堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

富岡製糸場 ①

2007-11-15 09:11:33 | 富岡製糸場

        Cimg2004

教科書に載っている錦絵で多くの人に知られている「富岡製糸場」。

明治維新後の官営工場の代表として取り上げられる「富岡製糸場」。

あァ聞いたことある、なんか絵も浮かぶ、という方が多いんじゃないでしょうか。



実際5年前の私もそうでした。

うちの先祖の速水堅曹さんが富岡製糸場の所長をしていた、と知ったときはあぁそうなんだ、と製糸場の存在は知っていたという程度でした。

富岡製糸場は明治5年(1872)、明治政府が群馬県富岡市に設置した製糸場です。

当時の日本は明治維新後急速に近代化を進めていた時期であり、その資金を稼いだのが最大の輸出品、生糸でした。ところがこの輸出ブームは粗製濫造を産みだし、急速に日本生糸の評価が下がりました。そこで政府は最新式製糸器械を備えた模範工場をつくり、生糸製造の改良を行うこととなりました。

工場建設は明治4年から始まり、翌年7月に竣工、10月には歴史的な操業が開始されました。繭を生糸にする繰糸工場には150台(300釜)の繰糸器が置かれ、約400人の工女達の手によって本格的な器械製糸が始まりました。 (群馬県HPより)

しかし、その製糸場が残っていると聞いた時はものすごく驚きました。

だって遠い遠い昔の建物で、とっくになくなっていてもおかしくない、むしろ残っているというほうがにわかには信じられないです。

でも、本当にほぼ当時の姿のまま残っていました。



私がはじめて富岡製糸場に行ったのは平成14年(2002)10月17日の夕方でした。

先祖調べをはじめてまだ一ヶ月。

その日は朝から群馬県立文書館へ行き、はじめて寄託されている速水家文書をみせてもらい、コピーをとって、夢中になって読んでいました。

帰り道ふと、まだ富岡製糸場の見学は間に合うかもしれないと思い電話をして確認。やはり一度は見ておこうとおもい、急いで向かいました。

当時は片倉工業(株)が管理をしており、平日外観だけ見ることができたのです。

あと30分ぐらいしかありませんでしたが、到着して門の中へはいりました。

はじめて見る製糸場。大きかったです。

見上げるようなレンガつくりの建物。

「明治五年」と書かれているキーストーン。

  Cimg1907

本当に昔のままなんだ。130年も前の建物なんだ。

まさかこんなにちゃんと残っているとは思ってもみなかった。一瞬にしてタイムスリップしたかのような感覚。

ということはこの建物の中で堅曹さんは仕事をしていた。この地面の上に立っていた。

この景色を、この空を眺めていた。

そう思っただけで感動というより感激してしまったのを昨日のことのように鮮明におもいだします。



あれから5年。

いろいろなことがありました。

はじめて見にいった頃はすでに昭和62年(1987)に製糸場の操業は停止していて、ただ建造物として片倉工業(株)が保存管理していました。年間莫大な費用をかけて。

そのためいつ壊されてもおかしくない不安定な状況でした。

私はいつまでも残してほしい、と心の底から願いました。

翌年の平成15年(2003)夏、群馬県知事から富岡製糸場を世界遺産に登録したいと提案があり、その方向で進んでいるという発表がされ、私は万歳をしました。

平成16年(2004)いよいよ世界遺産運動が県ではじまります。

私はいてもたってもいられず、なにか私のようなものでもお手伝いできないか、といきついたのが草の根ように県民に世界遺産運動を知らせて盛り上げていく、伝道師というボランティア活動でした。

それから群馬通いがはじまります。3日間の養成講座をうけ、研修も折々受講し、富岡製糸場のこと、世界遺産のこと、養蚕製糸のことを習いました。

駅でビラ配りをしたり、イベントのお手伝いをしたり。

そんな3年間をへて、昨年(平成18年)7月富岡製糸場は国の重要文化財に指定され、

今年(平成19年)1月みごと「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産暫定リストに記載されました。

うれしかったです。ドキドキして発表をまちました。


今の富岡製糸場。それはそれは見学者で大賑わいです。

だれもいなかった静かなたたずまいの5年前とは随分ちがいます。

つづく。