この所、フォークソングを好んで聴く機会が多くなりました。
先日購入したCDアルバム「心に響くフォーク」を恒例のバスタイムでのBGMとして聴いてます。
〖ディスク1〗
02:花はどこへ行った
05:遠い世界に
08:明日なき世界
09:フランシーヌの場合
11:死んだ男の残したものは
12:さとうきび畑
13:戦争を知らない子供たち
18:もずが枯れ木で
19:教訓Ⅰ
〖ディスク2〗
02:We Shall Over Come
05:愛する人に歌わせないで
08:坊や大きくならないで
これらの曲は、反戦歌。
私たちの時代は、学生運動が盛んで大学の講義が中止になったり、ロックダウンのため卒業式が中止になったりと…。
団塊の世代(私は、ちょっと後)の方々は、今のこのコロナ戦争の時をどう考えていらっしゃるのでしょうか?
かく言う私はと言えば、怒りを心の中に閉じ込めてテレビを相手に毎日喧嘩しています。
残念ながら、?運動をするエネルギーはもうありません。
ただ、秋に行われるであろう選挙で怒りを示したいと強く思う今日この頃です。
昨夜(6/25)、ドイツの方々との合同講座「歌う会」がありました。
ドイツの方々が日本語で歌う4曲の中の「てるてる坊主」に合わせて、てるてる坊主を作ってみました。
歌詞にあるように、晴れてくれたんで鈴をつけました。
ドイツの方々にとっては、日本語の発音は易しいらしく皆さんとってもお上手でした。
私たちの歌った歌「Alle meine Entchen」クリック(日本では、こぎつねコンコン)。
これについては、発音がしっかりできていると、お褒めの言葉をいただきました。
やった~
いつも通りの和気藹々とした楽しいひと時でした。
ところで、講義後半に日本で開催されるオリンピックについて質問してみました。
残念ながら、ドイツではほとんど話題になっていないとか。(もう開催までひと月を切っているのに)
誰のための何のためのオリンピック
東京では、感染者がどんどん増えている状況です。
関係者の方々は、必死になって準備を進めているのでしょうが…。
外から見ている私たち?私?にとっては、何かよそ事のような…。気持ちが段々失せて白けてきています。
何と言っても日本にとっての一大事。
こんなことで良いの私
久しぶりにおはぎを作りました。
美味しゅうございました。(自画自賛)
ぼたもちとおはぎは、それぞれ作る季節に違いがあり、その季節の花の名前に由来しています。
ぼたもちは江戸時代に春のお彼岸に食べられていたもの。
砂糖は貴重だったため、あんこは塩味で作られていましたが、江戸時代中期になると砂糖の入ったあんこが広まっていきました。
一説には小豆を牡丹の花に見立てたことから、「ぼたんもち」と呼ばれていたのが「ぼたもち」に変わったとも言われています。
一方のおはぎは、秋のお彼岸に食べられていました。
秋の七草のひとつである萩の花と小豆の形状が似ているため、「おはぎもち」と呼ばれていたのが「おはぎ」に変わったとされています。
さらに、夏や冬に作る場合には別名があります。
夏の別名は「夜船(よふね)」です。
おはぎを作るときには臼でつくことはせず、米を潰して作られるため、餅をつく時のようなペッタンペッタンといった音が出ません。
近隣の住人でもおはぎを“ついた”のがいつか分からないことから、夜は暗くて船がいつ“着いた”か分からない「夜船」になぞらえて呼ばれるようになりました。
また、冬は「北窓」とも呼ばれ、北にある窓からは“月”が見えないことによります。搗(つ)くことをしないことから、転じて“月知らず”となったわけです。
今では季節の区別なく呼ばれることが多いおはぎやぼたもちですが、春夏秋冬で「ぼたもち」、「夜船」、「おはぎ」、「北窓」と分けて呼ぶこともできるのです。
(インターネット調べ)
今度のドイツの方々との歌う会(6/27開催)。
課題曲は、「あめふりくまのこ」(クリック)
「てるてるぼうず」(クリック)
「かたつむり」(クリック)
「シャボン玉」(クリック)の4曲とか。
歌詞を調べましたら、「てるてるぼうず」と「シャボン玉」は、なぜか恐ろしくもの悲しい内容が…。
「あめふりくまのこ」 鶴見正夫作詞・湯山昭作曲
昭和年にNHKテレビの「うたのえほん」にて、6月の歌として発表されました。
作詞家である鶴見氏は、お子さんが雨の中庭先で水の流れをじっと見ている所を2階の窓から眺めていて、この歌詞が出来たそうです。
「てるてるぼうず」 浅原鏡村作詞・中山晋平作曲
毎日のように雨が続き大変困っていた時に、あるお坊さんがその町にやってきました。
その方は、お経を唱えると必ず翌日は晴になるという有名なお坊さんでした。
殿様は、そのお坊さんの噂を聞きつけ、城に呼び、雨をやませるように言いました。
お坊さんは、殿様の前でお経を唱え、「明日は必ずや晴になるでしょう」と断言したそうです。
しかし、翌日も雨は降り続きました。
怒った殿様は、嘘をついたことを罰してそのお坊さんの首を斬ってしまいました。
お坊さんの斬られた首を、戒めのために白い布に包んで軒下にぶら下げたら、翌日には雨が止み、驚くほどの晴天になったということです。
この話が伝えられ、白い布に頭になるものを入れて軒下にぶら下げるようになったそうです。
まさかの生首だったとは…。
「かたつむり」 作詞作曲者不詳/文部省唱歌(一年)
──♫ でんでんむしむし、かたつむり
おまえのあたまはどこにある
つのだせ やりだせ あたまだせ ── ~童謡『かたつむり』~
だれもが聞いたことがある童謡の歌詞に出てくる、「でんでんむしむし~」というフレーズ。
その語呂のよさからなんとなくスルーしがちですが、「でんでん」とはいったいどんな意味なのでしょうか?
みなさんもご存じの通り、かたつむりの体をつつくなどの刺激を与えると頭を引っ込めてしまう生態があります。
昔からそのユニークな生態に興味をもったのが子どもたち。
刺激によってかたつむりが殻に閉じこもってしまった様子を見て、「早く頭を出してよ!」という意味を込めて、「出よ出よ」とかたつむりに話しかけたことから、「出よ出よ」➡「でんでん」に変化していったという一説もあります。
「つの」は他の多くの動物にもありますが、かたつむりに置き換えてみると「触覚」を指していることが想像できます。
ところが、かたつむりの場合、その「つの」が4本もあります。
大きく動く触覚2本の下に、小さい触覚が2本存在するのです。
これは、かたつむりは目が悪いといわれていることから、触覚の感覚を頼りにしていることが大きく関係しているといわれています。
では、「やり」はいったいどこを指すのでしょうか?
やりは頭の下にある器官「恋矢(れんし)」を指します。
この恋矢は、繁殖時に使われるものとされていますが、驚くことに繁殖が終わると捨てられてしまう器官なのだそう……。
こんなでんでんむしトリビアを知れば知るほど、ますます不思議な生き物に感じます。
「シャボン玉」 野口雨情作詞・中山晋平作曲
この歌ができた大正時代は、産まれてきた子供が三歳を迎えるのも大変な貧困時代。
医療も乏しく、流行病があればたくさんの子供が亡くなっていました。
この曲は、浮かばれない魂が成仏できるようにという気持ちを込めた歌だという説もあります。
「シャボン玉」を発表したのが、大日本仏教コドモ会が発行していた児童雑誌『金の塔』でした。
仏教の雑誌から出したのも意味がある、そう考えられているのだろうと思います。
産まれてすぐに亡くなってしまうような悪い風は吹かないでほしい。
子供達よ、大きく成長していっておくれ。
そんな願いが込められた歌なのでしょう。
(以上、全てインターネット調べ)
さあ!歌う会ではドイツの方々と一緒に歌うぞ~
「うたで楽楽ドイツ語講座」に参加して早1年。
日本で歌われている童謡にドイツから伝わって来た童謡(クリック)が数多くあるのにびっくり。
例えば、「こぎつね」「ぶんぶんぶん」「幼いハンス(ちょうちょの原曲)」「かえるの合唱」等。
それから、色々調べている中で、子どもたちが歌う歌には唱歌・童謡・童歌に分けられることも知りました。
「唱歌」=明治初期から終戦までに作られた学校教育用の歌。
「童謡」=大正期以降、子供のために作られた歌。
「童歌」=子供達自身が遊びや自然の中で作り出した歌。
「唱歌」は明治時代の初期から作られ、第二次世界大戦が終わる頃まで学校教育の一部として歌われていました。
例えば、有名な「蛍の光」の曲は元はスコットランド民謡ですし、「むすんでひらいて」の元歌である「見わたせば」のメロディーは、哲学者ルソーの作曲だと言われています。
他には、「仰げば尊し」なども元はアメリカの曲だと言われています。
次に、時代は重なってはいますが、「唱歌」よりも後に出てきたのが「童謡」です。
「童謡」は、大正期以降に子供のために作られ始め、今もなお歌われ続けているものがあります。
この『赤い鳥』の創刊以後に作られた子どものための歌であると言えます。
それ以後に作られた代表的な作詞家だと、北原白秋や野口雨情、西条八十など。
作曲家だと山田耕筰・中山晋平などが挙げられます。
特に北原白秋、野口雨情、西条八十の3人は「童謡三大詩人」とも呼ばれるようになりました。
『この道』『シャボン玉』『肩たたき』が彼らの作品です。
そして、最後の「童歌」(わらべうた)ですが、これは子供自身が作詞、作曲した歌です。
したがって、発祥した年代や作詞者、作曲者などは不明のものが多いです。
日本最古のわらべうたが万葉集に残されているため、少なくとも奈良時代頃には存在していたと言われています。
(インターネット調べ)
さて、6/27(日)はドイツの方々と合同の歌う会があります。
人数も増え、相変わらず和気藹々とした雰囲気での講座。
とっても楽しみなひとときです。
先日来、自宅待機の流れから青春時代に良く聴いた曲をYouTube等で聴いています。
サイモンとガーファンクルから始まり、フォークソング、そしてグループサウンズ。
その中で、アメリカのフォークソンググループのブラザーズフォーが好きで、彼らの歌の歌詞で英語を勉強したものです。
ブラザーズフォー(1960年): 「グリーンフィールズ」(クリック)
「Green Fields」
Once there were green fields kissed by the sun
Once there were valleys where rivers used to run
Once there were blue skies with white clouds high above
Once they were part of an everlasting love
We were the lovers who strolled through green fields
Green fields are gone now, parched by the sun
Gone from the valleys where rivers used to run
Gone with the cold wind that swept into my heart
Gone with the lovers who let their dreams depart
Where are the green fields that we used to roam
I'll never know what made you run away
How can I keep searching when dark clouds hide the day
I only know there's nothing here for me
Nothing in this wide world, left for me to see
Still I'll keep on waiting until you return
I'll keep on waiting until the day you learn
You can't be happy while your heart's on the roam
You can't be happy until you bring it home
Home to the green fields and me once again
かつて、太陽に育まれた緑の草原があった
かつて、川の流れる渓谷があった
かつて、はるか頭上に白い雲が流れる青空があった
かつて、これらはすべて永遠の愛の一部だった
私たちは緑の草原を歩く恋人だった
緑の草原は太陽にやけて消えてしまった
川が流れるあの渓谷から去り
私の胸に吹きすさぶ冷たい風とともに去っていった
自分たちの夢をふたつに分けた恋人たちとともに去っていった
私たちが歩き回った緑の草原はどこへ行ったのか
私にはわからない なぜ君が去っていったのか
黒い雲におおわれて真っ暗になったとき
一体どうやって探せというのか?
今の私にわかっているのはただ ここには何もないということだけ
この広い世界に 見るものすら何も残っていない
それでも私は待ち続ける 君のわかってくれる日まで
心がさまよっているあいだは 君は幸せになれないし
心を連れて帰ってくるまで、君は幸せにはなれないよ
心が緑の草原へと私のもとへ 再び戻ってくるまで
ブラザーズフォー(1964年) 「七つの水仙」(クリック)
「Seven Daffodils(七つの水仙)」
Ⅰ may not have mansion Ⅰ haven't any land
Not even a paper dollar to crincle in my hand
But I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils
I do have a forture to buy you pretty things
But i can weave you moonbeams for neckless and rings
And I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you sevev daffodils
On seven golden daffodils aii shining in the sun
To light our way to evening when our day is done
And I will give music and a crust of bread
And a pillow of piny boughts to rest your head
A pillow of piny boughts to rest your head
僕には 豪邸も 土地もない
手の中で皺をなす 紙幣も1枚さえない
けれども 千もの丘に降りそそぐ朝を 君に見せてあげるよ
そしてくちづけを 七つの水仙の花をあげよう
僕には財産なんて何一つ無く 君に綺麗なものを買ってあげられない
けれど月の光を紡いで 指輪やネックレスにしてあげられる
千の丘の上の朝をあげよう
そしてキスと七つの水仙の花を
ああ 七つの黄水仙が太陽に輝いている
日が沈んで宵の道をなお照らしてくれようと……
音楽とひとかけのパンと香りのよい小枝で編んだ枕を上げよう
そこに君の頭を休めてほしいんだ
それぞれの歌は、私の青春時代とともにありました。
中学・高校・大学時代。
懐かしい
そして、「あの時君は若かった」(クリック) ザ・スパイダース(1968年)
6/15(火)に摂取したコロナワクチンによる副反応のために自宅待機をしている療養日2日目。
明日(6/18)は、通院・買い物等で活動再開。
家事が済んだ後、なぜか「サイモンとガーファンクル」(クリック) が無性に聴きたくなり、YouTubeで見つけ早速聴いてます。
学生時代に良く聴いていたものです。
特に好きなのは、この曲。
「Bridge Over Troubled Water 」
「明日に架ける橋」
When you're weary
Feeling small
When tears are in your eyes
I will dry them all
もし君が疲れ果てて
ちっぽけに感じたり
涙が溢れてくるときは
僕がそれを拭い去ってあげよう
I'm on your side
When times get rough
And friends just can't be found
Like a bridge over troubled water
I will lay me down
Like a bridge over troubled water
I will lay me down
僕は君の味方さ
つらい時が来て
友達がいなくなってしまった時も
困難の上に架かる橋のように
僕がこの身を捧げよう
困難の上に架かる橋のように
僕がこの身を捧げよう
When you're down and out
When you're on the street
When evening falls so hard
I will comfort you
君が落ち込んで
通りをさまよい
一日の終わりがつらく感じるなら
僕が慰めてあげよう
I'll take your part
When darkness comes
And pain is all around
Like a bridge over troubled water
I will lay me down
Like a bridge over troubled water
I will lay me down
僕が君の支えとなろう
闇がおとずれて
苦痛が取り囲んだとしても
困難の上に架かる橋のように
僕がこの身を捧げよう
困難の上に架かる橋のように
僕がこの身を捧げよう
Sail on Silver Girl,
Sail on by
Your time has come to shine
All your dreams are on their way
こぎ出すんだ 銀の少女よ
こぎ出すのさ
今こそ輝く時
君の夢は続く道の先に
See how they shine
If you need a friend
I'm sailing right behind
Like a bridge over troubled water
I will ease your mind
Like a bridge over troubled water
I will ease your mind
あの輝きを見るのさ
もしも友が必要なら
僕がすぐ横にいるから
困難の上に架かる橋のように
僕が安らぎを与えよう
困難の上に架かる橋のように
僕が安らぎを与えよう
(ものぐさブースカさんへ)
大学時代に、貴女の下宿で初めて「サイモンとガーファンクル」のレコードアルバムを見つけた日のことを鮮明に思い出します。
今でも、ありますか?
梅サワーとラッキョウ漬けを作りました。
材料の梅は、ご近所のJA(地元農産物販売所)で何と1kg¥100で買って来ました。
因みに、スーパーでは南高梅1kg¥980(税別)で売ってましたけど。
それから、ラッキョウは、わが農園産。
両方とも、見た目は今一つですが…。
味は、バッチリのはずです。
梅サワーは、約3週間後(6/11→7/2)に、ラッキョウ漬けは、約3か月後(6/13→9/13)ぐらいには出来上がる予定です。
楽しみで~す。
上手くできたら、お裾分けしますね。
但し、ラッキョウ漬けのみ。
梅サワーについては、お風呂上りに炭酸で割って飲むのが、私の唯一の楽しみですので、お裾分けできませ~ん。
悪しからず。
昨夜(6/11 20:00~)、仏教塾による「なぜ生きる ー蓮如上人と吉崎炎上ー」のオンライン上映会がありました。
(最後のクライマックス場面では、思わず涙が…。)
「歎異抄」「親鸞聖人」を学び始めた私としては、今回の映画によって、親鸞聖人の教えの一端を垣間見たような気がしました。
(あらすじ)
不遇な日々を送る了顕は生まれてくる子供に希望を抱いていたが、事故によって全てを失ってしまう。
自暴自棄になった了顕だったが、ある日、浄土真宗の僧・蓮如の法話を聞いて感動し、蓮如の弟子になる。
そんな中、参詣者が増加し続ける本願寺は他宗派から恨まれてしまい、蓮如や了顕らは京都から北陸の吉崎へ追われ……。
その中で、了顕が自分の命に代えて守った「教行信証」について調べてみました。
親鸞聖人の90年の教えは、すべて『教行信証』に書かれています。
親鸞聖人の主著ですから、浄土真宗の「根本聖典(こんぽんせいてん)」とか「御本典(ごほんでん)」といわれます。
教行信証は、教巻、行巻、信巻、証巻、真仏土巻、化身土巻の6巻で構成されています。
教行信証の草稿は親鸞聖人52歳ごろの成立といわれますが、その後も常に手元に置かれ、生涯をかけて加筆修正された畢生(ひっせい)の大著(たいちょ)です。
今日、親鸞聖人といえば『歎異抄(たんにしょう)』を思い浮かべる人が少なくありませんが、『歎異抄』は著者不明で、親鸞聖人がじかに書かれたものではありません。
ですから、親鸞聖人の教えを正確に知るには『教行信証』を物差しとしています。
『教行信証』を一読してだれもが驚くのは、その引用文の多さです。
『教行信証』の正式名称は『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』です。
最後に「文類(もんるい)」とありますが、「文類」とは経・論・釈の重要な文章を集めて整理したもののことです。
『教行信証』には「私釈(ししゃく)」といわれる親鸞聖人の作文は少なく、そのほとんどが経(きょう)、論(ろん)、釈(しゃく)からの引用です。
経(きょう)とは、お釈迦さまの説かれたお経。
論(ろん)とは、インドの仏教の先生が書かれたもの。
釈(しゃく)とは、中国、日本の高僧方の書物。
それらの仏教の書物から要の文を集めたもの(=文類)が『教行信証』ということですから、『教行信証』はたくさんの経、論、釈の中から親鸞聖人が大事な文章を選ばれて、集められたものです。
「親鸞さらに私(わたくし)なし」が親鸞聖人の常の仰せでした。
私見(自分の考え)を交えず、正確にお釈迦さまの真意を明らかにされました。
(インターネット調べ)
親鸞聖人の教えの書と言うよりは、哲学書のような…。
今まで、時々法事などで接することがあったり、仏像が好きで各地のお寺を拝観したことはありましたが、仏教についてはあまり知識がありませんでした。
これから、色々と勉強しがいがありそうです。
孫娘(大阪在住・小学6年生)が大好きだというアニメ「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」(第1話~第26話)をプライムビデオで見つけたので、早速視聴してみることにしました。
「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」
幸運な人だけがたどりつける、ふしぎな駄菓子屋「銭天堂」。
店主の紅子がすすめる駄菓子は、どれもその人の悩みにぴったりのもの。
でも、食べ方や使い方をまちがえると…。
幸運を呼ぶか、不幸をまねくかはその人次第!
ちょっと怖いですが…。
ついつい見入ってしまい、気がついたら第15話まで観てしまいました。
孫娘がはまるのも納得
Mちゃ~ん
早くコロナが収まって、久しぶりに会いたいで~す