和則(かずのり)は妻(つま)から妊娠(にんしん)を告(つ)げられたとき、飛び上がらんばかりに喜(よろこ)んだ。いよいよ出産(しゅっさん)という時も、妻よりもハラハラドキドキして仕事(しごと)も手につかない状態(じょうたい)だった。
「あなたが産(う)むわけじゃないのよ。心配(しんぱい)しないで」と妻の方が冷静(れいせい)だった。
産まれたのは女の子。和則は赤ちゃんの顔を見るなり、子供(こども)のように泣(な)き出した。
この日から、和則の父親としての心配事(しんぱいごと)が始まった。和則は妻に宣言(せんげん)した。
「この子は、箱入(はこい)り娘(むすめ)として大切(たいせつ)に育(そだ)てるぞ。そのつもりでいてくれ」
「あなた、この子はまだ赤ちゃんですよ。今からそんなこと…」妻は呆(あき)れるばかりだ。
「もし、変な男が近寄(ちかよ)って来たらどうするんだ。僕(ぼく)たちが守(まも)ってやらないと」
妻は少しからかうように、「そうね。あなたも学生だった私のこと…」
「僕は、真面目(まじめ)だけがとりえの男だ。変な男じゃないぞ」
和則はふと考えた。「そうか、そうだよな。学校へ行くようになれば、男との接触(せっしょく)も増(ふ)えてしまう。そうなると…。これは、まずいぞ。今のうちにちゃんとした学校を――」
「もう、今からそんな心配してどうするの? 大丈夫(だいじょうぶ)よ。私たちの子供なんだから」
「あのな、そんなことどうして言えるんだ。この子には絶対(ぜったい)幸(しあわ)せになってもらわないと。そのためにも、ちゃんとした男と結婚(けっこん)をさせて…」
<つぶやき>父親の心配は際限(さいげん)なく膨(ふく)らむもの。そこには妻とは別の、娘への愛がある。
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「だから、何であたしにつきまとうのよ。もう、いい加減(かげん)にして」
加奈子(かなこ)は誰(だれ)もいないはずの隣(となり)の席(せき)へ向かって呟(つぶや)いた。
「わしの第三の人生(じんせい)は、人助(ひとだす)けをすることに決(き)めたんじゃ。あんた、ほんとは困(こま)ってるんだろ?」
加奈子は首(くび)を振り、「いい。やめてよ。もう、あたしの前から消(き)えて」
「そう言われてもなぁ。わしは浮遊霊(ふゆうれい)だから、どこへでもついて行けるんじゃ」
その時、男が店に入って来た。男は加奈子を見つけると、彼女の前の席に滑(すべ)り込んだ。
「わるいな、無理(むり)言って」男は加奈子の手を取ると、にっこり微笑(ほほえ)んだ。
霊(れい)のおじいちゃんは、男が伸(の)ばした手をつかむ。男は身震(みぶる)いして手を引っ込めた。
「こいつはダメじゃ。あんたを幸せにすることはないぞ。苦労(くろう)するだけじゃ」
何も知らない男は、「加奈(かな)だったら、絶対(ぜったい)助けてくれるって思ってたんだ」
「おいおい。こいつに貢(みつ)いでも何も返ってこないぞ。あんたが損(そん)をするだけじゃ」
男と霊の言葉(ことば)が彼女の回りを渦巻(うずま)いていく。加奈子は両手(りょうて)で耳(みみ)をふさいだ。
「どうしたんだよ? 金、持って来なかったのか?」男は心配(しんぱい)する素振(そぶ)りもない。
「もう…、もう、いい加減にして! あたしの前から消えなさい」加奈子は思わず立ち上がると男に向かって叫(さけ)んだ。「あんたもよ! どうせ他の女に使う金でしょ。あたしが知らないとでも思ってるの。もう、うんざりよ! 二度とあたしの前に現れないで!」
<つぶやき>もし第三の人生があるとしたら…。あなたはどういう人生を過(す)ごしますか?
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昔(むかし)のサークル仲間(なかま)が集まって飲み会が開かれた。僕(ぼく)は遅(おく)れて行ったのだが、十年ぶりぐらいの再会(さいかい)で、なつかしい顔が並(なら)んでいた。僕はその中の一人にくぎ付けになった。
まさか、彼女が来ているなんて思ってもいなかった。――僕がずっと好きだった人。昔とまったく変わらないその微笑(ほほえ)みに、僕の心はざわついた。今さらどうしちゃったのか…。彼女のことは、もうとっくに忘(わす)れていたはずなのに。
彼女が僕の方に近づいて来る。僕の心臓(しんぞう)は高鳴(たかな)った。彼女は屈託(くったく)のない笑顔で僕に話しかけてきた。何でそんなふうにできるのか。そりゃ、確(たし)かに彼女とはそういうあれじゃなかったけど…。デートらしいデートもしてないし。僕が勝手(かって)に恋心(こいごころ)をふくらませていただけかもしれないけど。でも、彼女だって気づいていたはずだ。僕が好きだったってこと。
僕たちは昔話に花を咲(さ)かせた。僕にとってはちょっと切ない思い出…。笑っている彼女を見ていると、今、幸せなんだってことが分かる。彼女の薬指(くすりゆび)には指輪(ゆびわ)も輝(かがや)いているし。
僕は葛藤(かっとう)していた。今すぐこの場から逃げ出したい気持ちと、彼女のとこをずっと見つめていたい気持ち。――何で僕は来てしまったんだろう。会わなければよかった。そしたら、こんな思いをすることもなかったのに。今さらそんなことを言っても仕方(しかた)がない。そんなこと分かってる。僕の心に広がった波紋(はもん)は、いつまでもどこまでも広がっていく。
僕は、自分の指輪をさわりながら妻(つま)の顔を思い浮(う)かべた。――僕は、昔の僕じゃない。僕には大切(たいせつ)な人がいる。そして、僕は今、とっても幸せなんだ。
<つぶやき>昔の恋はいつまでも心に残(のこ)っているものです。大切にしまっておきましょう。
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そのミュージアムは場所(ばしょ)を移動(いどう)しながら、不定期(ふていき)で公開(こうかい)されていた。しかも、招待状(しょうたいじょう)を受け取った人しか入ることが許(ゆる)されない。
ミュージアムにはどんな素晴(すば)らしいお宝(たから)があるのか。噂(うわさ)では、歴史(れきし)を塗(ぬ)り替(か)えるような秘宝(ひほう)だとか、偉人(いじん)たちが残した遺品(いひん)の数々。はたまた、宇宙人(うちゅうじん)が残した遺物(いぶつ)だとも囁(ささや)かれていた。だが、その実体(じったい)を語る人は誰(だれ)もいなかった。
一人のジャーナリストがこの謎(なぞ)に挑(いど)んで取材(しゅざい)を始めた。彼は精力的(せいりょくてき)に動きまわり、何とか招待状を手にすることに成功(せいこう)した。彼は友人の何人かに、そのことを話している。
――彼はその後、消息(しょうそく)を絶(た)った。誰も彼の行方(ゆくえ)を知らず、忽然(こつぜん)と消えてしまったのだ。
一年後、それは偶然(ぐうぜん)だった。友人の一人がアフリカへ取材旅行(りょこう)に出かけたとき、密林(みつりん)の奥地(おくち)の村(むら)に日本人がいるという噂を聴(き)いた。その友人が村へ行ってみると、その日本人はジャーナリストの彼だった。彼は、自(みずか)らの意志(いし)でここへ来たと話した。ここでは、ボランティアとして村の人たちと共(とも)に働(はたら)いていると。だが、肝心(かんじん)のミュージアムのことについては、まったく記憶(きおく)がないようだ。ミュージアムに関(かん)する記憶だけが抜(ぬ)け落ちていた。
この秘密のミュージアムの謎は深まるばかりだ。その実体をつかむことはできるのか。今でも、世界のどこかでミュージアムの扉(とびら)は開かれているのだ。
<つぶやき>招待状を受取ったら注意(ちゅうい)です。あなたの身に何が起こるか誰にも分からない。
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姉(あね)はケーキを前にして思い悩(なや)んでいた。今まで体型(たいけい)を気にしたことはなかったのだが、最近(さいきん)ちょっとぽっちゃりしてきたのを自覚(じかく)し始めたようだ。
そこへ弟(おとうと)が声をかける。「姉(ねえ)ちゃん、何してんの? 眉間(みけん)にシワ寄(よ)せちゃって」
「別に…。これ、叔父(おじ)さんのお土産(みやげ)よ。何か、有名店(ゆうめいてん)の美味(おい)しいケーキなんだって」
「食べないの? 姉ちゃん、ケーキ大好物(だいこうぶつ)じゃん」
「あ、後で食べるわよ。今は、ちょっと…、あれだから…」
「もしかして、彼氏(かれし)とかできた?」
姉は、明らかに動揺(どうよう)を見せた。上ずった声で、「うるさいな。あっち行ってよ」
弟はからかうように、「へえ、そうなんだ。まさか、ダイエットとか考えてんの? ムリムリ、姉ちゃんに我慢(がまん)できるわけないよ」
「なに言ってんのよ。それくらい、あたしにだって…」
「じゃあ、これは食べないんだよね。ダイエットしてるのにケーキはまずいっしょ」
「いやいや、アンタのは向(む)こうにちゃんとあるから。これは、あたしのよ」
「でも、食べないんでしょ。だったら、僕(ぼく)が片(かた)づけて――」
弟はヒョイとケーキをつかんで口元(くちもと)へ。だが、姉の手がそれをはばんで、ケーキは弟の手を離(はな)れ床(ゆか)へべちゃっと落下(らっか)した。姉の叫(さけ)び声が家中に響(ひび)き渡(わた)ったのは言うまでもない。
<つぶやき>叔父さん、このタイミングでケーキはまずいですよ。他の物にしないとね。
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