ~すごい~」と思わず声を上げるミモロ。
山の北側を見ると、そこに開ける眺望。
「わ~清水寺がよく見える…」おそらく清水寺の全景を眺める一番のスポットです。
この場所は、京都の周囲の山をめぐるトレイルにも当たります。
「ここから、ほかの山に歩けるんだ~」と、山歩きが好きな方には、おすすめ。
さぁ、そろそろ下りましょうか…。「うん~」と石段の前で躊躇するミモロ。
そう、下りの方が怖いのです。もし足を滑らせたら…ミモロは、後ろ向きで、下りてゆきました。
「絶対雨降りに来ちゃ、危険だよね~」と。そう、足を滑らせたら危ない…。
雪の日などはもってのほか…。
「やっぱり1度は、お参りしなくちゃね~。あ、どうしよう忘れ物上にしちゃった~」とミモロ。
え~そんな~「嘘だよ~」と舌をペロリ。その冗談はキツイ…。
「秀吉さまって、やっぱりすごいね~。実際、どういう人だったんだろ…会ってみたいなぁ~」とミモロ。
さまざまなドラマや映画などに描かれる秀吉。農民から天下人へ。やはりそれってすごい…
歴史上では、非常に短い間で終わった豊臣家。でもその歴史の残したインパクトは、すごいものがあります。
*「豊国廟」京都市東山区今熊野阿弥陀ヶ峯町 上まで行けるのは、朝から夕方まで。
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