道彦の散歩道

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毎日の事件事故の記録

09/13 銘柄米①

2013年09月13日 | 食・レシピ

【コシヒカリ】

「コシヒカリ」は、福井県で誕生した米の代表格である。コシヒカリという品種は一つであるが、コシヒカリという銘柄にはコシヒカリ(品種)と多数の品種を含むコシヒカリBLという品種群が含まれる。現在、「新潟県産コシヒカリ」という銘柄は、9割以上がコシヒカリBL群であり、コシヒカリ(品種)とは異なる。

コシヒカリは(品種)は、昭和から平成にかけて、福島県、新潟県以南の日本各地で栽培される品種である。1956年、水稲農林100号「コシヒカリ」として命名登録された。

米の粘りが強く食味に優れる品種であるが、栽培上は倒伏しやすい、いもち病などに弱いなどの欠点も併せ持つ。

「育成経過」
1944年、新潟県農業試験場の高橋浩之により「農林22号」と「農林1号」との交配が行われたが、、この雑種は戦時下の状況悪化のため翌年の栽培は見送られた。

1946年、戦争終了後、育種事業が再開され、前述の雑種(雑種第一代)の栽培が行われた。1947年には、雑種第二代の栽培と選抜が行われた。選ばれた雑種第三代の種子の一部20粒は、福井県農事改良実験所に送られ、福井県で育成が行われることとなった。

福井県での1948年から1952年までの育種の結果、有望な2系統が育成され、「越南14号」、「越南17号」の系統名が与えられた。1953年から「越南17号」について、20府県での適応試験が行われた。結果は茎が弱く倒れやすい、穂首いもちに弱い、未熟粒が多い、収量も多くないなど、否定的な結果が多いものであった。

育成地の福井県でも、奨励品種採用が見送られたほどの成績であったが、越南17号を救ったのは、採用県の新潟県とそれに賛同した千葉県であった。1955年に越南17号は、新潟県・千葉県の奨励品種となる。新潟県が奨励品種としたのは、当時の主要品種である農林21号よりも葉もち耐性が優れ、収量が安定しており、米質も農林21号同様に優れていたためである。

一方で有機農業を推進する立場からは、多肥栽培に向かない=有機肥料に向かない、病虫害に弱い=農薬の大量散布が必要、との観点から批判的な意見もある。

新潟・千葉の2県での推奨品種決定を受けて、福井県では越南17号の命名登録を行うことになった。福井県側から、新潟県側に命名の依頼が行われた。新潟県は、両県がかって含まれていた「越国」(こしのくに)に因み、「越の国に光輝く米」と言う願いを込めて「コシヒカリ」と命名した。コシヒカリは、1956年に農林登録され、農林品種としては「農林100号」の番号がついた。後に、育成者の代表として福井農事改良実験所の担当者は、日本育種学会賞や農林大臣賞を受賞している。

「普及」
日本穀物検定協会による平成20年度の「米の食味ランキング」において最高の「特A」を得たコシヒカリの産地は、山形県の内陸、下越以外の新潟県の全域、福島県の会津、群馬県の北毛、長野県の東信、山梨県の峡北だった。この内、新潟県の魚沼産が一番高値で取引されている。すなわち、食味の良い産地は新潟県周辺の内陸部に集中しているが、これらの地域では夏季にフェーン現象などで昼間に高温になりながらも夜間は熱帯夜なりづらいという気候の特徴が共通している。また近年では、誕生した福井県も最高ランクを立て続けに獲得している。
その後普及は進み、南東北から南九州までコシヒカリの栽培地は広がっている。

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【ササニシキ】

「ササニシキ」は、宮城県古川農業試験場でハツニシキとササシグレの掛け合わせにより誕生した。実際には「農林22号」と「農林1号」との交配試験米とササシグレの掛け合わせとて開発された。

コシヒカリと比較するとアミロース含有量が多いため相対的にアッサリしている。寿司酢を入れてもベタベタしないため寿司職人が好み、寿司店によってはササニシキ使用をセールスポイントにしている。

かってはコシヒカリと共に両横綱と呼ばれた人気品種で、1990年には207438ヘクタールに作付けされ、ピークに達した。しかし、耐倒伏性、いもち病抵抗性に弱く、気象被害を受けやすいという短所があり、1993年の冷害では大きな被害を出した。その後、冷害に強い「ひとめぼれ」の作付けが広まり、ササニシキは作付けを大幅に減らしつつ現在に至っている。現在はいもち病への抵抗性を高めたササニシキBL(ささろまん)という派生品種もある。
現在はおもに宮城県で栽培されている。ほとんどが寿司屋向けである。

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09/12 「川俣シャモ」と「ジビエ」

2013年09月12日 | 食・レシピ

【川俣シャモ】
「川俣シャモ」は、福島県伊達郡川俣町で特産品として生産されている食用鶏である。

『概要』
江戸時代末期に川俣町は絹織物の生産で栄え、多くの「絹長者」が生んだが、彼らが闘鶏用のシャモ(軍鶏)を普及させ、食用として美味しく食べる様々な方法も試みられた。

その後伝統は途絶えていたが、川俣町が町おこしの一つとして、絹とシャモの関係にヒントを得て1983年に食用シャモの研究を開始し、純系のシャモ「赤笹」の雄とアメリカ産の肉卵兼用種「ロード・アイランド・レッド」、その後、肉用専用種「レッドコーニッシュ」などと掛け合わせて改良し現在の「川俣シャモ」を作り出した。

現在は「川俣シャモ研究会」加入の農家が飼育を行い、川俣町農業振興公社が加工品(燻製・冷凍・だんご鍋セットなど)の生産・販売を行っている。自然の中で放し飼いで成長することによる、高タンパク・低カロリー・低脂肪の健康食品であり、豊かなコクと風味が人気を呼び、首都圏でも高級食材として認知されはじめている。

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【ジビエ】
「ジビエ」とは、狩猟によって、食材として捕獲された野生の鳥獣である。
本来はハンターが捕獲した完全に野生のもの(ソバージュ)を指すが、価格が安定しない、また入手困難で高価になってしまうといった理由で、飼育してから一定期間野に放ったり、また生きたまま捕獲して餌付けしたものもドゥミ・ソバージュと呼び、ジビエとして流通している。

『工程』
ジビエのハンティングには、大変気を遣う。銃弾よって可食部分が大きく損傷してしまったり、また内臓が飛び散って味が悪くなってしまってはいけない。また、仕止めた後も、血抜きや解体といった処理を適切に行う必要がある。通常は獲ってからすぐ食べるのではなく、数日かけて熟成してから調理する。

『主なジビエ』
「鳥類」

「マガモ」
血の色か濃く、野趣に満ちた味を持つ。雌の方が脂肪層が厚く、風味も強いとされている。ちなみに、マガモ=コルヴェールであるが、コルヴェールとは「緑の首」という意味であり、日本語の鴨の異称である「青頭」と同義である。

「キジ」
キジもポピュラーなジビエである。雄より雌の方が肉質が柔らかく、珍重される。なお、肉の熟成を意味する「フザンダージュ」は、キジのフランス名に由来している。

「その他の鳥類」
その他によく使用されるジビエとしては、アヒル、ヤマウズラ、ライチョウ(日本では天然記念物のため狩猟できない)、ヤマキジなどが有名である。

「獣類」

「シカ」
クセのない淡泊な赤身肉。ヨーロッパでは二歳くらいのものを使う。頭や首の急所を狙って一発で即死させないと暴れて肉に血が回ってしまうため、ハンターの腕が問われるところである。血抜きも即座に行われなければならない。
北海道や長野県てはシカの食害に悩まされて来たが、近年になって駆除したシカ肉をジビエとして利用するようになっている。

「イノシシ」
日本では成獣を狩るが、フランスでは肉が硬くなるのを嫌って、まだウリ坊の幼獣を対象とする。味・料理法は豚肉に準じる。

「野ウサギ」
ジビエの中ではクセが強く、また肉質も硬くバサつきやすい。火の入れ方、スパイスやハープの使い方など調理に気を遣う食材である。一匹丸ごと煮込む、ロワイヤルと呼ばれる調理法が代表的である。

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09/11 「ザリージ」と「香り箱かに」

2013年09月11日 | 食・レシピ

【ザリージ】

「ザリージ」とは、北海道函館市の郷土料理で「豚のザンギ風天ぷら」である。
「ザリージ」は、その昔函館に数多く存在したという中華料理店で幅広く提供されていた定番メニュー。今で言うとラーメン店でビールのつまみにチャーシューや餃子を頼むような感覚で、サイドメニューとして多く食されていた。また、ザリージをメインのおかずにした「ザリージ定食」をメニューに掲げていた店もあったという。
時には主役になる名脇役「ザリージ」の前途は明るいかに見えた。だが、食文化の多様化が進んだ1980年以降、中華料理店の閉店が相次ぐとともにザリージの存在は次第に函館市民の記憶から薄れていった。今では、函館でザリージを提供している飲食店は片手の指に余るほどだ。

そんな「ザリージ」にもう一度脚光を当てようと、市民有志がたちあがった。彼は函館や道南の「豚食文化」の歴史を象徴的に表す食べ物として「ザリージ」に着目。市民からの聞き取りと歴史的背景の考察を元に、当時の「ザリージ」の復刻に取り組んだ。

はきりとした文献資料かないために不明な点も少なくなかったが、現在50~60代の人も「子供の頃に食べた」と証言していることから、戦後間もない頃には既に存在していたことが推測される。また、人によって味の記憶があまりにもまちまちであることから、決まったレシピはなく、その店によって味付け異なっ他で有ろうことも分かってきた。さらに、「ザリージ」は中華料理店で食べるもので、各家庭では鶏肉のザンギが食べられていたことが分かった。
これは豚肉を使うことが多い中華料理店が食材のロスを嫌い、鶏肉の代わりに豚肉でザンギ風のものを作ったからではないかと考えられる。
こうした数々の記憶を元に復刻された「ザリージ」は、2012年8月に函館大門横丁のイベントで復活デビューした。9月に実施された「はこだてグルメサーカス」でも大々的に販売され、大好評を博した。

復活「ザリージ」では、豚モモ肉のブロックを使用、注文を受けてから6ミリほどの厚さに切り出し、合わせダレをもみ込んで3分ほど漬け込み、一旦上げてタレを切ってから衣を付けてサッと揚げる。
合わせダレは、調味料が豊富でなかった当時の状況を踏まえて醤油・砂糖・日本酒に生姜や胡麻油などを加えたオーソドックスなものにしている。
タレに漬け込んでから一旦ザルに上げてタレを切るのは、衣の色を濃くしないため。「ザリージの衣は白っぽかった」との人々の記憶を再現している。この復活ザリージは現在、大門横丁内の「いか家」と「てらや」の両店で食べることができる。

今回ザリージを復活させた市民有志は、ザリージを函館の名物として再び定着させるべく「函館ザリージ普及委員会」を設立。レシピの公開などを行い、函館の外食産業にザリージを浸透させるべく働きかけていく考えである。

なお、これまでの同委員会の調査では「ザリージ」の語原は分かっておらず、さらなる調査が待たれる。

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【香り箱かに】

かに風味蒲鉾は、オイルショックによって日本経済が沈滞ムードに浸っていた昭和49年に、スギヨは「百年に一度」と言われた大ヒット商品「かにあし」の開発に成功し、その生産に追われていた。
しかし、その「かにあし」は、計画的に開発されたのではなく、偶然と失敗から生まれた開発努力の賜物だった。

試作に試作を重ねてチャレンジしていった結果、口当たりがカニの身にそっくりで、味覚は満点に近いあの「かにあし」が出来上がったのである。
失敗を無駄にしないスギヨの開発者スピリットなくして、世紀の大ヒット商品は日の目を見なかっただろう。

「築地市場」
特許庁から商品名は「かにの足」では駄目だが「かにあし」なら良しと許可取得早速、東京・築地市場に出してみたところ、「売れるわけがない」と一蹴。
ただ、一社だけが「これは面白い発想だ」と救いの手を差し伸べた。ところが蓋を開けてみると、爆発的な人気を呼び、増産に次ぐ増産、まさに開場以来の記録的な商品量を記録した。「かにあし」を積んだトラックが市場に到着すると、待ち構えた業者が我先にと奪い合うほどであった。

「米国市場」
昭和61年、スギヨは米国市場に進出。日本食ブームと健康志向も相まって、能登・七尾生まれのカニ風味かまぼこは、海外でも高く評価され、その人気を不働のものとなり、新しい日本食は、海を越え、世界の食品となったのである。

「商品」
かに風味蒲鉾「香り箱」は、高級なすり身を使い、極細組織でカニの脚肉のように仕上げた「かに風味かまぼこ」である。形状、味、色合い、ジューシーな食感など、ズワイガニの抜き身をとことん再現した商品である。

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09/10 回転寿司

2013年09月10日 | 食・レシピ

「回転寿司」とは、各種の寿司を載せた小皿を客席沿いに設置されたチェーンコンベア上に連続して循環させ、半セルフサービス型の安価な寿司店の形態。

『概説』
価格は通常、皿の色柄によって何種類か分かれており、食後に皿の枚数を数えることで精算を行う。欲しい種類の寿司が流れてこない時や、汁物、飲み物などは、客が別途注文を出すことになる場合がある。既に回っている種類の寿司であっても、新たに頼んで握ってもらうこともできる。

客席はコンベアの高さにカウンターが設置された席と、ややコンベアより低い高さにテーブルとソファが設置されたボックス席とがある。客層としては家族連れなどが多い店は相対的にボックス席の比率が高い。

寿司以外には副食類や飲み物、デザートなどを回している店もある。客層に児童や高齢者を含んだ客層を想定し、わさび抜きや量を控え目に握ってある店舗では、追加用の無料わさびが回っていることもある。

『形式』
店内の形状には、飲食スペースと同じ室内に寿司職人が位置し、これを囲むようにコンベアと客席が配置された対面型のものと、飲食スペースと厨房が分離され、飲食スペースには厨房内から延びたコンベアと客席のみが設置されている非対面型のものとがある。対面型は従来のカウンター式寿司店と似た形状であり、初期の回転寿司店は皆この形状をとっていたが、客の目の前で調理するため寿司職人未経験者や機械の導入がしづらく、低価格店を中心に非対面型が増えている。

『歴史』
大坂の立ち食い寿司店経営者・白石義明が、ビール製造のベルトコンベアをヒントに、多数の客の注文を低コストてで効率的にさばくことを目的として「コンベア旋廻食事台」を考案し、1958年、大阪市布施市(現在の東大阪市)の近鉄布施駅北口に最初の回転寿司店である「元禄寿司」を開いた。

西日本で店舗展開していた元禄寿司に対して、宮城県の「平禄寿司」が東日本での元禄寿司の営業権契約を獲得し、一号店の誕生から10年後の1968年、仙台市に元禄寿司のフランチャイズ店を開店した。元禄寿司によると、これが「東日本で初めての回転寿司店」だという。
1970年に開催された日本万国博覧会に元禄寿司が出展し表彰されると一気に知名度が高まり、従来の寿司店の高級化傾向に対し、低価格さ、手軽さ、会計の明朗さで大衆客のニーズをとらえた。1975年には、北関東の元禄寿司フランチャイズ事業者が郊外への出店を始め、これが郊外型店舗が増加するきっかけとなった。1970年以降、元禄寿司のフランチャイズは全国的に広まり最盛期には200店を超えた。

さらに、1978年に「コンベア式附調理台」の特許権利が切れると、現在の大手となる企業など新規参入が相次ぎ競争が激化した。また、元禄寿司をフランチャイズ展開していた企業も、自前のブランドを掲げ独立していった。元禄寿司は飲食店の名称として「まわる」、「廻る」、「回転」などを商標登録しており、後発の他店は「回転寿司」の名称を利用できない状況が続いていたが、1997年に元禄寿司は飲食店における「回転」の使用を解放している。

『設備』
寿司を回転させるコンベアは、ほぼ100%石川県で製造されており、金沢市の石野製作所が約60%、白山市横江町の日本クレセントが40%のシェアである。1974年には石野製作所が「自動給茶機能付きコンベア」を開発し、以後「湯呑搬送コンベア」、「鮮度管理システム」など、両社により新機能が開発されている。

対面型店舗では、皿を載せたコンベアは時計回りに回転するものが多く、これはカウンター席で箸を持った右利きの人が取りやすいようにとの配慮によるものである。

低価格店を中心に作業効率の向上策として、通常のコンベア以外にも様々な独自設備が盛に導入されている。
使用済みの皿を効率的に回収できるように、カウンター内部に皿回収溝が流れている店もあり、客席ごとに皿の投入口が設置され、皿を投入すると数が自動計算され価格が表示されるようになっていいる。
更に、皿の裏に二次元バーコードやICタグを付けることにより、鮮度管理、売れ筋分析、会計処理効率化を行うなどIT化も進んでいる。

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09/09 寿司

2013年09月09日 | 食・レシピ

【寿司】
「寿司」と呼ばれる食品は、酢飯と主に魚介類を組み合わせた日本料理である。
大別すると生鮮魚介を用いた「早鮨」と、魚介類を飯と塩で乳酸発酵させた「なれ鮨」に区分される。なかでも代表的な寿司は前者の「握り寿司」であり、英語圏でも通じる料理となっている。

『歴史』
「寿司の起源」
中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源」では「ラオスの山地民やボルネオの焼畑民族」の焼畑農耕文化複合の一つとされている。「すしの本」は、東南アジアの山地民の魚肉保存食を寿司の起源と挙げ、高地ゆえ頻繁に入手が困難な魚を、長期保存する手段として発達したものとしている。

中国で「鮨」の字は紀元前5-3世紀に成立した辞典「齋雅」に登場する。「魚はこれを鮨という。肉はこれを醢という」と対比され、鮨は魚の塩辛と解釈されている。

日本における文献初見は「養老令」の「賦役令」で、鮑鮓、貽貝鮓のほかに雑鮨が見える。「令義解」はこれに「鮨または鮓なり」と注釈しており、以後日本では鮨と鮓が区別されず、ともに「すし」とされた。

「日本の寿司」
すでに奈良時代に存在が知られるが、平安時代の「延喜式」には諸国からの貢納品が記されており、鮓・鮨の語を多く見出すことができる。魚を塩と飯で漬け込み熟成させる「なれずし」であると考えられる。

しかしなから、室町時代以降に「なれずし」の発酵期間が短縮され、また、「漬け床」の飯も食用とされたということを史料で確認することはできない。奈良・平安時代以来、室町時代から織豊時代にかけても鮨の多くを占めるのは鮎や鮒の「なれずし」であるが、各時代の鮎や鮒などの同じ種類の鮨の「飯漬け」期間を比較して、その期間の「短縮」が証明されていたわけではない。奈良・平安時代においても、食材の種類や「飯漬け」の時季により、醗酵の度合いには差があり、数日間の醗酵のものもあれば、1,2ヵ月のものもあるとされる。従来の見解は、数ヶ月間以上の「飯漬け」を行う現在の滋賀県の「ふなずし」を奈良時代以来の「なれずし」、これよりも「飯漬け」の期間が遙かに短い和歌山の鯖の「なれずし」などを「生成」であるとする理解から導き出されたものであるという。そして、「生成の鮨」とは、十分な熟成を経ない半熟の鮨ではあるが、飯を共に食するというものではなく、敢えて半熟状態のものを試みに食するというもので、「鮒鮨」に限られていることから、これは「鮒鮨」の食べ方を意味する言葉であり、室町時代以降のそれまでの「なれずし」が「生成」になるという従来の理解は誤りである。

時代が下がるとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、鮨の発酵を早めるため様々な方法が用いられ即製化に向かう。そして1600年代から酢を用いた例が散見されるようになる。岡本保孝著「難波江」に、「松本善甫という医者が延宝年間に酢を用いたすしを発明し、それを松本ずしという」とあるが、日比野光敏によれば「松本ずし」に関する資料は他になく、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司があるゆえ「発明者とは考えられない」としている。誰が発明したかはともかく、寿司に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、いよいよ醗酵を待たずに酢で酸味を得て食する寿司、「早寿司」が誕生することになる。

『戦後の寿司』
第二次世界大戦直後、厳しい食糧統制のさなか、1947年飲食営業緊急措置令が施行され、寿司店は表立って営業出来なくなった。東京では寿司店の組合の有志が交渉に立ち上がり、一合の米と握り寿司10個を交換する委託加工として、正式に営業を認めさせることが出来た。近畿をはじめ全国でこれに倣ったため、全国で寿司店といえば江戸前ずし一色となってしまった。当時を知る職人は、「あらかじめダミーの米を入れる袋を用意して店頭に置き、取締を逃れて営業したこともある」と述べている。

『種類』
現在は握り寿司が代表的であるが、弁当などではそれ以外の押し寿司、ちらし寿司、巻き寿司、稲荷寿司、なれ寿司が多く使われる。

「握り寿司」
握り寿司は小さな寿司飯の塊に具を載せて握ったものである。飯と具の間にわさびを入れる。てづかみ、あるいは箸を用いて、必要が有れば醤油を付けて食べる。
「妖術という身で握る鮓の飯」(柳多留)が握り寿司の初出文献である。握り寿司を創案したのは「興兵衛鮓」「華屋興兵衛」とも、「松の鮨」堺屋松五郎ともいわれる。

「巻き寿司」
巻き寿司は、具と寿司飯を海苔で細長く巻いた寿司、巻き簾の上に海苔を広げ、酢飯と具を載せて巻いたものである。かんぴょうの巻き寿司が好んで食べられ、これを海苔巻きと称した。その後、大きさも具も様々な物ができた。

「稲荷寿司」
稲荷寿司の語原は、油揚げが稲荷信仰に関わりの深い狐の好物であることに由来する。史料によると、「油揚げの一方を裂いて袋状にし、木茸、カンピョウなどを刻みいれた酢飯を詰めたすしを、天保の末年から江戸市中に売り巡る。店売りは天保以前からあり、最も安価なすし。名古屋には以前からあり、稲荷ずしまたは篠田ずしという」とある。
「天言筆記」には飯やおからなどを詰めてワサビ醤油で食べるあり、「はなはだ下直」ともある。
現代の稲荷寿司は袋状に開いた油揚げを煮付け、中に酢飯のみを詰める場合と、酢飯にニンジンやシイタケ、ゴマなどを混ぜ込んで詰める場合とがあり、後者は「五目稲荷」と呼ぶこともある。
岐阜県あたりを境に、東は四角、西は三角と、地域によった形が分かれる。いずれも「印籠寿司」の範疇に分類される寿司である。
また、稲荷寿司と巻き寿司を詰め合わせたものを「助六」という。これは「揚げ」と「巻き」で揚巻(歌舞伎に登場する花魁の名)という洒落である。

「ちらし寿司」
生魚や玉子焼きの刺身や握り寿司の種を、酢飯の上にちらして飾り載せたもの。具を散らして作ることから「ちらし」と呼ばれる。
江戸前寿司店のちらし寿司、北海道の生ちらし等が有名である。

「その他の寿司」
その他の寿司の種類として、「五目寿司・ばら寿司」、「なれずし」、「押し寿司」等がある。
また、地方独特の寿司として、千葉県銚子市や大阪府の郷土料理の「伊達巻き寿司」、東京都の伊豆諸島及び小笠原諸島の郷土料理である「島寿司」、滋賀県名産の「ふなずし」、奈良県・和歌山県、石川県の郷土料理の「柿の葉寿司」や「めはり寿司」、関西圏で名産の「鯖寿司」等が有名である。
また、関西圏を中心に普及している「大阪寿司」に属する寿司として、「バッテラ」、「松前寿司」、「巻き寿司」、「茶巾寿司」、「ばら寿司」、「酒寿司」等がある。

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09/08 「ゆば」と「高野豆腐」

2013年09月07日 | 食・レシピ

【ゆば】
「ゆば」は、大豆の加工食品の一つ。

『概説』
豆乳を加熱した時、ラムスデン現象によって液面に形成される膜を、竹串などを使って引き上げた物で、植物性蛋白質に富む精進料理の材料である。

豆腐との最大の差は製造方法である。豆腐は凝固剤を使用して、大豆の植物性蛋白質を凝固させたものであり、ゆばは凝固剤を使用せず、加熱により大豆の植物性蛋白質が熱凝固したものである。しかし、ゆばは凝固剤を使用しないため、大豆からできる製造できる量は約10分の1程度と少ない。

精進料理の材料として、日本のゆばは約1200年前に最澄が中国から仏教・茶・ゆばを持ち帰ったのが初めといわれ、日本最初のゆばは、現在の京都府京都市と滋賀県大津市の間に位置する比叡山の天台宗総本山の延暦寺に伝わり、比叡山麓の坂本に童歌に「山の坊さん何食うて暮らす、ゆばの付け焼き、定心坊」として唱われたことが歴史的な記録に残る。

ゆばは姥の訛りであり、黄色く皺のある様が姥の面皮に似ていることからそう言われるようになったとの俗説がある。

『日本のゆば』
日本で最初にゆばの伝わった比叡山麓の京都や近江(現在の滋賀県大津市)、日光、身延といった古くからの門前町が産地として有名で、京都と身延では「湯葉」、日光では「湯波」と表記する。
日本では、引き上げた湯葉を生湯葉と呼び、料理の材料にするが、刺身と同様にそのまま食べる。普茶料理でもよく使用される。

京都の湯葉は膜の端に串を入れて引き上げるため一枚なのに対し、日光の湯波は膜の中央に串を入れて二つ折りにするように引き上げるため二枚重ねむとなる。このため、京都の物は薄く、日光の物はボリューム感のある物になる。
また、関西の湯葉は生または自然乾燥させることが多く、日光の物は生または油で揚げられることが多い。

生湯葉のほかに、生湯葉を乾燥させた「干し湯葉」、半乾燥の状態のうちに巻いたり、結び目を作った「結び湯葉」など、様々な種類が市販されている。巻いた状態の物は吸い物の具にされることが多く、シート状のものは、復して各種の湯葉巻き料理にされることが多い。

『中国のゆば』
中国では、シート状に干した「腐皮」と、棒状に絞ってから干した「腐竹」が多く、日本の湯葉のような巻いた形状で市販されることは稀である。結んだ状態の「腐皮結」は中国でも作られている。

浙江省の杭州は、「腐皮」の産地として知られており、名物料理のひとつに、湯葉を素揚げした「胎炸響鈴」という料理がある。
香港や広州でよく見られる広東料理の点心として、豚肉・シイタケ・ニンジンなどの拍子切りを湯葉で巻き、オイスターソースなどて煮てから、蒸籠で蒸した「鮮竹捲」がよく食べられている。

台湾の湯葉は、豆皮と呼ばれており、雲林省は「豆皮」の産地として知られている。

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【高野豆腐】
「高野豆腐」とは、豆腐を凍結乾燥させた保存食である。
乾燥状態では軽く締まったスポンジ状で、これを水で戻し、だし汁で煮込むなどして味を付ける。

『歴史・名称起源』
冬期に豆腐を屋外に放置してしまったことから、偶然に製法が発見されたと言われている。

俗に高野山で製造される凍り豆腐が、精進料理の一つとして全国に広まったものとされるが、実際には、東北地方にも凍み豆腐と呼ばれる同じ製法の保存食があり、こちらは戦国大名伊達政宗が、兵糧研究の末に開発したという伝説がある。
中国にも同様の食品があるので中国から伝来した可能性も高い。
寒さの厳しい地方では、場所に限らず偶然の産物として発見され、普遍的に生産されてきた食品と見られる。

高野豆腐と呼ばれるに至ったのは、江戸時代において高野山の土産物として珍重されたからとも言われている。江戸時代においては最も流通した物がその販売地、販売者の地名を冠することがあり、これもその一つである。

高野豆腐の名称は現在では全国に広まっているが元は関西圏で広く用いられていた名称で、甲信越地方・東北地方・北海道では凍み豆腐め凍り豆腐と呼ばれていた。これらの地方で作られる伝統的な製法の凍り豆腐は、縄で数個ずつ豆腐を連ねて軒先に吊して作るので、その形から「連豆腐」とも呼ばれている。大坂では「ちはや豆腐」という呼び名もある。古くは氷豆腐と表記されることもあった。

東北地方では製造途中の凍ったものを凍り豆腐として冷凍販売し、乾物の状態のものを凍み豆腐として区別して販売されているため、注意が必要である。
日本農林規格では、凍り豆腐が正式な名称となっている。

寒冷地で発達した食品であることから、現在では長野県が日本最大の生産地である。高野山近辺では現在製造されていない。

『製法』
最も伝統ある製法では、硬く水切りした豆腐を適当な大きさに切り、寒中の屋外に放置する。夜間は凍結し、日中に溶けることを繰り返すうちに完全に水分が抜け乾物となる。
水分が凍る時、内部に無数の氷の結晶ができる。溶ける際にその部分が小さな穴として残る。こうしてスポンジ状の多孔質の高野豆腐ができあがる。甲信越・東北・北海道および高野山での古い作り方とされる。

高野山では古くは上記の伝統製法で作っていたが、時代が下るに従い製法に工夫が施され独自の製法が確立されていった。夜間に凍結した豆腐が日中溶けてしまわないように、専用の氷室に入れて数日間熟成させ、その後に解凍し乾燥させる。乾燥法も初めは天日干しだったが、後には乾燥用の室の中で炭などを焚き強制的に乾燥させる方法が広まった。
現在は冷凍機で凍結し、乾燥機で乾燥する機械製法がほとんどである。

『調理法』
高野豆腐は乾物なので、調理するには水分を含ませて戻す必要があり、高野豆腐の場合には熱湯に浸して戻す湯戻しが必要となる。ただし、近年では湯戻しを必要としないものや電子レンジで調理できるものも市販されている。

『膨軟剤』
伝統的な製法による高野豆腐は硬く、水戻しには一晩かかり、柔らかく炊き上げるのは難しく、調理に時間がかかる食材である。このため、現在市販されている高野豆腐のほとんどには、水戻しの時間短縮し、柔らかく煮あがるように膨軟剤と呼ばれる食品添加物が加えられている。

『重層』
蛋白質を分解し食材を柔らかくする重層の性質を利用し、高野豆腐を柔らかくする。生の豆腐を凍結し、重層の入った水に浸して解凍する。重層の染み込んだ豆腐の水を切り乾燥させる。蛋白質の一部が破壊されているので水戻しも早く、柔らかく煮あがる。現在市販されているものは、ほとんどが重曹処理されたものである。

重曹処理された高野豆腐は伝統製法のもの比べ、非常に柔らかく、食感も異なる。その柔らかさから煮崩れしやすく、伝統製法の高野豆腐と同じ感覚で調理すると形が崩れてしまう。真水で煮ると崩れるので、組織を引き締め煮崩れを防ぐために初めから塩分を含ませた出汁で煮る。

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09/07 「烏賊飯」と「辛子蓮根」

2013年09月07日 | 食・レシピ

【烏賊飯】
「烏賊飯」は、イカの中に米を入れて炊き上げた日本の料理。北海道渡島地方の郷土料理。

『概要』
下足を取り外し、腹ワタを取り除いた烏賊の胴身に洗った米を詰め込み醤油ベースの出し汁で炊き上げたもの。爪楊枝等で米か飛び出さないように留める事もある。米はもち米とうるち米を混ぜる。胴身に詰める具材として、下足を細かく刻んだものや筍、ニンジン、油揚げなどを入れることもある。

『駅弁』
函館本線森駅の駅弁調製業者だった阿部弁当店(現在のいかめし阿部商店)が、第二次世界大戦中の1941年、戦時体制による食糧統制で米が不足していたため、当時豊漁だったスルメイカを用いて米を節約しても作れる料理として考案した。

戦後の1966年に京王百貨店で『第一回元祖有名駅弁と全国うまいもの大会』が行われ、阿部弁当店はこの大会に「烏賊飯」を出品した。第二回には早くも売上一位となり、以後同大会をはじめとする「駅弁大会」の常連となった。これによって「いかめし」は徐々に森町名物あるいは北海道名物として全国に知られるようになった。

現在では阿部商店以外の業者も製造販売しており、催事や通信販売でレトルトパックになったものが容易に入手できる。本州でも新潟県の長岡駅など、イカの産地では同様の駅弁が販売されている。

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【辛子蓮根】
「辛子蓮根」は、熊本県の郷土料理である。

『発祥と由来』
熊本藩主細川忠利は生来病弱だったが、ある時前任地である豊前国耶馬溪羅漢寺の禅僧・玄宅が忠利を見舞った時に、蓮根を食べるように勧めた。そこで藩の賄方であった平五郎が、加藤清正が熊本城の外堀に非常食として栽培していた蓮根の穴に和辛子粉を混ぜた麦味噌を詰め、麦粉・空豆粉・卵黄の衣をつけて菜種油で揚げたものを忠利に献上したという伝承がある。

蓮根は増血剤として優れている上に辛子には食欲増進作用があること、また蓮根を輪切りにした断面が細川家の家紋と似ていたことから門外不出の料理とされていたが、明治維新からは一般にも製法が伝わり、熊本名物の一つになった。

『製法』
蓮根をタワシでよく洗い、両端を切り落としものを、沸騰したお湯の中にいれて15分ぐらい茹でる。茹であがったらざるに立て陰干しをし水気を取っておく。
味噌、粉辛子、蜂蜜を混ぜ合わせて作った辛子味噌を蓮根の穴に隙間無く詰め込み、5時間以上置いておく。辛子味噌を山盛りにしておき、蓮根の断面を上から山を削るように押し付けるのが、もっとも簡単な辛子味噌の詰め方である。
辛子味噌を詰めておいた蓮根に、小麦粉、ターメリック、水を粘りが出るように混ぜ合わせて作った揚げ衣を、タップリ満遍なくつけて中温の油で揚げる。油は通常、菜種油を使うため、衣のターメリックとの相乗効果で出来上がりは黄色く発色した状態となっている。揚げあがったら、適度な厚さで輪切りにして食べる。

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09/06 光る花

2013年09月06日 | 豆知識

NECソフト、農業・食品産業技術総合研究機構 花き研究所、インプランタイノベーションズ、奈良先端科学技術大学院大学の4者は9月5日、新規蛍光タンパク質を組み込んだ、光る「トレニア・フルニエリ」の共同開発に成功したことを発表した。

蛍光塗料による「光る花」は、イベント用途や贈答用として商品化されているが、植物自体の特性として蛍光を発するものはなかった。バイオ手法では、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質等を植物に組み込むことで「光る花」を開発する試みはあったが、目視で確認できるほど強い蛍光を発する植物は作られていなかった。

今回の開発で成功した「光る花」は、海洋プランクトンの一種である「キリディウス属」から発見された新規蛍光タンパク質の遺伝子情報を、遺伝子組み換え技術を用いてトレニアに導入したという。

暗闇の中で特定の波長の光を当てると、鮮やかな黄緑色の蛍光を実現した。研究面では、遺伝子発現を植物体のまま非破壊て解析する技術が大幅に向上する一方で、市場への「光る花」の提供が可能になったとのこと。今後は、植物体における蛍光タンパク質の活性維持や観察および展示手法について研究を進めるという。

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09/05 「イカそうめん」と「沖漬け」

2013年09月05日 | 食・レシピ

【イカそうめん】
「イカそうめん」は、生のイカを麺状に細く切り、醤油やめんつゆを付けて食べる日本に特有の料理である。

『特徴』
言葉の並びから日本の食文化に馴染みの浅い人は誤解しがちであるが、「イカそうめん」はイカとそうめんを組み合わせた料理ではない。
イカの身を2枚あるいは3枚に分け、うどん程の細さに切る。醤油またはつゆは、醤油をショウガと和えた生姜醤油、ワサビと和えた山葵醤油、あるいはめんつゆのいずれかを好みによって使い分ける。
この食べ方がそうめんと共通していることから、そこまでの細さではないが「うどん」ではなく「そうめん」に譬えれたものと考えられる。太さで言えば、似ているのはむしろ、うどんである。

『食材と調理』
食材のイカは、たいていスルメイカが用いられ、それに次いでアオリイカが用いられることが多いようである。しかし、それらでなければならないという定義はなく、ヤリイカを使う料理人もいる。
鮮度の良いものは身が透き通っていて、甘さはそれほどでもないが、歯応えを楽しめる。
新鮮さで言うと産地で直接味わうに限るが、味の点で言うと1日置いたほうが甘味が増して美味しく食べられるものも多い(ケンサキイカ等)。また、細かく刻んだマグロの身を和えるとイカの成分が変化して旨味が増すとされる。

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【沖漬け】
「沖漬け」とは、イカやアジやキスなどを醤油に漬け込んだ料理。イカを漬け込んだものは「イカの沖漬け」と呼ぶ。

『概要』
この料理の本来は、イカ釣り船に調理ダレを持ち込み、釣れた先から生きたままのイカをタレの中に放り込んで作るという、文字通りの沖で漬けるものである。
イカがタレを飲み込むことにより内側からも味が付いて美味しくなるのだという。漬けて1日目はまだイカの鮮度が高く、イカ刺身のような味と食感を楽しむことが出来る。2日目、3日目と時間が経つにつれて味か身の奥まで行き渡り、1日目とはまた違った美味しさを楽しむことができる。

『調理と食べ方』
ヤリイカやアオリイカなどのイカを丸ごと、または切り身にして醤油ダレに漬け込んで食べる。醤油に日本酒を加えて煮立てたもの、それに唐辛子を入れたものを漬け汁にすることが多い。出汁を加えることもある。
また、食べる直前にユズなどの柑橘類の香りをつけて臭みを和らげるという調理法も見られる。
沖漬けは北海道の名物として有名だが、ホタルイカを沖漬けにしたものは富山県などの名物として広くしられている。
北海道では丸ごとイカを冷凍庫で凍らせ、食べる直前に輪切りして凍ったまま食べることも多い。この食べ方は「ルイベ」と呼ばれる。内臓ごと漬けた場合、ルイベにすることで臭みが軽減し、また、箸でつまめるようになるので、食べやすくなる。

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09/04 「馬刺し」と「鹿肉」

2013年09月04日 | 鍋料理

【馬刺し】
「馬刺し」とは、馬の肉を薄く切り分けて生で食べる日本料理のことである。馬肉の刺身。

『歴史』
馬肉食の習慣のある地域は古来より馬の名産地であり、馬の生産と直結した文化が根付いていたと考えられる。文禄・慶長の役当時、補給線を断たれ食料が底をついた加藤清正軍がやむを得ず馬肉を食したのが始まり、帰国後、清正が領地である肥後国(熊本県)に広めたという俗説がある。今日では、馬刺しは熊本県の郷土料理として広く認知されている。

『現状』
馬肉を生で食べる習慣は熊本県の他、青森や山形県、福島県、長野県、山梨県に存在する。現在は、馬刺しの消費量は約2万3000トンであるが、日本で流通しているほとんどは、北米産、欧州産、あるいは生体を輸入している国内肥育のもので占められており、純国産は僅かである。
日本の馬肉輸入は、オーストラリア、アルゼンチン、ブラジル、カナダ、アメリカであり現在シェア60%の会社がオーストラリアから輸入している。

『生食用加工施設』
1998年9月11日に出された厚生省からの通知により、その生食用食肉の衛生基準に適合していると畜場から生食が認められた馬刺しが出荷されていいる。
2011年現在、生食用食肉の加工基準に適合し、生肉の出荷が認められたと畜場は全国で12カ所のみであり、全て生肉は馬肉のみを出荷している。
流通は、冷凍と冷蔵の2種類で行われているが、冷凍で流通するものは風味・色合いが激しく落ちてしまう。このような理由から、冷凍より冷蔵で流通している物のほうが、信頼出来る品物である確率が高い。

『食べ方』
馬刺しには、大別して「トロ」や「霜降り」、「赤身」があり、また一頭あたりから採れる量が少ないので珍重される「タテガミ刺し」や「こうね(タテガミの脂)」のほか、匂いがほとんどない「レバ刺し」や「タン刺し」などもある。「トロ」と呼ばれ部分は、バラ肉の極上部位であり、赤身に霜がふっている部分を「霜降り」と呼ぶ。また、馬のあばら部分の三層肉は「ふたごえ」と呼ばれ、コリコリとした食感がある。
馬刺しは、おろしショウガやおろしニンニク、刻みネギなどを薬味に醤油につけて食べるのが一般的である。また、馬刺しや炙った馬刺しを載せた寿司としても親しまれ、回転寿司などでも見掛けるようになった。
牛と異なり馬肉の沸点は低く、口内の温度でも十分溶けるため、霜降り肉でも刺身で美味しく食べられる。

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【鹿肉】
「鹿肉」は、鹿の肉を食用としたものである。

『特徴』
鹿類の肉は、一般的に高タンパクで低脂肪という栄養学的特徴がある。さらに鉄分の含有量も非常に高い。
こうした特徴から、生活習慣病といった病気の予防につながる食品として注目されることもしばしばある。
鹿肉は、ヘモグロビンやミオグロビンといったヘム鉄を含むタンパク質を含有するため、ほかの畜肉と比較して肉の色が濃い赤となる。こうした赤色は血液を連想させてしまい消費者に敬遠されることもある。
また、世間では鹿肉は「硬く匂いがきつい」という評価が多いが、これは血抜きが悪いなど処理方法に問題があることが原因であり、実際は柔らかく匂いが穏やかという特性をもつ。
生食の場合はE型肝炎の感染源となることがあるため、加熱処理して食べることか必須である。

『鹿肉と栄養価』
「ヨーロッパ」
欧州などでは、鹿肉を始めとする狩猟野生動物の肉を高級レストランで特別に食べられる「ジビエ料理」「最上」の肉として扱われる。世界最大の鹿肉消費国はドイツで、年間消費量は4万~4万5000トンとなっており、輸入が半数近くを占める。
「日本」
日本では鹿肉の流通や消費はヨーロッパと比べて非常に少ない。日本の各地で、貴重なタンパク質、また薬肉として、鹿肉が食料とされてきた。北海道ではハンターによりエゾシカが捕獲され個人的に食肉として利用さされているに過ぎなかった。
しかし、1990年代後半から2000年代になって北海道て増えすぎたエゾシカによる問題が顕著になり、このエゾシカを資源として利用しようとする取り組みが活発化している。
エゾシカ肉は主にジンギスカンとして利用されることが多いが、淡泊でクセが少ないため様々な味付けで煮物・焼き肉などの料理に使える。
エゾシカ肉のカロリーは、牛肉、豚肉に比べて約三分の一、タンパク質はおよそ2倍。脂質は10分の1以下、鉄分は3倍と栄養面でも優れている。

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09/03 「治部煮」と「いちご煮」

2013年09月03日 | 鍋料理

【治部煮】
「治部煮」は、石川県金沢市の代表的な郷土料理。

『概要』
鴨肉(もしくは鶏肉)をそぎ切りにして小麦粉をまぶし、だし汁に醤油、砂糖、味醂、酒をあせたもので鴨肉、麩(金沢特産の「すだれ麩」)、シイタケ、青菜(せり等)を煮て出来る。肉にまぶした小麦粉が旨味を閉じ込めると同時に汁にとろみをつける。薬味はわさびを使う。
本来は小鳥を用いたとされ、その際は丸ごとすすり潰して挽肉状にし、これをつくねのように固めたものを煮立てたという。

『歴史』
本来の『じぶ』は「鴨肉を鍋に張った汁(醤油・たまり・酒などを混ぜる)を付けながら鍋肌で焼き、汁を張った椀に5切れほど盛ってワサビを添えて出す料理」で、鴨の鍋焼きのことだった。
これとは別に「ガン・鴨・白鳥などの肉をそぎ切りにし、麦の粉を付けて濃い醤油味の汁で煮、ワサビを添える」という「麦鳥」と呼ばれる料理があり、これが誤って「じゅぶ」と呼ばれたため、後者の方が「じぶ」とて伝わるようになった。

『じぶの名前の由来』
■豊臣秀吉の兵糧奉行だった岡部治部右衛門が朝鮮から持ち込んだことに因んで呼ばれた
■材料を「しぶしぶ」と煎りつけるようにして作ることから呼ばれた
■野生の鴨肉を使うことから、フランス料理のジビエから変化した
など諸説あるが本当の由来は定かでない。

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【いちご煮】
「いちご煮」は、三陸海岸周辺の伝統的な料理。2007年12月18日に農林水産省の主催で選定された農山村の郷土料理百選において、せんべい汁と供に青森県を代表する郷土料理として選出されている。

『概要』
ウニ(キタムラサキウニ・エゾバフンウニ等)とアワビ(ツブ貝等で代用されることもある)の吸い物である。赤みが強いウニの卵巣の塊が、野イチゴの果実のように見えることからこの名前が付いた。

『歴史』
その昔、八戸の浜の「鮫」や「種差」では、ウニやアワビは至る所にゴロゴロ転がっていて、それらは「ネコマタギ」的な海産物だった。それらの売り物にならない「クズ」で浜の人々が作って常食にしていた「潮汁」が「いちご煮」の原型と言われている。
その潮汁が洗練されて椀に盛られた風情が「朝もやに霞む野イチゴに似ている」と八戸の粋人が称したことから「いちご煮」と呼ばれることになった。

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09/02 「いとこ煮」と「がめ煮」

2013年09月02日 | 鍋料理

【いとこ煮】
「いとこ煮」は、小豆・カボチャ・ゴボウ・芋・大根・豆腐どを煮えにくいものから順に入れ、味噌か醤油で味付けした料理。北陸地方のものと、山口県萩市周辺に伝わるものが知られている。

『語原・由来』
「いとこ煮」は、堅い物から順に煮ていく料理で「追い追い煮る」の意味から「追い追い」と「甥々」と掛けた洒落で、「いとこ煮」と呼ばれるようになったというのが定説である。
その他、「甥々」の補足的な語原説で「銘々に煮る」の意味で、「姪々」とも掛けられているといった説や、いとこ煮は様々な野菜が煮られ、種類が異なる野菜は野菜であることから、近親関係のいとこに見立てたとする説がある。
「従弟似」という言葉を元に、「甥々」や「近親関係」などの意味が加わり、「いとこ煮」になったとする説もあるが、突如「従弟似」という言葉が出るのは不自然なので、影響を受けたとしても、意味が先にあって生まれた呼称と考えるべきである。

『北陸のいとこ煮』
根菜類(ダイコン・ニンジン・サトイモ・ゴボウ)とコンニャク・油揚げなどを煮たものに、あらかじめ下茹でした小豆を加えて、味噌や醤油などで味付けしたもので、暖かいものを食する。
浄土真宗の開祖で北陸に縁のある親鸞の命日である11月27日の前7日間に報恩講が営まれるが、その際の料理として必ず饗される、精進料理のひとつ。

『萩のいとこ煮』
萩のいとこ煮は北陸のいとこ煮とかなり趣が異なる料理で、少量の醤油を加えた昆布の出汁で小豆の形を崩さないように甘く煮たものに、かまぼこ・白玉団子・シイタケなどを加えたもの。煮上がったものを冷まして食する。
主に冠婚葬祭の際の料理として饗される。一見「カボチャやシイタケが入ったぜんざい」のような感じであるが、甘味は少なく、デザートではなく、あくまでも会席料理の一品である。

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【がめ煮】
「がめ煮」は、九州北部地方の代表的な郷土料理。炒り鶏とも言われる。

『概要』
博多の方言「がめくり込む」(寄せ集めるの意味)の名前が由来と言われる。
文禄の役の時に、朝鮮に出兵した兵士が当時「どぶがめ」と呼ばれていたスッポンとあり合わせの材料を煮込んで食べたのが始まりと言われている。亀(スッポン)煮から「がめ煮」と名付けられたと言われている。
現在ではスッポンではなく鶏肉を使うのが普通である。正月料理や祝いの席での料理として作られるほど地元では欠かせない味となっており、水炊きともに農山漁村の郷土料理百選に福岡県の郷土料理として選ばれている。

『作り方』
最初に具材を全て炒める。他府県の煮物との一番の違いはこの「最初に炒める」工程にあると言われる。
だし汁・シイタケの戻し汁・酒・醤油・味醂・砂糖を混ぜて鍋で煮立てさせたところに、鶏肉を一口大に切ったものを入れて一煮立ちさせる。その後、サトイモ・干しシイタケを戻したもの・コンニャク・ゴボウ・レンコン・ニンジン・筍を一口大に切り、そけらが柔らかくなるまで煮込んで出来上がり。

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09/01 「つみれ」と「つくね」

2013年09月01日 | 食・レシピ

【つみれ】
「つみれ」とは、魚肉や畜肉等で作った種に鶏卵や澱粉などのつなぎを加えた練り物を、手で一口大にちきり取り、煮立っただし汁の中で加熱した団子状の食品。おでんや鍋料理の具や、つみれ汁などによく用いられる。

『概要』
主として魚のすり身を中心に作られているが、鶏肉や他の獣肉を用いたものもある。
元々は事前に成形せずに「手で摘んで湯に入れる」ことから「つみいれ」「つみれ」と呼んでいた。スプーンなどで摘み取って、湯にくぐらせて加熱したものも「つみれ」である。
「つみれ」と言われる調理はイワシ、アジなどの魚肉を用いる事が多く、そのため魚介類を原料にしたものを広く「つみれ」、鶏肉や他の獣肉を用いたものを「つくね」と称すると誤認されるようになった。
現在使用されている魚は地域によって異なり、関東のイワシ・アジ、九州・日本海沿いのトビウオなど赤身の場合も、北海道のスケソウダラ、関西のエソなど白身の場合もあるが、使う魚によって仕上がりの見た目が異なる。
材料には、臭み消しに味噌や生姜を加えたり、好みで刻み野菜や刻みきのこ、場合にによっては食感を変えるためにすり身でない魚介類の刻んだ大きめの身を加えることもある。

『海外のつみれ』
日本国外では、中国の中華料理では「魚丸」(ユーワン)といい、特に潮州料理、福州料理などにおいて、麺料理の具、スープの具、鍋料理の具としてよく使用されている。福州には魚のすり身で肉団子を包んだものもあり、台湾の淡水鎮などにも伝えられている。
香港には「ユーダン」と称する「つみれ」があり、唐辛子やカレー味の汁で煮て串刺しにしたものは放課後の学生のおやつとしても食べれている。東南アジア諸国にも各種の「つみれ」がある。

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【つくね】
「つくね」とは、畜肉や鳥肉などのすり身につなぎを加えて、練り合わせて団子状や棒状に成形した食品。

『概要』
細かくすり潰したり叩いた肉に、鶏卵や山芋やパン粉などつなぎと生姜や塩や醤油などの調味料を加え、団子状や棒状に成形する。
細かく刻んだネギや大葉などの野菜類や鶏軟骨を加えることもある。
「つくね」とは、種を手や器具できちんと団子状に成形したものの総称であり、「つくね=肉類」というのは厳密には誤りである。同様に「つみれ=魚類」というのも誤りである。「つみれ」と「つくね」を合わせて「丸」(がん)と総称すこともある。
調理方法としては、鍋物で煮る、焼き物で焼き鳥、焼きつくね、揚げるつくねがある。

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