暑~い、暑~い。
なんでしょう、この暑さ。
暑いのが苦手な私は、なんだか気分まで憂鬱になります。
地球のこと考えて、あんまりクーラーもつけたくないんだけど、バンバンつけてしまってます。
さて、すこし前になりますが今月の12日におこなわれた「原三溪市民研究会」で、とてもいい講義を聞いたので書いておきます。
富山大学の根岸秀行教授の講演です。
タイトルは 「日本生糸と売込商―富太郎と三溪」
レジュメは
1.近代日本の高成長
2.成長を支える条件
3.「生糸」の「存在」という「幸運」!?
4.生糸輸出と市場(明治前期)
5.ビギナーズ・ラックの終り
6.日本生糸のライバル:19c末
7.世界市場の転換=原料生糸の転換
8.生糸の「良し」・「悪し」?
9.日本生糸の販路確保1870s-1920s
10.日本生糸が、世界市場で買われ続けた理由?
11.横浜売込商の役割
12.富太郎と三溪
13.藤本實也稿『原三溪翁伝』
となっています。
近代日本の成長を大きく担った「生糸」について、その存在が世界にとってどういうものであったか、そして開国してからその市場へどのように参入していったのか。
グラフになっているデータを基に、ヨーロッパとアメリカの世界2大市場の違いを示しながら、話されました。
私の勉強不足でいままで知らなかったこと。
横浜開港後、幸運にもヨーロッパでの微粒子病の蔓延により、日本の生糸はあっさりと世界市場へ参入できた。(ここはよく知っていた)
しかし、その頃から生糸の市場は低迷するフランス市場からアメリカ市場へと転換していく時期でもあった。
19世紀後半は手織りのヨーロッパ絹織業では座繰り糸で充分要求を満たすことができた。
しかし20世紀に入るとアメリカでの機械織機をつかう絹織業がマーケットを席巻しはじめ、その機械にみあう均一な器械糸が求められるようになった。
この世界の中心的なマーケットからの要求される品質の違いが、座繰り糸と器械糸である。
こういった情報をいちはやくキャッチして、生産者に知らせ、対応していくことが世界市場で生き残っていく術である。
その情報を伝達するのが、売込商であり、貿易商である。
この話を聞いてはじめて、座繰り糸と器械糸がそれぞれに変遷をして発達したり、衰退したりした直接的な理由がわかった気がしました。
その地域ごとの細かい事情で座繰り糸の会社が伸びたり、器械製糸場が増えたり、ばかりではない、もっと大きく世界の需要に見合ったものができるかどうかで、変わっていったんだということ。
明治10年代から30年代にかけて世界の市場からもとめられる糸の品質がかわっていったことに大きく連動している。
堅曹さんのした仕事をみると、彼は器械製糸のエキスパートではあったけれど、それと平行して座繰り糸の改良にも力をいれていたし、群馬県内の座繰りの結社にも力を貸している。
しかし、将来的には絶対器械製糸が必要だと力説をして、国内の器械製糸場をくまなく指導している。
政府には何度も殖産興業として日本全体の器械製糸場の発展をうながすビジョンを示している。
明治9年にアメリカに行って、これからの世界市場の変化を見通すことが出来ていたことと、だからこそ、ヨーロッパの市場の情報も仕入れたいと、明治13年には生糸直輸出の会社をつくり、フランスのりヨンに支店をつくった。
速水堅曹は常に世界の市場をみつめ、変化を読みとり、それに対応できる日本の製糸のあり方を提案しつづけていたのだと確信できました。
わたしにとってはすごい発見ができた講義でした。