徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

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11月9日はドイツの歴史的記念日~「水晶の夜」とベルリンの壁崩壊

2015年11月09日 | 歴史・文化

11月9日はドイツ現代史にとって最も重要な記念日といえます。
一つはナチスの暗い歴史・ユダヤ人迫害の開始をマークする1938年11月9日の夜に起きた事件、帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)。
もう一つは旧東独と旧西独に属していた西ベルリンを隔てていた「死の壁」ベルリンの壁が1989年11月9日に崩壊したこと。

水晶の夜
1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で反ユダヤ主義暴動が起きました。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された事件ですが、ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されています。「水晶の夜」という名前は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたところにヨーゼフ・ゲッベルスが名付けたことに由来すると言われています。この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなりました。「帝国迫害の夜」(Reichspogromnachts)または「11月の迫害」(Novemberpogrome)とも呼ばれています。1400件以上のシナゴーグや祈りの家やユダヤ教徒の集会場などが破壊されました。そして翌日の11月10日から約3万人のユダヤ人が強制収容所に連行され、数百名が殺され、また拘留の結果として亡くなりました。
この事件は1933年のナチス政権発足以来のユダヤ人差別政策から組織的なユダヤ人迫害への転換点となっています。それまで机上の空論のごとく議論されてきたユダヤ人問題(Judenfrage)に関する「最終解決(Endlösung)」、即ちユダヤ人殲滅作戦がいよいよ現実味を持った政治目標となったわけです。
ナチス政権下でおよそ600万人のユダヤ人が命を落としました。それを一般のドイツ人が知ったのは戦後になってからです。一般人はユダヤ人が強制収容所に連行されていくのは勿論知っていましたが、そこでみんな殺されるとは考えておらず、強制労働に従事させられるものと考えていたのです。ナチス政権がユダヤ人は強制労働収容所(Arbeitslager)に送ると発表していたので、それを疑ったり、真実を追求したりする人はほぼ皆無で、大抵の人は政府の言うことを鵜呑みにしていたわけです。世に政府発表程信用できないものはないという格好の例でしょう。

ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁は周知のように当時西ドイツに属していた西ベルリンをぐるっと囲う壁で1961年8月に設置されました。ドイツは第二次世界大戦後、ソ連、アメリカ、フランス、イギリスの占領地区に4分割されました。ベルリンは地理的に言えばソ連の管理区域の中にありましたが、ドイツの首都でしたので、その重要度からそれ自体4分割され、ソ連占領区域の中の西ベルリンという陸の孤島状態が形成されたのです。米ソの冷戦下でベルリン支配は政治的駒として利用されていましたが、壁を作るに至った直接的な理由は、「足での採決」と言われていたソ連占領下から西側占領区域への逃亡を阻止するためでした。

1961年8月13日に東西ベルリンの行き来が禁止されてから1989年11月9日に西側への出国許可が宣言されるまでの28年間で、5075件の西独への逃亡が成功しましたが、逃亡に失敗または逃亡者と勘違いされて撃ち殺されてしまった人たちも少なくありませんでした。現代史研究センターZentrums für Zeithistorische Forschung (ZZF)によれば、ベルリンの壁の犠牲者は138人ですが、ベルリンのチェックポイント・チャーリー壁博物館では犠牲者は2009年時点で245人となっていました。
ベルリンの壁が崩壊する以前、旧東独では特に旅行の自由を求める自由民権運動が盛んになっていました。スローガンは「私たちが国民だ!(Wir sind das Volk!)」。その一方で、東ドイツ国民がハンガリーやチェコスロバキアに殺到し、プラハやブダペストの西ドイツ大使館の周辺にも溢れかえるようになりました。その後これらの東ドイツ国民は西ドイツ大使館の敷地内に収容されたものの、その収容人数は日々増すばかりでした。ハンガリーのホルン・ジュラ外相は東ドイツ政府に対してハンガリー国内にいる東独国民を処罰しないことと、西ドイツへの移住許可に前向きに対応するよう迫りましたが、東ドイツ政府は何の反応も示しませんでした。9月になっても東ドイツ国民の出国は止まらず、9月10日にはハンガリーのネーメト内閣が国境の全面開放を決定し、11日午前0時をもって東ドイツとの協定(当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶと同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた)を破棄して国境を開放し、国内にいる東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させました。その後国内外で混乱が続いたのですが、当時の最高指導者のホーネッカーが急性胆のう炎で療養生活に入っていたために指導者不在の状態で、事態に十分に対処することができず、結局ホーネッカーは失脚し、エゴン・クレンツが後任となりました。同年11月6日に新旅行法案が発表されましたが、国外旅行の際の様々な制限が多いままだったので議会で否認され、クレンツらは新たに暫定規則(政令)で対処することにしました。こうして、11月9日の記者会見で読み上げられた「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が作成されたわけですが、これを読み上げた、先日亡くなったギュンター・シャボウスキーは、この政令が閣議決定されているものと勘違いして、「いつからその政令が発効するのか」という記者の質問に対して「私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです("Nach meiner Kenntnis ist das sofort, unverzüglich")」と答えてしまい、後に「フライイング高官」と揶揄されるようになったのは有名な話です。この記者会見は生放送で、東独だけでなく西独でも受信可能だったので、東西両側で市民たちがベルリンの壁周辺に殺到ししました。配備されていた数少ない国境警備隊は、最初は「出国には許可がいる」と規則を守ろうと頑張っていましたが、「ゲートを開けろ」と迫る群衆に対抗する術は、同年6月4日に起きた天安門事件の影響であらゆるデモに対する武力行使を拒否していた軍警にはなく、ゲートを開けて群衆を通す以外の選択肢はありませんでした。現場にいない上官は「待機命令」を出していましたが、検問所を維持できないと判断したボルンホルマー通り検問所現場司令官のハラルト・イエーガー中佐が独断でゲートを開放させました。その他の検問所でも次々と同様の現場判断が下され、11月10日未明には全ゲートが開放されることになったのですが、ボルンホルマー通り検問所のイエーガー中佐が最初だったので、後に「ベルリンの壁を開放した男」と呼ばれることになりました。この事件は大きな政治的転換を意味する現代唯一の出来事であったため、現在でもただ「転換(Die Wende)」と言えば、このベルリンの壁崩壊を指します。


二つの歴史的記念日を振り返って
現在ドイツをはじめとするヨーロッパにおける最大の問題は難民大量流入と右傾化する世論・過激化する難民排斥運動です。「水晶の夜」を振り返って、こうした難民排斥運動は、いずれユダヤ人迫害にも繋がる危険性があり、根本的に同質の問題だとユダヤ教中央評議会は強い懸念を示しています。また、ベルリンの壁崩壊前の自由民権運動のスローガンだった「Wir sind das Volk!」がペギーダをはじめとする難民排斥運動に全く違う意味で利用されていることに嫌悪感を示している民権運動家も少なくありません。(ペギーダ運動に関しては拙ブログ「ドイツの難民排斥運動」をご覧ください)
このスローガンは当時民主化を求めるためのものであり、「私たち(Wir)」が強調されていたのですが、ペギーダ運動でのそれは「国民(das Volk)」の方に意味的なアクセントがあり、その趣旨は民主主義に反する国家主義的な傾向が強く出ています。その不穏な空気は水晶の夜に通じる異分子排斥衝動を包括し、難民収容所に対する犯罪は前年比4倍を記録しました。ドイツのための選択肢(AfD)という右翼政党の支持率も着実に伸びてきています。そのことに危機感を抱いているドイツ人も多いので、今日という現代史の重要な記念日に各地で自由・民主主義と異文化に対する寛容性、開かれた文化を確認するデモが行われました。
それにしても、東独時代に民権運動が最も盛んだったドレスデンで今日の難民排斥を趣旨とするペギーダ運動が起こったというのは実に皮肉です。そして彼らは国境閉鎖を訴えています。26年前、ベルリンの壁に殺到する東ドイツ国民を前にゲートを開けるしかなかった国境警備隊の教訓をすっかり忘れてしまっているようです。強い意志を持った群衆に武力行使できない国境警備隊ができることなど交通整理とパスポートコントロールくらいです。つまり、国境を閉鎖したくらいで難民問題は解決しないのです。
「歴史を繰り返さない」という強い政治的意志が今ほど必要とされている時もないのではないでしょうか。国境の壁も異分子排斥も遠い歴史上の出来事ではなく、正に今現在の問題ですから。

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