堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

橋本勘右エ門

2007-11-07 19:46:06 | お墓

このタイトルの人物は誰でしょう。

橋本勘右エ門とは堅曹さんの母まつさんの父親の名前です。

堅曹さんにとっては祖父となります。

先日川越の妙善寺で堅曹さんの父方の祖先のお墓を閉眼供養しましたが、それを終えてから同じ川越市内の橋本家を訪ねに行きました。

川越妙善寺の速水家のお墓を探し出したKさんが今回も下調べをしてくださり、案内してもらいました。



『速水家累代之歴史』に「入間郡藤倉村 橋本勘右エ門」と書かれているだけで、Kさんよく探し当てたものだと感服してしまいます。

まず『武蔵国郡村誌』で藤倉村の事を調べ現在の場所を確定しました。いまも藤倉という地名は残っていたのですが、そこには何軒もの橋本という家があったのです。

橋本家の現在の御当主の名前もわからないし、果たして勘右エ門さんの家がつづいてるのかどうかも知りません。

そこでKさん片っ端から橋本という家を訪ねて聞き込みを始めました。

そしてすぐそばにある共同墓地も探検。

すると橋本「新曹」というお墓を発見!これはあやしいと踏んだKさん、そのお墓の橋本さんの家を訪ねますが、あいにく留守でした。

今度は藤倉村を作ったという名主の藤倉さん宅を訪ねます。

その家には明治時代に作られた共同墓地の墓籍というものがありました。見せてもらうと「新曹」さんのお墓の場所に勘右エ門の名があり、堅曹さんの書き残した橋本家の系図と一致したのです。



そこまで調べてくださったので今回みんなで行ってみようということになりました。

橋本家をたずねるとご主人は仕事で留守でしたが、奥さんがでてきてくださいました。

初めは事情が飲み込めず訝しげでしたが、だんだんと先祖探しのことを理解してくださり昔のそのあたりの様子などを話してくださいました。

しかし家を建て替えたときに古いものはほとんど処分してしまい何も残っていないということです。

そして「新曹」さんの名前の由来は、結婚したときに義父(新曹)はもう亡くなっていたので聞いたことはないということでした。


つぎにみんなで共同墓地に行ってみました。

Cimg1867 橋本家の墓

橋本家のお墓も昔の人のは一人一基なので、どれが勘右エ門さんのかわからず、没年で確認していきました。

Cimg1863 橋本勘右エ門の墓

新曹さんのお墓には行年と没年が書かれていたので、逆算してみて、堅曹さんの亡くなった翌年に生まれていることがわかり、絶対に「曹」は堅曹からとっていると皆で確信しました。



この日は速水家の祖先のお墓、そして堅曹さんの母方の祖先のお墓と両方お参りすることが出来、とてもいいご供養をさせてもらいました。


角田柳作

2007-11-03 00:30:16 | 勉強会、講演会

10月30日早稲田大学125周年記念シンポジウム

「角田柳作-日米の架け橋となった“Sensei”」に行ってきました。

   Cimg1884



「原三溪市民研究会」でお世話になっている内海孝先生が長年研究なさっているもう一つのテーマ、角田柳作について発表なさるというので聞きにいきました。

翌日の上毛新聞にもこのシンポジウムの記事が出ていたそうで、角田柳作は群馬県出身です。


明治10年(1877)赤城町で生まれ、富岡の親戚の家から北甘楽第一小学校へ通い、県立前橋高等学校に入学、その後東京専門学校(早稲田大学)にはいり、卒業。

雑誌編集者や中学校教員などをへて、アメリカ合衆国に渡り、コロンビア大学を中心に日本学研究の種をまき、ドナルド・キーン氏をはじめ多くの一流の日本研究家を育てた。

昭和39年(1964)ホノルルにて死去。



「日本学の祖」といわれ、コロンビア大学では今でも「せんせい」といえば角田先生にきまっているといわれるほど、その授業の内容、熱心さにおいて尊敬の念と親しみをこめて慕われています。



当日は朝10時より、

内海孝(東京外国語大学教授)

     Cimg1878

和田敦彦(早稲田大学准教授)

ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授)の講演がおこなわれ、、

     Cimg1881



午後は

ウイリアム・T・ド・バリー(コロンビア大学名誉教授)(録画)

甲斐美和(元コロンビア大学図書館司書)(録画)

のインタビューが上映され、



その後午前の講演者と子孫の角田修氏を加えてのパネルディスカッションがおこなわれました。

     Cimg1888

充実した内容でした。



直接堅曹さんの先祖調べとは関係のないシンポジウムですが、どうしても行ってみたいと思いました。

その功績に比してあまり知られていなかった角田柳作を調べるために、先生たちは足跡をつぶさに訪ねて、次々と新しい史料を掘り起こしています。

そして御子孫の修氏が素人ながら資料をまとめられたり発掘したりしています。

そうやって今回のシンポジウムが開催できるまでに研究をすすめられた経緯に私は堅曹さんの史料探しとの共通点をひそかに見出し、心ひかれるものがありました。

生前お会いしている方達(キーンさんやド・バリーさん、甲斐さん)の角田柳作に対する愛情と長年研究している先生方の角田柳作のことをもっと知ってほしいという情熱が感じられた、気持ちのいいシンポジウムでした。



おまけ

ちょうどシンポジウムの終わる頃、早稲田大学の東京六大学野球のリーグ優勝が決まり、凱旋パレードをしながら戻ってきた野球部の優勝報告会もついでに見てきました。

モチロン斉藤君いました!

     Cimg1895


速水家 略系図

2007-11-02 20:44:38 | 資料

群馬のIさんから「川越 妙善寺」の記事について次のようなコメントをいただきました。

様々な困難を押しのけてのルーツ探訪ご苦労様です。ところで川越で発見された三基の墓石が4~6代のものであり、初代・2代が白河、3代が姫路と有りますが、ここで分かりやすく系図を書いて頂きたいと思います。別けても「三輪政吉」と言う人はどういう人で、何代目に当たるのか(門外漢には)分かりません。よろしくお願いします。

説明不足でした。



速水家は初代以来、代々松平氏(結城系、直基を初代とする譜代藩)の家臣で、藩主の移動と共に各地に移っています。

速水家の略系図載せます。(『速水家累代之歴史』より)

   初代 ~ 速水政義 〔元禄13年(1700) 奥州白河にて没〕

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   二代 ~ 三輪政法 〔元禄15年(1702) 奥州白河にて没〕

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   三代 ~ 三輪政勝 〔寛保4年(1743) 播州姫路にて没〕

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   四代 ~ 三輪政吉 〔天明元年(1781) 武州川越にて没〕

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   五代 ~ 速水戍信 〔文政10年(1827) 武州川越にて没〕

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   六代 ~ 速水政信 〔嘉永2年(1849) 武州川越にて没〕

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   七代 ~ 速水堅曹 〔大正2年(1913) 横浜にて没〕

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二代、三代、四代が「三輪」姓である理由は、『速水家累代之歴史』にはこう書いてあります。(筆者解釈文)

初代速水政義は鉄砲先筒組であり、砲術が上手であった。

ある時主君の鷹狩先において鉄砲を試してみたところ、みごと鳥を撃ち落した。

主君が「彼身者炮術ニ妙ナリ」(かのみはほうじゅつにたえなり)と言ったので、重臣がその言葉(「みは」)をとらえ、おまえにはありがたいことだからこれから姓は「三和」にしなさいと勧めた。

それで名字を「三輪」と改めた。

こうして名字が「三輪」となりそのまま二代、三代、四代と続いていきます。

そして五代の戍信のとき「三輪」姓をもとの「速水」に戻したと記されています。



これでお解かりになりましたでしょうか。