goo blog サービス終了のお知らせ 

ネコのミモロのJAPAN TRAVEL (Mimoro the cat:JAPAN TRAVEL)

「京都観光おもてなし大使」のライターとネコのミモロが、京都の情報や暮らし、グルメなどをご紹介。心和む雑誌のようなブログ

当日受付で拝観した「修学院離宮」。広大な敷地の中に点在する離宮の見どころを巡ります。

2025-01-28 | 歴史・史跡
「ここの畑で作られたお米や野菜食べたいなぁ~」と、ミモロがいうのは、「修学院離宮」の畑です。

昨日のブログでお伝えした野菜ができた場所。この日は、その1か月前のことになります。

昨年の12月の末、用事があって「禅華院」に伺った時です。「修学院離宮」のそばにあるお寺で、そこに伺う前に離宮への受付場所を通った時…「あ、当日受付やってる~1時間後だって~せっかくだから拝観しようよ~」と言い出しました。

宮内庁管轄の「京都仙洞御所」「桂離宮」「修学院離宮」は、拝観するには、「宮内庁ホームページ」から事前予約が必要。でも、いずれの場所も申し込みに余裕がある場合は、当日受付が行われるのです。(当日受付には、身分証明をするものの提示が必要)

「修学院離宮」の場合は、1日、5回の参観時間があり、それぞれ定員50名。参観は無料。所要時間は、約1時間半です。
比較的、他の場所に比べ、当日受付で拝観しやすいと言えるかも…。でも、他の場所より、歩く距離が長く、高低差もあるので、足に自信がある人におすすめ。

ミモロは、13時半の部に申し込むことができました。「さぁ、出発だよ~」と、参観受付を済ませ、参観者休所で、「修学院離宮」の見どころや歴史などの解説ビデオを見た後、いよいよスタート。


参観者は、団体行動。ガイド担当者の先導で、敷地内を巡り、最後部にも職員が付きそい、はぐれないように進みます。


「さすがに紅葉終わっちゃってる~」。紅葉が遅かった京都でしたが、さすが12月下旬は、冬の景色になっていました。


「修学院離宮」は、そもそも10世紀の後半にあった「修学院」というお寺があった場所の一帯を、江戸時代の明暦年間に後水尾上皇が造営を始めた離宮。雄大な自然の中に、3カ所の離宮があり、山、池、松並木、田畑などから構成される総面積54万5千㎡を越える広大なもので、明治時代に宮内省の所轄になるまで、垣根もない開放された場所だったそう。昭和39年に、敷地内の8万㎡の農耕地を買い上げ、景観保持を行い、現在の姿になっています。そこの農地は、昔から農作物を作っていた農家に貸し出され、現在は、しっかり柵やネットが張り巡らされた中で、野菜やお米を栽培しているのです。
「だから、畑を勝手に見に行っちゃいけないんだよね」とミモロ。

さぁ、拝観を続けましょう。
ミモロたちが、最初に向かったのは、「下離宮」。離宮の中で、一番、低い場所です。

「寿月観」という柿葺入母屋数寄屋風造りの建物が…。
一見簡素な姿ながら、そこは文化人の後水尾上皇の好みらしく随所に趣向が凝らされているのです。
「菱形模様がお好きだったんだって~」と、よく見ると、いろいろなところにそれが施されています。


木戸にも美しい絵が見られます。


他の離宮への拠点で、ここでもおもてなしが行われたそう。


さぁ、次へ移動しますよ~
山を眺めながら、畑の中の道を進み「中離宮」へ。

「もう稲刈り終わっちゃる~稲穂があるときにも来てみたいね~」とミモロ。


「いけない~もっと早く歩かなくちゃ~」小さなミモロは、参観者の最後尾付近になりがち…

後ろには、警備の人がすぐそばに…

「あ、紅葉残ってる~」と、途中つい足を止めて眺めるミモロです。


最後部は、中国からの観光客の3人グループ。いろいろな場所で、さまざまなポーズで写真を撮影。団体から外れないように、立ち入り禁止エリアに入らないように警備の人の目が光ります。

「中離宮」に到着。ここには、「楽只軒」と「客殿」という2つが繋がった建物があります。


「客殿」は、後水尾上皇の皇后である東福門院が亡くなられた後に、御所にあった建物を移築。そこには、上皇崩御の後に、得度した第8皇女の光子さまが住まわれました。

「東福門院さまって、徳川秀忠のお嬢様でしょ。ここに暮らしていた時期があるんだ~」と、同じく東京生まれのミモロはポツリ。「江戸が恋しくなかったかなぁ~」

この建物で、ミモロが好きなのが、祇園祭の鉾を描いた杉戸。
狩野敦信作と言われます。
「京都に暮らして、祇園祭見たのかなぁ~。きっと祇園囃子は、聞こえたかもね~」と想像するミモロです。
他には、円山応挙が網を描いたという鯉の絵なども。

「逃げるんだ~すごく元気な鯉だね~」と。

2つの建物を階段で繋いだ複雑な構造。


離宮の建物は、宮大工など熟練した職人の技が随所に見られるのも魅力。
 

では、最後の「上離宮」に向かいましょう。

再び、畑の横の道を進みます。

<ブログを見たら 金魚鉢をクリックしてね 応援よろしく!ミモロより
人気ブログランキング

ミモロの通販ショップ「ミモロショップ」はこちら

[ミモロの京都暮らしカレンダー2025」可愛いミモロをおそばに…

ミモロへのお問い合わせ・ご要望は、mimoro1888@gmail.comまで
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都府長岡京市の有形文化財の「旧石田家住宅」で頂くうどんやそば、甘味など。「美味しかった~!」とミモロ

2024-09-16 | 歴史・史跡
「どれにしようかな?」と広々したお座敷でランチのお品書きを真剣に見つめるミモロ。


ここはJR長岡京駅から徒歩5分。「西国街道」沿いにある国の登録有形文化財の町家「旧石田家住宅」です。


お友達とここでランチをすることにしたミモロは、一足先に到着。「う~みんな美味しそう…」

「長岡京市立神足ふれあい町家」でもあり、人々が集い、文化を発信する場所としても活用されているのです。

食事のメニューには、うどんやそばをメインに、甘味の種類の豊富です。


ミモロが注文したのは、「町家特製そば」で、かき揚げ、わかめ、たけのこ、かまぼこなどがトッピングされたもの。

館内の厨房から運ばれ、一口お汁を飲んで…「美味しい~!」と。なんともやさしいお味です。
「エビ天ぷらうどん」を注文したお友達も、「うん、美味しい!」と。正直、あまり期待していなかったのですが、その予想を裏切る美味しさ。
具の中に、丸い形のものが…「お麩かな?」と思い口に入れると、「う?!歯ごたえがある・・」とミモロ。そう、それは筍です。長岡京市は、筍の産地としても有名。ここの具の筍も地元産のもの。
「さすが長岡京市…」と一切れの筍に感激した二人です。

「ミモロちゃん、ごめんね~用事があるから、これで~」と忙しいお友達は、先に帰ってしまいました。残ったミモロは…
「やっぱりデザートも食べよう~」と、そばの美味しさから、期待が膨らむ甘味です。

ミモロが注文したのは、今川焼アイスとコーヒーのセット600円です。

今川焼の中身は小倉餡かカスタードクリームのいずれかが選べます。「う~両方食べたいけど…今日は小倉餡にします」と答えます。
「今川焼温かいんだ~美味しいね~」と、こちらもなかなか美味。
甘味を味わいながら、庭を眺める素敵なひととき…「いいね~ここ…」とミモロ。

「次に来るときは、冷たいおうどん食べようかな?」とすでに次を楽しみにします。

「ごちそうさまでした~」「どうぞゆっくりしていってくださいね~」とお店のスタッフの方々。

みんなさん、すごくやさしくて、とても丁寧に接客してくださいました。

館内には、お座敷のほか、テーブル席もあります。


また、一角には、展示コーナーがあり、市民の方々の作品などが展示されています。


土間では、地元の産品なども販売。

「これで、筍ご飯作れるね~」と筍の煮物など…また、地元の菓子処「喜久春」の「竹の子最中」も


さらに、発掘調査が行われた乙訓最大の古墳「恵解山古墳」に因んだグッズも…
 
「なかなか面白い…」と興味津々。

でも、やはり最後まで気になっていたのは、駄菓子のよう…

「これなんだろ?」「あれは、なに?」と次々に見て、動こうとしません。

もう行きますよ~「うん…」と後ろ髪を引かれる思いで、外へ。

「ぜひ、またいらしてくださいね~」とお店の方に見送られ、「バイバイ…」と何度も言いながらお別れしたミモロです。


歴史を刻んだ町家…「旧石田家住宅」(長岡京市立神足ふれあい町家)でした。


<ブログを見たら 金魚鉢をクリックしてね 応援よろしく!ミモロより
人気ブログランキング

ミモロの通販ショップ「ミモロショップ」はこちら 

ミモロオリジナルグッズをぜひ~ご覧ください~

ミモロのウールジャージひざ掛け

ミモロへのお問い合わせ・ご要望は、mimoro1888@gmail.comまで
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都の長岡京市「西国街道」沿いにある有形文化財の町家「旧石田家住宅」へ。

2024-09-15 | 歴史・史跡
「ここ西国街道っていうんだよ~」とミモロは、江戸時代の街道にやってきました。


ミモロが訪れているのは、JR長岡京駅のそば。
山科駅から東海道本線の普通電車に乗って…京都駅を過ぎて、4つ目、11分で到着です。


「大きな駅だね~」周辺には駅ビルやスーパーマーケットなどが…。


交差点を渡る長い陸橋の上からは、西方向に、阪急「長岡天神駅」があり、西山の景色も望めます。

「暑いから、昼間、歩いている人少ないね~」とミモロ。さすがの猛暑…外出を控える人が多い京都なのです。

ほとんど通行人がいない西国街道を南へ。「前に行った勝竜寺城方向に進もう~」と。

さて「西国街道」は、京都の「東寺口」を起点に、向日町、神足、山﨑、高槻などをへて、兵庫県の西宮市へ。そこで「中国街道」と繋がります。まさに江戸時代の西日本の幹線道路です。「ここいろんな武将が通ったんだよね~」とミモロ。
そう、秀吉をはじめ、西国の大名たちも都へ、そして江戸へと向かった道です。

今も、江戸時代の面影を留める町家が沿道沿いに…そして長岡京エリアは、整備され、とても歩きやすくなっています。

「ここじゃない?」とミモロが足を止めたのは、整備された道の南の端近く。

以前、「勝竜寺城」に来た時、時間がなくて行けなかった場所です。



江戸時代の町家の風情を今に残す店舗兼住宅の「旧石田家住宅」です。
平成12年に国登録有形文化財になり、今は、「長岡京市立神足ふれあい町家」として、人々の文化発信、交流の場をして活用されています。


さっそくミモロは、中へ「こんにちは~」

玄関を入ると、奥の庭に続く土間が…脇の和室は、店だったところ。そもそもここは、江戸時代、神足村の旧家岡本一族の商家で、和紙などを商っていたそう。明治以降に町医者が住まい、その後、石田家が購入し、平成15年に市の所有になりました。
つまり百数十年に、「紙屋」「医院」「茶屋」と主と使用目的を変えながらも、建物は守られてきたことに…。

見上げた天井は、大きな梁が…


「あ、駄菓子がいっぱいある~」と板の間に並んだ品々に駆け寄るミモロ。

ここは、だれでも気軽に入れる場所…他にもいろいろありますよ…でも、まずは、中に進みましょう。


「立派なお座敷がある~」

京都の町中の町家と異なり、間口が広く座敷も田の字型の間取りで、農家風の構造です。
美しく整えらえた床の間…お掃除が行き届いた室内…ここをお世話する方々の心を感じます。


「お座敷にどうぞ~」と言われ、ミモロはそこの机へ
廊下の向こうには、緑が茂る庭が…


「なんかこの景色懐かしい~」とミモロ。
「さぁ、ゆっくり過ごさせてもらおう~」と、見るのは、お品書き。

ここでは、うどんやそば、お菓子やかき氷などが味わえるのです。

「う~どれにしよかな~」とお品書きを見つめながら、迷うミモロです。

*「旧石田家住宅」(神足ふれあい町家)京都府長岡京市神足2-13-10 ☎075-951-5175 開館時間9:00~18:00 休館日/年末年始 入館無料

<ブログを見たら 金魚鉢をクリックしてね 応援よろしく!ミモロより
人気ブログランキング

ミモロの通販ショップ「ミモロショップ」はこちら 

ミモロオリジナルグッズをぜひ~ご覧ください~

ミモロのウールジャージひざ掛け

ミモロへのお問い合わせ・ご要望は、mimoro1888@gmail.comまで
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明智光秀が、最後の夜を過ごしたのは、娘が暮らした城、長岡京市の「勝竜寺城」。

2024-09-09 | 歴史・史跡
「このお城で幸せな時間を過ごしたんだって~短いけど…」と、ミモロが見上げるのは、細川忠興と妻の玉(ガラシャ)の像です。


ミモロが訪れているのは、京都の西、東海道線のJR長岡京駅から徒歩15分にある「勝竜寺城」。

細川藤孝が築き、後の肥後の細川家の元となったと言われるお城です。

ここでは、織田信長の勧めで結婚した細川藤孝の息子忠興と明智光秀の娘玉(後のガラシャ)が2年間の新婚生活を過ごしたところ。仲睦まじい二人のの間には2人の子供も生まれました。

城内のお庭を巡るミモロ。京都は9月になっても猛暑日続き。「喉渇いた~」と水飲み場へ。

実は、このお水は、「ガラシャのおもかげ水」との標示が…ここにあった池に姿を映したと伝えられ、その水が飲めるようになっています。「冷たい…」と熱中症対策の水を飲むミモロ。「まぁ、特別美味しい~ってわけじゃないけど…」美味しい水は期待しすぎかも。


趣ある庭園だったと思わせる姿の中に、井戸も残っています。

利休の高弟として知られる忠興。ここでも茶会が催されたと…。

さて、幸せな暮らしを育んでいた玉に、突然、人生を激変させる事態が勃発。それは、父親の明智光秀が、主君である織田信長を京都の本能寺で討った「本能寺の変」です。
毛利攻めをしていた羽柴秀吉は、その報を知り、急遽京都に猛スピードで戻ります。そして光秀と相対することになったのが、「山﨑・勝竜寺城合戦」で、大敗し、この城へと逃げ込みます。

「あの~玉さんは、どこにいたの?」とミモロの鋭い質問。
いろいろな資料を見ると、細川忠興は、天正9年(1581)に丹後へ移っていますから、玉さんも一緒に行って、「本能寺の変」が起きた天正10年には、このお城には、いなかったことになります。
光秀は、娘婿である細川忠興にも加勢を依頼しますが、それに応じることなく、玉は、逆賊の娘として離縁され、幽閉されてしまいます。
「う~お父さん、恨んだよね~きっと…」とミモロ。確かにそうかもしれませんね~。

ミモロは、さらに敷地内を歩きます。

城の7mの高さがある西土塁からは、天王山や宇治川、木津川などが一望でき、かつては、ここに天主があったとも言われます。

ここ「勝竜寺城」に退却した光秀。かつて娘が暮らしていた城を見て、いかなる思いが胸にこみ上げたでしょう???

細川家からの加勢を断れた光秀は、この城で最後の夜を過ごします。
そして、夜陰に乗じて、城の北門から脱出、滋賀の坂本を目指すことに…

「ここから、山科方向に移動して、藪の中で討たれたんだね~」と、なんともしんみりしてしまうミモロです。


ところで、「勝竜寺城」は、近世の城郭の魁と言われる城。今までの土塁の城から、石垣を組み上げた城郭への移行が見られます。
使われる瓦は、大津の坂本城などと同じ木型で作られたもの。この城の築城には、信長の命により、滋賀エリアの石工や瓦職人などの集団が派遣されていたそう。

石垣の積み方に、高い技術が伺えるそう。

石垣の片隅に積まれたたくさんの石仏…「これ、お城を守る仏様??」とミモロは合掌。

この石仏は、実は、石垣の材料に集められたもの。その時代、石垣をもつ城は珍しかったため、それに使う石材が不足して、身近で調達できる石仏や墓石などが転用されたのです。
「う~罰当たりだね~」と思うミモロですが、石材の調達に石碑や墓石、石仏が使われるケースは、その後もいろいろな城で見受けられます。「まぁ、リサイクルってやつ???」

寛永10年(1633)に廃城となり、その後、あまり関心を持たれなかった城に調査が入るのは、昭和になってから。その歴史的価値が見直され、平成4年には、現在の「勝竜寺城公園」として整備され、公開に。

「なんかいろいろな思いになるね~」とミモロ。

「ここから、攻撃してことなかったかも…」と言いながら、塀から外を覗きます。


「長岡京って、なかなか興味深い場所だね~」と。これからもまたリポートしたいと思っています。


*「勝竜寺城公園」京都府長岡京市勝竜寺13-1 開園時間9:00~18:00(冬は~17:00)入園無料 最寄り駅JR長岡京駅徒歩15分

<ブログを見たら 金魚鉢をクリックしてね 応援よろしく!ミモロより
人気ブログランキング

ミモロの通販ショップ「ミモロショップ」はこちら 

ミモロオリジナルグッズをぜひ~ご覧ください~

ミモロのウールジャージひざ掛け

ミモロへのお問い合わせ・ご要望は、mimoro1888@gmail.comまで
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近世城郭の原点、京都長岡京市の「勝竜寺城」。細川家の立身出世、細川ガラシャの輿入れ、明智光秀の最後の城

2024-09-08 | 歴史・史跡
「ここって、歴史の変換点のお城なんだね~」とミモロが訪れたのは「勝竜寺城」です。

京都駅から東海道線に乗って訪れた「JR長岡京駅」。「京都駅からも近いね~ここにこういうお城があるんだ~」と。

京都、大阪、奈良への交通の要所である京都西山エリアの長岡京市。桓武天皇が「平安京」に遷都する前に都を10年間「長岡京」を置いたところです。

ミモロがここに来る前に訪れた「神足神社」のエリアには、古くから集落を守る「城」があり、それを攻め落とし、元亀2年(1571)に細川藤孝(幽斎)が、織田信長の命を受けて、それを含んだエリアに「勝竜寺城」を大規模改修し、京都の防衛の要塞にします。


「小さいけど…立派な石垣のお城だね~」


寛永10年(1633)に廃城となり、その後長らく忘れられた城で、昭和63年に発掘調査が行われ、そして平成4年に現在の姿である「勝竜寺城公園」となり、今は戦国時代の貴重な遺構として注目されています。


さぁ、お城の中に進みましょう。


実は、このお城は、近世城郭を代表すると言われる「安土城」の5年前に築かれ、発掘調査から、城郭に欠かせない本格的な瓦、石垣などが使用され、天主もあったことがわかりました。つまり、中世の土造りの城から近世の城への変換期にあったと言われます。

城郭に興味のある人には、見逃せないお城です。

現在、城の天主を思わせる建物に入ると…

1階は、休憩所と立派なトイレが…

「ここから、お庭の景色がよく見える~涼しい休憩しなくちゃ~」と、しばし休むミモロです。

また、この城に係るさまざまな書籍も自由に読むことができます。


さて、この城の歴史をもう少し…
室町の足利家と深いつながりがあり、その後、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の家臣となった細川藤孝。信長から京都防衛の要所であるこの地を与えられ、領主になります。

信長の勧めで、同じく家臣であった明智光秀の娘 玉(後のガラシャ)を息子の忠興のお嫁さんに迎えます。

「二人とも16才だったんだって~今なら中学生??」と驚くミモロ。

仲睦まじい二人の間には、2人の子供も生まれます。しかし、そんな幸せは長くは続きません。
そう、玉のお父さんの明智光秀が「本能寺の変」を起こします。

当初、光秀は、細川藤孝と忠興に加勢を願いますが、二人は主君を討った光秀に味方せず、玉を離縁。すでに忠興と共に、京丹後に移っていた玉は、その地、味土野で幽閉。子供たちからも放され、なんと2年におよぶ孤独で悲しい日々を過ごすことに…
「可哀そう…玉さん何も悪くないのに…」と涙ぐむミモロ。それが戦国の世のならい…。

ここ長岡京市では、そんな玉さんを思い、毎年11月2日に「長岡京ガラシャ祭」が行われます。

幸せだった玉のお輿入れを再現する行列など、華やかな祭が…
「今年、見たい!」というミモロです。

さて、2階には、発掘調査で出土したものをはじめ、より詳しく歴史がわかる展示が…
そこは、撮影禁止だったので、ぜひ実際訪れてください…(入館無料)

では、敷地内を巡りましょ!ここには、このお城の歴史がいっそう感じられる遺構などを見ることができます。

「小さいけど、なんか胸に迫る歴史があるお城だね~」と、厳しい陽ざしの中、ミモロは歩き始めました。

*「勝竜寺城」の詳しい情報はこちらから

<ブログを見たら 金魚鉢をクリックしてね 応援よろしく!ミモロより
人気ブログランキング

ミモロの通販ショップ「ミモロショップ」はこちら 

ミモロオリジナルグッズをぜひ~ご覧ください~

ミモロのウールジャージひざ掛け

ミモロへのお問い合わせ・ご要望は、mimoro1888@gmail.comまで
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする