若者(わかもの)が一人、場末(ばすえ)の酒場(さかば)の暖簾(のれん)をくぐった。店の中にはタチの悪(わる)そうな客(きゃく)と、一癖(ひとくせ)も二癖(ふたくせ)もあるような女が、喧騒(けんそう)の中たわむれていた。若者は明らかに場違(ばちが)いな存在(そんざい)だ。
若者は、カウンターで一人、つまらなそうに呑(の)んでいる女に声をかけた。
「あの、人を捜(さが)してるんですが…。近藤幸恵(こんどうゆきえ)と言います。ご存(ぞん)じありませんか?」
女は若者の顔をうつろな眼差(まなざ)しで見つめると、「ふん。こんなとこで、本名(ほんみょう)を名乗(なの)るヤツなんていやしないよ。それより、あたしと遊(あそ)んでいかないかい? 安(やす)くしとくよ」
若者は困(こま)った顔をして、「いや、僕(ぼく)は…。あの、この辺(あた)りで見かけた人がいるんです」
「そんなに良い女なのかい? まったく、やけるねぇ」
「どうしても会いたいんです。会って、連(つ)れ戻(もど)したいんです」
「やめときなよ。どういう事情(じじょう)か知らないけど、こんな所まで流れて来たんだ。もう、汚(よご)れちまってるよ。その女だって、アンタのことなんか忘(わす)れてるさ」
「それでも…、それでも会わなきゃいけないんです。彼女を助(たす)けたいんです」
「アンタもバカだね。良い女は他にいるだろうに…。でも、嫌(きら)いじゃないよ。そういう男」
女は若者の話を聞いて、「知らないね。右目の下にホクロ…。まあ、気にかけておくよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「よしてよ。そんなこと言われると、何だかこそばゆいよ」
<つぶやき>一人の人のことを、そんなに真剣(しんけん)に思えるなんて。何だかうらやましいです。
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