わたしの心 

日々の出来事・感動などを日記にして公開したいと思います。
(管理人:Mrs.modest)

山村暮鳥の詩

2023年03月15日 | プチトラブル

昨日(3/14)開催のオンライン講座「音読・声の表現教室」に初めての参加。
紹介文「コロナ禍、あまり人と話さないことが良しとされるようになりました。その事で口角も下がり喉の機能も衰えてきた人たちが増えてきました。声を出すことは、美容にも健康にも効果があります。音読をすると脳トレにもなると言われ、更には誤嚥防止や自己肯定感アップと言った、良いことばかりが待っています」に魅かれ、申し込んでみました。

講師は、久林純子氏(フリーアナウンサー)
講座後半に山村暮鳥の詩風景「純銀のもざいく」(小学校の教科書に掲載されているとのこと)を参加者(9名)がそれぞれ読み合うのですが…。
同じ言葉が繰り返され、情景を浮かべながらの音読(朗読)。
久しぶりの朗読は、とても楽しかったあ~。
ただ残念なことに、この講座ではZOOMのビデオ画像(私の画面)が乱れてほとんどが映らないハプニングがあり、集中して受講することができませんでした。
講座後に改善方法を調べましたら、ZOOMを最新版にアップデートしていなかったためらしく…。
4月からまた講座が始まるとのこと。
改善されていたら、また挑戦しようと思います。

風景「純銀もざいく」 山村暮鳥

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな

この詩は、全部ひらがなで書かれた三連の詩である。
どの連も「9音・9行」からなっており、言葉のリズム、響きを視覚に転化させている。
どの連も「いちめんのなのはな」を8回くり返すことによって、見渡す限り広々と、一面に菜の花が咲き、黄色い菜の花が大地を埋めつくしている風景が、強烈にイメージされる。
各連の8行目には「かすかなるむぎぶえ」「ひばりのおしゃべり」「やめるはひるのつき」と「いちめんのなのはな」とは違う言葉が述べられている。
きちんとしたひらがな文字の並びの中に「麦笛」「ひばり」「昼の月」がはめこまれていて視覚的にモザイクのようである。
一連の「かすかなるむぎぶえ」は、菜の花畑の真ん中で耳を澄ますと、人影は見えないが、だれが吹いているのかかすかに麦笛が聞こえてくる様子が表現されている。
菜の花畑に静けさが広がっている。
「いちめんのなのはな」のくり返しによる視覚的世界の中に聴覚が加わり、視点が移動している。
そして、再び9行目が「いちめんのなのはな」となり、視点が菜の花畑にもどっている。
二連の「ひばりのおしゃべり」は一連の「かすかなるむぎぶえ」と同様に視点が聴覚に移動している。
しかし、音を発する位置が同じではない。
「ひばりのおしゃべり」は地上からではなく、空中から響かせているものである。
「おしゃべり」からは、にぎやかで心地のよい明るさ、無邪気さがただよってくる。
一連と同様に、9行目が「いちめんのなのはな」となり、視点が再び菜の花畑にもどっている。
三連の「やめるはひるのつき」は、視覚的表現であるが、一面の菜の花の鮮やかな風景とは対照的なイメージである。
「やめる」は欠陥があるという意味であり、満月と比べてうっすらと白く輝いている月、半月(上弦の月)を表している。
白っぽくかすんだ昼の月は、菜の花畑を際立たせ、強く印象づけている。
昼の月は、ひばりよりももっと上空にあり、視覚の範囲が広がっている。
そして、9行目は「いちめんのなのはな」となり、視点が再び菜の花畑にもどっている。
詩の最後には句点が入っていて、広々と広がる菜の花畑に「麦笛」「ひばり」「昼の月」がはめこまれて、風景画のモザイクが完成したことを表している。
最後は、題名をなぜ「純銀もざいく」としたのだろうか。
広々とした菜の花畑に春の明るい太陽が当たってきらきら輝き、銀色に見える。
そればかりではなく、「ひばり」「昼の月」も銀色に輝き、まじりけのない銀一色のモザイク画のような風景である。
    (以上、「読み研」より)


この他の山村暮鳥の詩。
因みに、2019年に放映された映画「わたしは光をにぎっている」は、山村暮鳥(ぼちょう)の詩「自分は光をにぎっている」からとられています。

『自分は光をにぎっている』/山村暮鳥

自分は光をにぎっている
いまもいまとてにぎっている
しかもおりおりは考える
この掌をあけてみたら
からっぽではあるまいか
からっぽであったらどうしよう
けれど自分はにぎっている
いよいよしっかり握るのだ
あんな烈しい暴風の中で
掴んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあっても
おゝ石になれ、拳
この生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎっている

(この詩は大正10年に刊行された山村暮鳥の詩集「梢の巣にて」に収録されたものです。)


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