堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

神田古本まつり

2010-11-17 09:33:38 | 日記・エッセイ・コラム

少し前のことになりますが、はじめて「神田古本まつり」に行って来ました。

いつか行きたいとおもっていました。


Img_0284 神田古本まつり



期間中雨の日が多かったのですが、晴れた日をねらって、今日だ、という感じで出かけました。

駿河台から神保町にかけては、学生時代から社会人になっても、

ずっとこのあたりに通っていたので、懐かしくもあります。

でもこの街はあんまり好きでない。どうしてだろう。



JR御茶ノ水駅で降りて歩いていったのですが、駅で偶然姉に会ってびっくり!

しかも、ちょうど姉のことを考えていたので、目の前に本人がいたのには、

何か信じられない気持ちでした。



そうして駿河台下までいって神保町の交差点に向かって歩いていき、

歩道に並んだお店の本を次から次に見ていきました。


Img_0281 歩道の露店の様子


自分の興味にあいそうな本を扱っている書店のものは特にしっかり見ていきました。

錦絵を扱っているいくつかの書店にも入りました。

去年の七夕古書展で入札しなかった第一回内国勧業博覧会の錦絵が忘れられなくて、

やっぱり買っておけばよかったと悔やんでいます。

それと同じか、似たものでも、とおもい、掘り出し物を探しています。



そうして結局数点古書を買い、中でも思い切って買ったのが、これ。


Img_0353 『東京案内』


明治40年発行の東京市役所編纂『東京案内』上下巻、付録東京市全図

の復刻版(昭和49年)です。

復刻当時の定価が19500円。

それが5000円でした。

箱はボロボロですが、本は傷んでいません。


この本は全く知らなかったのですが、気になって手にとり中を見ると

たいへんに詳しく明治40年頃の東京のデータが書かれています。

市町村の沿革や神社仏閣はもとより、東京にある会社のデータ、交通機関の詳細、人口まで載っているのです。

ちょうど堅曹さんが東京に住んでいた時期であり、

細かい事をしらべるのに、手元にあれば便利だろうとおもった。


重くて持って帰るの、ちょっとたいへんだな、とおもっていたら、

なんと「古本市で5000円以上お買い上げの方には無料で宅配便が利用できます」

という張り紙が目に飛び込んできた。

それじゃあ、それで送ろうと、とっても得した気持ちで頼みました。



翌日届いた本を詳しくみていると、

地図の中に朝倉治彦著「『東京案内』解説」が入っており、それによれば


   『東京案内』上下二冊は、明治四〇年に、東京市が編集刊行したる地誌であるが、

   明治末の東京を知るには、この右に出るものはないとされている著名なる出版物である。

と書かれていて、いい買い物をしたんだと、うれしくなってしまいました。


内海孝先生「横浜文化賞」受賞祝賀会

2010-11-15 11:27:03 | 原三溪市民研究会

13日(土)に原三溪市民研究会の設立者で顧問をしてくださっている

内海孝先生の「横浜文化賞」受賞祝賀会を行いました。

    横浜文化賞とはこちら



当日は午後2時からいつもの横浜美術館で内海先生の講演も行われました。

 演題は「原合名会社ニューヨーク支店 ―その全体像と歴史的意味―


『原三溪翁伝』の解題でもとりあげたテーマに、

昨年9月から半年間ニューヨークに行かれて調査研究した成果を入れた内容です。

新しく発見された多くの事柄を軸にして鋭く解明してくださいました。

ときにはニューヨークでの生活ぶりなども盛り込まれて、アッという間の2時間でした。



さて、次は桜木町駅近くのホテルに場所をかえて、祝賀会をおこないました。

あたかも横浜はAPECの厳戒体制のさなかでした。


とくに「みなとみらい」にある横浜美術館のまわりには、

日本中からやってきた警察官が数え切れないほど配備されたものものしさ。

周囲の道路はすべて通行止めになっていて、美術館からホテルに行くのに、

私たちは赤信号でも車が一台もいないので、大手を振って渡らせてもらい、

戒厳令でもでたかのような街の様子に、ちょっと興奮しながら歩いていきました。




Img_0347 会場のホテル


Img_0316


会場は3つのテーブルに着席で、和食の大皿料理に飲み放題。

総勢30人がそろい、午後5時から始まりました。


まずF副会長が挨拶されました。

内海先生の業績を先生の研究著作の一覧表を作って(素晴らしい!)紹介してくださいました。


Img_0318 最初の挨拶 一覧表を見る



次に一緒に会を設立した(公の)パートナーS顧問が乾杯をして、会食がはじまりました。

会員と本当の関係者だけの集まりにしたので、とてもアットホームで和やかな雰囲気。

富山から駆けつけてくれたN先生から内海先生と机を並べていた頃の渋い話なども披露されました。


そして宴たけなわで、司会絶好調のH会長による、「先生に質問コーナー」となりました。

まず、どこでこの受賞の一報を聞かれたのか?

受賞式の様子は? 

緊張されましたか?

その他プライベートなことなども、突っ込みを入れながら誘導尋問。

シャイな先生がついつい好きな高校野球の熱弁をふるったりして、作戦成功!でした。


こんな楽しい時間をすごしながら、最後は若手会員代表でKさんが花束贈呈。


Dscf2824 花束を受け取られた内海先生


そして私がお開きの挨拶と、皆で寄せ書きをした「色紙」を先生にお渡ししました。

挨拶など慣れないものだから前日から下書きをして考えていたのだけれど、なんだか作りこんだみたいで、

こういう場では雰囲気にあわせて、機転を利かせた挨拶のほうがいいんだな、と反省。

先生が私との出会いや、速水堅曹のことを話されたので、恐縮しました。


そうして最後は相棒Tさんお得意の3本締め。


Img_0344 よ~、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱんぱ


全員が笑顔の集合写真をとって解散となりました。



おもえば、ちょうど一年前の11月13日は

ホテルニューグランドで「『原三溪翁伝』出版感謝の集い」が行われたのでした。

あの時は内海先生はニューヨークからお祝いのメールを送ってくださいました。

一年後にこの『原三溪翁伝』出版も含めた長年の横浜に関する業績が認められて

このような賞が先生に授与されたことは、

本当に研究会のメンバー全員が喜びに包まれる出来事でした。


内海先生、「横浜文化賞」受賞おめでとうございました。


宇都宮三郎の顕彰会「秋水会」

2010-11-08 03:05:36 | 旅行記

さて、10月24日(日)は名古屋から豊田市にむかいます。

明治時代の顕官宇都宮三郎の顕彰会「秋水会」に出席するためです。


しかし、それは昼からの予定なので、午前中時間があるといえばある。

ガイドブックをみていたら、名古屋市内でも空襲に遭わずに近代の建物がのこっている場所がある、と書いてあり

ちょっと行ってみようかとおもました。

徳川とか白壁とかいう地域だと書いてある。



タクシーでそのあたりまで行き、歩き回ってみました。

まずは豊田佐助邸を目指します。

佐助は発明王の佐吉の弟になります。兄の佐吉を支えた実業家です。

住宅街の中の道をいきますが、これが風情のある通りです。

武家屋敷を思わせる門と塀があります。

素晴らしい料亭もあります。


Img_0188 旧豊田家門・塀


日曜日の朝、小さなトランクをガラガラ引き、キョロキョロ建物や塀を見回しながら歩いている旅行者など

私くらいなものでした。


目的の豊田佐助邸に着き、中に入ってみました。


Img_0201 豊田佐助邸


大正時代の実業家の建物ということで、当時の住宅によくある洋館と日本家屋がつながった建物でした。

洋館には漆喰の高い天井にシャンデリアの応接間、廊下のガス灯、

地味だがよく見るとそこかしこに凝った意匠が施されている和室等があり、なかなかよかったです。



Img_0215 和室



佐助邸をあとにして、もう豊田市へむかわなくてはいけない時間になりました。

また、ここには今度ゆっくりきて、とおもい名古屋駅へむかい、豊田市へ。




午後1時に主催者のMOJOさんと豊田市駅近くの「豊田市近代の産業とくらし発見館」で待ち合わせ。

何度も訪れている小さな素敵な博物館で、ここは開館5周年ということで、

蚕をそだてるために育てた桑の葉で手作りしたお茶を記念品でいただきました。

あと、来年のカレンダーも。(うれしい!)


Img_0295 桑茶とカレンダー




さて会場となる豊田市畝部西町にある幸福寺に着きました。


Img_0271 幸福寺境内


ここははじめて訪れてから3年がたちます。

そのときは堅曹さんの友人である宇都宮三郎のことを調べていて、

このお寺にお墓があり、遺品も保存されているとお聞きして、

MOJOさんに連れてきていただきました。


顕彰会はまだ木の香りがする改装なった庫裏でおこなわれました。

最初にMOJOさんから「秋水会」とは宇都宮三郎の雅号であり、

戒名にも使われている「秋水」からとったという説明があり、今回が記念すべき第一回目。

とにかく気楽な会で、資料を見ながら宇都宮三郎のことを偲んで話しができればいいとあいさつされました。


まずは、お墓参りから。

このお墓の事をおもうと本当に偉い方だと私はおもいます。

生前自分の先祖のお墓をすべて整備して、立派な墓地をつくり、

その一段下がったところに自分たち夫婦の墓を建てる。

なかなか出来る事ではありません。


Img_0256 宇都宮三郎夫婦の墓



庫裏にもどり、たくさん並べられた遺品や資料を前にMOJOさんが説明をしてくれます。


Img_0263 遺品や資料


遺品の刀があります。

ちゃんと研いであり、毎年MOJOさんが宇都宮三郎の命日に手入れをしていますので、

ほんとうに、ギラリ、という感じです。


大礼服と帽子、サーベルもあります。

服の大きさで体格がわかります。かなり細身です。

生地や裏地も装飾の金モールも、間近で見ました。ちょっと触りました。

フランス製だというので、その金モールはきっとフランスのリヨンでつくられたのだとおもいました。


そして国からの辞令書は本当にきれいで、しみひとつない状態です。

こんなに間近に近代の資料を見たり触ったりする機会はめったにありません。

そういう時は本当に我をわすれて興奮している自分がいます。

いつまで見ててもあきません。


そう宇都宮三郎がお墓を建てた頃のお寺の絵図もでてきて、

今とくらべて、ご住職が子供のころの様子などをはなしてくださったのもとてもよかったです。

集まった方たちと、それらの資料を前にいろいろ四方山話をして、

本当に楽しく、あっという間に時間がたってしまいました。


ご住職とご家族が宇都宮三郎のことを心から敬愛していらっしゃることがすばらしい。

MOJOさんが宇都宮の個性に惹かれて一生懸命おやりになっている熱い思いも素敵です。

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帰りにMOJOさんに、これから回を重ねて将来大人数になったとき、

1回目はこんなだったね、と話したりできるようになるといいですね、と言いました。


なんだか心がホッコリと暖かくなった顕彰会でした。


日吉神社と善学院

2010-11-02 02:54:12 | 旅行記

さて、岐阜の大垣の北に安八郡神戸(ごうど)という町があります。

歴史のある古い町で、建立から1200年ほど経つ日吉神社があります。

ここに国の重要文化財にも指定されている三重塔があり、これを見にいきました。


なぜかというと、原三溪の母の実家がここにあり、

幼少のころ三溪はよくこの三重塔をみていたとおもわれるからです。

幼少の記憶というか、彼の原風景がこの塔であるので、

今の横浜の三溪園の三重塔がシンボルのように建てられたのではないか、といわれています。

外祖父である南画家の高橋杏村の遺伝子と、この地でその長男から習った絵画の素養が

彼の審美眼となり、数寄者としての面を育てたとも考えられます。


このような話しをよく原三溪市民研究会でしていて、一度近くまで行ったら寄ってみたいとおもっていました。

実はこの三重塔は今年の8月に落雷で火災が起き、上部のほうが焼けたと新聞で報道されていました。

見に行こう、行こう、と思いながら果たせないうちの出来事に、しまった!とおもいました。

ですので今回はその被害がどの程度のものなのか、

もしかしたら修理が行われていて、見ることはできないかもしれない、と

不安をもってでかけました。



名古屋市内から車で1時間弱くらいで着きます。

養老線の「広神戸」という駅のあたりから旧家が目に付くようになり、旧道に大きな石の鳥居があります。

そのまままっすぐに行くと日吉神社の入り口となり、灯籠の並んだ参道が続きます。 


Img_0137 日吉神社入り口

  


突き当りに拝殿があり、その先が社殿となります。


Img_0119 社殿


三重塔はどこにあるのだろう、ともおって拝殿のところまでいくと右側にスクッと建つ塔がありました。

ああ、これが三重塔だ!


Img_0125 三重塔


Img_0096 三重塔


写真では見ていたけれど、実物は思い描いていたものと全く違っていました。

火災の被害もたいしたことはなく、

一番上の屋根の一部にバンドエイドをペタンと貼ったような補修が行われていました。

よかった・・・。


Img_0103 火災の補修


その苔むした桧皮葺(ひわだぶき)の屋根や、細部までしっかり組み込まれた木材の古色は

建立から500年以上という年月をしっかりと感じさせてくれ、素晴らしい!の一言です。


Img_0114 屋根


Img_0094_3  三重塔



そしてなんともいいいようのない、畏敬を感じさせる佇まい。

語彙が少なくてうまく言い表す事ができないが、その存在感は実物を目の前にした者にしか

感じることができないであろう、とおもえた。

来てよかった。

本当にいいものをみせてもらった。



さて、次は同じ町内にある「神護寺善学院」にいきました。


Img_0149 神護寺善学院


ここは天台宗の古刹で歴史は古く、寺の名が表しているように、日吉神社を守るためにたてられたお寺です。

この地はまさに神仏習合の時代そのままの神社と寺が一体となって残っています。


ここに原三溪が外祖父の高橋杏村を顕彰する碑を建てています。

一昨年、三溪研究会で岐阜を訪れた時はここに寄っていますが、

そのときは、碑文の文字を確認することに追われ、しっかりお寺やまわりの景色をみていなかったのです。

それで、再度訪ねてみました。


Img_0143 高橋景羽墓表


杏村を称える「高橋景羽墓表」は森林太郎(鴎外)撰文、宮島大八揮毫の立派な石碑ですが、

それの建つ場所はまわりに池がつくられ、瀟洒な庭の風情が整えられていました。


Img_0141


お恥ずかしい話しが、こんなだったっけ?とおもいました。

池があったことさえ記憶にありません。


『原三溪翁伝』には 

   「大正八年神戸町有志と謀つて三溪翁は善学院境内の兆域を修治し園林の趣を作り

    一大碑を建立した。」    

   「庭内に小公園の面影ある一隅に丈余の高さに聳ゆる記念碑がそれである」

という記述があります。


一昨年のときもこの部分は読んでいて、園林の面影を探すつもりだったのですが、

大勢で押しかけていって、たった10分の見学では、全くわからなかったというのが本当のところです。


Img_0146


よく見ると、すこし荒れてはいるが三溪園に通じる庭の面影があるようにおもいました。

門の中にはいると、やはり古い本堂があり、特に鐘楼はとても趣のあるものでした。


Img_0153_2 鐘楼


ゆっくりと散策をして名古屋にもどりました。


翌日は宇都宮三郎の顕彰会に豊田市まで行きます。